5話
【第5話:空の激震、円卓の喧騒】
王都全土に、空気が軋むような低い振動が響き渡っていた。
アイギス城の円卓会議室は、もはや会議の体をなしていない。
「報告しろ! 何が起きている! なぜ方舟が動いているのだ!」
「飛行部隊は!? 観測班は何をしていた!」
大臣たちは顔を真っ白にして、ある者は机を叩き、ある者は窓にしがみついて震えている。彼らにとって、方舟は「そこにあるのが当たり前の風景」だった。それが動き出したという事実は、世界のルールが崩壊したも同然だったのだ。
「全軍に非常警戒態勢を敷け! 王都への落下、あるいは攻撃の可能性は——」
「落ち着きなさい、……見苦しいねぇ」
ヒステリックな怒号を切り裂いたのは、椅子の背もたれに深く腰掛け、悠然と煙管をくゆらすイゾルデの声だった。
「イゾルデ殿! これを落ち着けと言うのか! あの巨大な質量が動き出したんだぞ!」
「だから言っただろう? 『物差しからはみ出した』のが動き出したんだよ。騒いだところで、あんたたちの魔法や大砲があれに届くのかい?」
イゾルデの隣で、『盲目の聖魔導師』シオンが静かに天を仰いでいた。
その瞳は何も映さないはずなのに、彼女は誰よりも鮮明に「空の意思」を感じ取っているようだった。
「怖がる必要はありません。あれは、呼び声に応えただけ。……懐かしい『主』が、扉の鍵を開けたのです」
「呼び声……? 鍵だと!? 一体何の話をしているんだ!」
大臣たちが再び騒ぎ出す中、部屋の入り口に立っていた『烈日』のルカが、背中の大剣をガチリと鳴らした。
その瞳には、恐怖ではなく、どこか呆れたような、そして期待に満ちた色が宿っている。
「ったく。あいつ、お散歩のついでに、とんでもない事をしてきやがったな」
ルカは窓の外、夕闇に溶けながら動き続ける方舟を見つめ、不敵に笑う。
王国のトップたちが震える中で、超越者たちだけは確信していた。
この激動の引き金を引いたのは、道の端っこにしゃがみ込んでは草花を眺め、王都の隠れ名店を通いすぎてちょっと顔が丸くなった、あの少年であることを。
【地下界隈の覇者】
王都が未曾有のパニックに陥り、クラン『暁の先駆者』のメンバーが殺気立つ中、資料室の隅で一人、体育座りで「王都名物・揚げ芋」をバリバリと咀嚼している男がいた。
転生して46年、マエダ。自称・地底現場の古参ガチ勢だ。
「……あー、はいはい。来ちゃいましたか。全王都民が釣られるタイプの『クソデカ・メジャー現場』ね」
マエダは窓の外、悠然と空を滑る『天を突く方舟』を眺めながら、不快そうに鼻を鳴らした。
「マエダさん! みんな出撃してるんですよ! 何してるんですか!」
血相を変えて飛び込んできたリア(20才)に、マエダは視線すら合わせず、手のひらをヒラヒラと振ってみせる。
「リア氏、君は相変わらず『解像度』が低いねぇ。あんな物理的にも身分的にも雲の上の連中に群がって何が楽しいわけ? 爵位持ちの令嬢? どこぞの姫君? ……いや、無理。完成品は胃もたれするわ。僕が求めてるのは『未完成の衝動』から沸き立つ『庶民でミンミン』だからなッ」
マエダはハァ……と深くため息をつき、早口でまくしたてた。
「いいかい。あんな煌びやかなステージより、宿屋で健気に働く給仕の娘さん、ギルドの奥深くで誰とも目を合わせず、無愛想に書類を仕分けているだけの事務員さんとか……そういう『生活圏内の奇跡』の方が、よっぽど尊いでしょう? 誰にも見つかっていない町娘の労働風景こそが、至高のステージ。メインストリームの光で目が潰れたニワカどもには、一生理解できないだろうけどね」
「……もういい! あんたのキモい持論に付き合ってる暇はないわよ!」
リアがゴミを見るような目で吐き捨て、部屋を飛び出していく。だが、マエダは悦びに満ちた表情で立ち上がった。
「フヒッ……これだからメジャー専は困る。地殻変動で揺れてる今、一番不安なのは現場(ギルドの隅)で働く彼女たちなんだよ。……さて、僕も『最前』に行くとしますか」
マエダは壁に貼られた「未記入のギルド申請書(推しの筆跡)」に深く一礼すると、バサリとコートを翻し、颯爽と資料室を後にした。
誰もいなくなった、静まり返った資料室。主を失った机の上には、聖地にしか存在しないはずの、あの——。
————『マエダのBOXティッシュ』
それが一筋の陽光を浴び、ただ静かに鎮座していた。
【巨神の胎動、凍てついた空】
それは、修道院の入り口でレンが何気なく「つっかえ棒」を引き抜いた、その瞬間のことだった。
数千年の間、王都の空に「背景」として貼り付いていた巨大な影——『天を突く方舟』。
その冷徹な鋼鉄の船体が、内側から脈動するように、青白い燐光を放ち始めた。
ゴゴゴゴ……という、地鳴りよりも低い、世界の深淵から響くような重低音。
「——全システム、再起動。鍵の解錠を確認。……主の帰還に備えよ」
無人のコントロールルームで、古代の魔導回路が一つ、また一つと点火していく。
方舟の周囲を覆っていた「魔法無効化」の障壁が、あまりに強大な魔力密度によって目に見えるほどの雷光へと変わり、空をズタズタに切り裂いた。
「なっ……なんだ、あの光は!?」
地上から見上げれば、ただの異変。
だが、方舟の甲板からすれば、それは世界そのものを押し潰すような「重力の変質」だった。
巨大な船体が、ゆっくりと、しかし確実に傾く。
数千トンの鋼鉄が空気を削り、積もりに積もった濃密な雲を、巨大な刃のように一刀両断にしていった。
キィィィィィィン————ッ!!
空気が軋む。
障壁に触れた鳥たちが塵へと還り、方舟が移動するたびに生じる衝撃波が、王都の建物の窓をガタガタと震わせる。
空に刻まれた「絶対の不動」が今、猛り狂う獣となって王都の真上へと滑り出していた。
それは、かつてこの空を支配していた魔王の座。
誰にも触れられず、誰にも落とせなかった「空の絶対者」が、何かに呼ばれるようにその巨躯を地上へと向けたのだ。




