4話
【4話:雷鳴の記憶、光の神託】
—————————
——それは、今から十数年前。
王都の隅にある修道院が、まるで世界が壊れるかのような豪雷に震えていた夜のことだった。
夜空は分厚い雲に覆われ、絶え間なく降り注ぐ雷光は、まるである一点を執拗に狙い撃ちしているかのように、修道院の門前を白く焼き続けていた。
「……ッ、何事です!? この嵐は……!」
老婆のような姿をしたがマザー・スーペリアが、重い扉を開けた。
そこには、泥と雨に塗れ、正体不明の威圧感を放つローブを羽織った何者かが立ち尽くしていた。
腕の中には、布に包まれた小さな塊——生まれたばかりの赤子が抱えられている。
「……これを、頼む」
声は、雷鳴にかき消されそうなほどか細かった。
困惑するマザー・スーペリアの手の中に、赤子と、ずっしりと重い数枚の金貨、そして……古びた、けれど不思議な熱を帯びた「杖のような棒」を強引に押し付けた。
「待ちなさい! 貴方は一体……!」
問いかけに答えることなく、再び嵐の闇の中へと消えていった。
その者が去ったその瞬間、あれほど狂ったように荒れ狂っていた空が、嘘のように静まり返る。
分厚い雲が割れ、月が顔を出すよりも早く。
天の頂から、一筋の清浄な光が真っ直ぐに降り注ぎ、マザー・スーペリアの腕の中にいる赤子——を優しく照らし出した。
それは、神の祝福か、あるいは何かの「契約」の始まりか。
赤子の小さな手は、正体不明の者が残していったその「棒」を、まるでもう何年も握りしめていたかのように、ぎゅっと掴んでいた。
—————————
【再会の扉、落書きの記憶】
「ん。ウェンディさん、ただいま。今日のご飯、お芋かな?」
レンがひょいと顔を出すと、ウェンディは調理場で大きな鍋をかき混ぜながら、呆れたように笑い声を上げた。
「おや、おチビちゃん。またその鼻を利かせてやってきたのかい? 貴方は王都でハーブを売っているのか、美味しいものを探して歩いているのか、どっちなんだい?」
「ふふ。どっちもだよ。あ、この柱の傷、ガンスさんと喧嘩した時のだよね。懐かしいなぁ」
レンが食堂の入り口にある、少し剥げた木柱を指先でなぞる。
「ああ、あの時は大変だったよ。レンが泣きべそをかきながら、ボクの芋に手を出すなーて叫んでたっけ。……いいかい、おチビ。今日はもうすぐお芋が茹で上がるけど、食べ過ぎるんじゃないよ。ただでさえ、最近少し顔が丸くなったんじゃないのかい?」
「え。そうかな。毎日、お散歩してるから大丈夫だと思うけど……」
頬を膨らませて言い張るレンの横で、オグリがトボトボと歩き回り、壁の落書きを眺めている。
「あ。こっちの壁……。ボクが描いた、オグリの絵だよね」
『ぬ。これでは、狼ではなくただの六角形ではないか』
他愛のない会話。
そんな時間が、レンにとってはハーブティーと同じくらい心を落ち着かせてくれる。
「あ、そういえば、ウェンディさん。ボクが昔、よく振り回してた、あの棒まだ、あるかな」
レンが、ふと思い出したように尋ねる。
「棒……? ああ、あの煤けた枝かい。ええ、確か……。ああ、あそこだよ。扉が勝手に閉まらないように、つっかえ棒にしてるはずだよ」
ウェンディが指差した先。
玄関の扉の隙間に、斜めにぐいっと押し込まれた、何の変哲もない一本の棒。
「あ。本当だ。相変わらず、ちょうどいい長さなんだね」
レンは歩み寄り、ひょいとそれを引き抜いた。
バタン!と、扉が大きな音を立てて閉まる。
「これ、また使ってもいい? ちょっと、色々とするのにちょうど良さそうなんだ」
「ええ、構わないよ。また新しいつっかえ棒を探すだけだからね」
レンは、扉を支えていた汚れをパンパンと手で払い、その棒を腰の帯に無造作に差し込んだ。
伝説の魔杖か、あるいは世界の理を書き換える筆か。
けれど、今のレンにとっては、懐かしい場所の空気と思い出を繋ぐ、ただの「いつもの棒」だった。
【整う家、ざわめく空】
ミズキの一日は、空気の入れ替えから始まる。
レンが「つっかえ棒」を回収しに修道院へ向かっている間、ミズキは一人、隠れ家の「整理」に没頭していた。
「ん。この棚は、あと三ミリ右ですね」
独り言を漏らしながら、指先一つで重厚な家具を動かしていく。
次は床の掃除だ。膝をつき、木目の美しさを引き出すように丁寧に磨き上げる。
さらに部屋の模様替え。ハーブの鉢植えの向きを、太陽の角度に合わせて一ミリ単位で調整する。彼にとって、部屋を整えることは、自らの内面を整えることと同義だった。
「ふぅ。これでようやく、今日のお茶が美味しくなります」
一通りの作業を終え、ミズキは満足げに腰を伸ばした。
室内は、塵一つない清浄な空気で満たされている。
ミズキはいつものように、お気に入りの茶器を並べ、お湯が沸くのを静かに待ち始めた。
だが——その平穏な静寂が、不意に揺らいだ。
「…………?」
窓から差し込んでいた明るい陽光が、ふっ、と一瞬だけ遮られた。
それは、大きな雲が太陽を横切ったかのような、ほんの数秒の影。
ミズキは沸き立ち始めた鉄瓶の音を聞きながら、静かに窓の外へと視線を向けた。
遥か高天に浮かぶ、『天を突く方舟』。
それは今まで、数千年の間、一度として位置を変えなかった不動の巨影。
だが、今。その巨大な船体が、まるで重い眠りから覚めたかのように、ゆっくりと、しかし確実に空を滑り始めていた。
「……おや。あんなに高い場所にあるというのに、もう足音が聞こえてきますか」
ミズキは微かに目を細め、空の端に目をやった。
方舟が動き出したことで、空の雲が引きちぎられ、見たこともない気流が王都の空をざわつかせている。
「……さて。お湯が沸きましたね。レンが帰るまでに、とっておきの茶葉を選んでおきましょうか」
ミズキは空の異変から視線を外すと、何事もなかったかのように、また穏やかな所作でお茶の準備へと戻った。
だが、その瞳の奥には、これから訪れる嵐を予見したような、鋭い光が静かに宿っていた。




