7話
【第7話:聖なる絶望、白銀の降臨】
マスターの一閃によって切り刻まれた黒い泥。
勝利を確信した一同の前で、塵となったはずの「それ」が、光の粒子を放ちながら再構築を始めた。
だが、現れたのは黒い泥ではない。
眩いばかりの白銀の光が広場を埋め尽くし、やがて光が収まった中心に、彼女——あるいは彼はいた。
「……えっ? 天使?」
スージーが、思わず剣を下げて呆然と呟く。
そこにいたのは、幾重もの純白の翼を背負い、慈愛に満ちた瞳を湛えた、息を呑むほど美しい「天使」だった。
魔王城の中から、魔王でも堕天使でもなく、一点の曇りもない神聖な存在が降臨したのだ。
「バカな。邪悪な気配が、一欠片も感じられないッ!」
ルカが震える声で大剣を握り直す。
天使は何も語らず、ただ静かに慈悲深い微笑みを浮かべた。
だが、その背後に浮かぶ『天を突く方舟』が、彼女の存在に呼応するように激しく明滅し、王都全土に「ひざまずけ」と言わんばかりの圧倒的な神威を撒き散らす。
「——む。これは、俺の朧月でも少々アレは厄介かもしれんな」
最強のマスターの表情が、初めて険しくなった。
物理も魔法も効かないネバネバの正体は、この世界の「善」そのものを凝縮した、不可侵の聖域だったのだ。
天使がゆっくりと、空に向かって白く細い手を差し伸べる。
その指先が、その瞳が、浄化の蒼白い炎によって審判が下される、その時——。
「あれ、エルくん?こんな所にいたんだ」
戦場のど真ん中。
天使とマスターの間に、のんびりとあくびをしながら、銀狼に乗った少年が「滑り込んで」きた。
その腰には、修道院の扉を守っていた、あの煤けた『つっかえ棒』が差し込まれたままで。
【聖なる歌声、ひだまりの少女】
王都の広場に、それまでの沈黙を破るような、震えるほどに美しい「歌声」が響き渡った。
それは降臨した天使が放つ、魂を直接揺さぶるような聖歌。
「ッ、何、この歌。身体が、勝手に」
ルカが剣を杖にして、かろうじて立っている。その歌声は、聞いた者の意志を奪い、強制的に「浄化」という名の虚無へといざなう。
王都中の人々が膝をつき、祈りを捧げるように頭を垂れていく。それは慈悲に見えて、その実、個人の心を消し去る恐ろしい権能だった。
そんな、すべてが白く塗りつぶされそうな光景の中で。
レンは、かつて隠れ家の庭で見た、ある午後の光景を思い出していた。
————それは、レンが修道院を出て、ミズキと暮らし始めて間もない頃のこと。
「ん。ミズキ、お茶が入ったよ」
レンがいつものように声をかけ、中庭の奥へ入った時。
そこには、いつもの活動的な服を脱ぎ、風通しの良い白い薄衣を纏って、咲き誇るハーブに水をやるミズキがいた。
陽光に透ける柔らかな髪、そして、いつもは中性的に見えていたその身体の、しなやかで優しい曲線。
ふわりと舞った花びらが、彼の肩に落ちた瞬間。
「あ。ミズキ、女の子、だったんだね」
レンが素直に、ぽつりとこぼした。
ミズキは少しだけ驚いたように目を見開き、それから、いたずらっぽく、それでいて慈愛に満ちた「少女」の顔で笑ったのだ。
「ふふ、気づくのが少し遅いですよ、レン。ですが、私は私です。貴方の姉であり、師であり、そして……この草花を愛する一人の人間であることに、変わりはありません」
その時、彼女がレンに向けた微笑みは、目の前の「天使」が放つ完璧な光よりも、ずっと温かく、レンの心を救ってくれた。
(そうだ。ミズキの光は、あんなに冷たくない)
—————————
天使の歌声が世界を支配しようとしたその瞬間……
『ミズキ』が、静かにその唇を開いた。
「少し、騒がしいですね。私の、大好きなジャガイモの芽が、驚いてしまいますよ」
ミズキが放ったのは、魔法でも聖歌でもない。
ただ、植物の成長を見守るような、穏やかで絶対的な「愛」の波動。
その一瞬で、天使の歌声は、初夏の午後の微睡みのような安らぎへと上書きされていった。
【いつもの二人、いつもの空気】
天使が放つ白銀の輝きが、王都を非現実的な美しさで塗りつぶしていく。
最強のマスターが口を真一文字にして空を睨みつけ、ルカやスージーが息を呑んで見上げる絶望的な光景。
そんな、世界の終わりを予感させる静寂の中に。
パタ、パタ、と。
まるで近所に回覧板でも届けに来たかのような、軽い足音が混じった。
「おや。レン、まだ始めていませんでしたか」
ふわりと、戦場の重苦しい魔力をかき消すように、お茶の葉の爽やかな香りが広がった。
現れたのは、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべたミズキだ。
彼女は、天使の神々しい威圧感など全く気にする様子もなく、のんびりとレンの隣に歩み寄る。
「あ。ミズキ。うん、今来たところだよ」
「ふふ、それなら良かったです。お湯が沸くまでに、少しだけここを片付けてしまいましょうか。このままでは、帰りに美味しいお芋を買う店が閉まってしまいますからね」
ミズキはそう言って、袖を少しだけ捲り上げた。
彼女の周囲には、黄金の鎖も、おどろおどろしい魔力も現れない。
ただ、彼女がそこに立つだけで、荒れ狂っていた気流が凪ぎ、刺さるような天使の光が、木漏れ日のような柔らかさに変わっていく。
「ミズキ、ボクがやった方がいい?」
「いいえ。たまには、私におもてなしをさせてください。貴方はそこで、オグリさんと一緒に今日の夕飯の献立でも考えていてくださいな」
ミズキはレンの頭を、弟を慈しむように優しく撫でた。
一人で世界を支えてきた孤独な触媒でもなく、世界を滅ぼす魔王でもない。
ただ、隠れ家で共にハーブを育てる、いつもの二人。
「さあ。少しだけ、静かにしてもらいましょうか」
ミズキが、まるで部屋のカーテンを閉めるような、ごく自然な動作で空中に手をかざした。
その指先から零れたのは、魔力というよりは「慈しみ」に近い、温かな光の粒だった。




