006 太陽の刀を振るう女
恋は盲目という言葉があるけれど、正確には違うと思う。
恋とは「見たいものしか見えなくなるフィルター機能」のことだ。ベティにとってのグレンは、まさにそれだった。彼がどれほど傲慢でも、どれほど残酷な真実を突きつけられても、彼女はそのフィルター越しに「可哀想なグレン様」という幻影を見続けていた。
だから彼女は、鳴上修を奈落の底へ突き落とすことにも、大して罪悪感を抱いていなかったのだ。自分が愛する人のためなら、他人の人生などどうでもよかった。
だが今、その分厚いフィルターが、目の前で起こった圧倒的な暴力によって粉々に叩き割られようとしていた。
「ヒィッ……あ、ああ……」
目の前で頭を潰されたブロムの死体。飛び散った血と肉片が、ベティの美しい顔や衣服を汚している。
ゆっくりと近づいてくる鳴上修。彼が足を踏み出すたびに、床に落ちたブロムの血が、黒いタールのような泥に浸食されていく。
「来ないでっ! 化け物!」
ベティは半狂乱になりながら、手にした陽刀『火蔵』に魔力を込めた。
彼女は太陽の力を持つアタッカーだ。その刀身から放たれる炎は、アルミアの魔法とは比べ物にならないほどの超高温を生み出す。
「燃えなさいっ! 陽炎舞!」
ベティが刀を振り抜くと、部屋中を飲み込むほどの巨大な炎の渦が鳴上に向かって放たれた。酒場の木製の壁が瞬時に炭化し、空気が熱で歪む。
直撃。
鳴上の身体は炎に包まれ、文字通り火柱となった。
「やった……やったわ……!」
ベティは荒い息を吐きながら、刀を構えたままへたり込んだ。どんなアンデッドでも、この太陽の炎を浴びて無事でいられるはずがない。
しかし。
「熱いですね」
炎の中心から、ひどく落ち着いた声が聞こえた。
「でも、僕が背中に押された『封印の紋』の熱さに比べたら、ぬるま湯みたいなものです」
炎を押し退けるように、黒い泥の触手が四方八方に伸びていく。
鳴上が炎の中から歩み出てきた。彼の衣服は燃え尽き、皮膚はドロドロに溶けて骨が露出している部分すらあった。だが、それ以上の速度で、黒い混沌の泥が肉を再構築していく。
焼け爛れた顔の右半分から眼球がポロリとこぼれ落ちたが、すぐに泥が新しい眼球を形作った。
「えっ……う、嘘でしょ……?」
「ベティさん。あなたは太陽の力を持っていて、それ故かいつも明るかった。でも、僕の恨みは、光の届かない場所で……ずっとドロドロと煮詰まっていたんですよ」
鳴上は一瞬で距離を詰め、ベティが振り下ろそうとした陽刀の白刃を、素手でガシッと掴んだ。
「ジューッ」という肉が焼ける嫌な音が響き、鳴上の掌から煙が上がる。
「熱っ……! 離しなさいよ!」
「離しませんよ」
鳴上はニコリと笑い、握りしめた手に力を込めた。
パキィッ!
太陽の力を宿すはずの名刀が、まるでガラス細工のようにあっけなく砕け散った。
「あ……」
最大の武器を失い、ベティは完全に絶望に染まった顔で後ずさった。
壁に背中を打ち付け、もう逃げ場はない。
「や、やめて……お願い、鳴上。謝るわ、私が悪かったの。グレン様に言われて、逆らえなくて……」
「嘘ですね」
鳴上は冷たく言い放ち、ベティの顔の横、壁の木板にドンッと拳を突き立てた。
「あなたはグレンの綺麗なところしか見ていなかった。彼が犯した罪からも、自分自身が僕を売り飛ばした現実からも目を逸らしていた。そうでしょう?」
「ち、違う……!」
「違わないですよ。タルタロスの牢獄で、極悪人たちに指の爪を一枚ずつ剥がされていた時、僕はずっと考えてました。どうしてあんな女の都合のいい妄想のために、僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだって」
鳴上の黒い泥が、ベティの足元から這い上がり、彼女の太ももや腰に絡みつき始めた。
「ヒィィッ! いやっ、触らないで!」
「安心してください。あなたのその小奇麗な体には、興味ありませんから。僕が興味があるのは、あなたがどこまで彼を直視できるか、です」
鳴上はベティの髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「グレンは今、王城で震えてますよ。仲間が次々と死んでいくのを知って、自分の番が来るのを怯えながら待ってる。滑稽ですよね」
「グレン様……」
「これから彼のもとへ行きます。最後の仕上げにね。でも、その前に……」
鳴上は、ベティの美しい顔に顔を近づけた。
「あなたも連れて行ってあげましょうか。愛する人の最期を見届けるのが、仲間としての務めでしょう?」
「え……?」
「でも、全身を持っていくのは重いので。サポーターとして、運ぶ荷物は最小限にしないとね」
鳴上の右手が、ベティの首筋に添えられた。
「嫌……いやぁぁぁぁぁっ!」
ベティの絶叫は、一瞬で途切れた。
肉が裂け、骨が砕ける鈍い音。
鳴上は、ベティの頭部を脊髄ごと引き抜いた。美しい金髪が血で濡れ、彼女の顔には死の恐怖が張り付いたまま固定されていた。
首を失った胴体が、力なく床に崩れ落ちる。
「うん、これなら軽い」
鳴上は、血をしたたらせるベティの生首を提灯のようにぶら下げながら、満足そうに頷いた。
酒場の外に出ると、雨はいつの間にか止み、雲の隙間から冷たい月明かりが差し込んでいた。
テッド、アルミア、タバト、ブロム、ベティ。
歯車は全て破壊した。盾も、剣も、魔法も、暗殺の刃も、全て混沌の泥の底に沈んだ。
残るはただ一人。この悲劇と喜劇の元凶。
「待っていてくださいね、グレン。とびきりのお土産を持って、今から会いに行きますから」
鳴上は、愛する仲間の生首をぶら下げながら、鼻歌交じりで王城へと歩き出した。




