003 傲慢に満ちた魔女
魔法の素晴らしいところは、面倒な手順をすっ飛ばせる点にある。
マッチを探さなくても指先一つで火が点くし、長い年月をかけて信頼を築かなくても、少しの呪文と色仕掛けで男を都合よく操れる。アルミアにとって、人生のほとんどの事象は『魔法』という名のショートカットで解決できるものだった。
だから彼女は、魔法を使えない人間を根本的に見下している。たとえば、剣を振り回すだけの暑苦しい戦士や、チマチマと機械を弄るオタク、そして――戦う力すら持たない、ただの荷物持ちのサポーターなどを。
「ねえ、グレン。いつまでそんな顔をしているつもり? せっかく私が来てあげたのに、ベッドの端っこで丸まってる勇者様なんて、絵にならないわよ」
王城の最上階。限られた賓客のみが足を踏み入れることを許される、豪奢な特別室。
アルミアはシルクのガウンを無造作に羽織り、ワイングラスを傾けながら、部屋の隅で膝を抱える金髪の青年を冷ややかな目で見下ろしていた。
魔王ダゴンを打ち倒し、世界を救った光の勇者グレン。
だが今の彼は、英雄の面影など微塵もない、ただの怯える小動物だった。
「ル、ルルが……いるんだ……」
グレンは焦点の定まらない目で、虚空を指差した。
「あそこに……血まみれのルルが立って……俺を、恨めしそうに見ている。俺が、俺が殺したから……!」
「幻覚よ。お酒の飲み過ぎ。それに、王女様は鳴上修にレイプされて殺されたことになっているでしょ? 王国中の誰もがそう信じて、今日、盛大に処刑が行われたじゃない」
「ち、違う! 俺だ! 俺がやったんだ! だからアイツは……」
「うるさいわね」
アルミアは溜息をつき、指先で小さく弾くような動作をした。
パチン、と軽い音がして、目に見えない衝撃波がグレンの頬を張り飛ばす。
「痛っ……!」
「少しはシャキッとしなさいよ。あなたがそんな調子じゃ、こっちが脅迫している甲斐がないじゃない。英雄様が人殺しの強姦魔なんてバレたら、私たちまで同罪で首が飛ぶのよ? だから、大人しく私に飼われていなさいって言ってるの」
アルミアはグレンの胸ぐらを掴み、ベッドに押し倒した。そして、その首筋に自分の唇を這わせる。
「ほら、王女様の幻覚なんか忘れて、私にすがりなさいよ。魔法で気持ちよくしてあげるから」
「ア、アルミア……」
グレンの瞳に、絶望と情欲が入り混じった濁った光が宿る。
そう、これでいい。男なんて単純な生き物だ。少しの恐怖と、圧倒的な快楽を与えれば、いとも簡単に手懐けられる。アルミアが勝ち誇った笑みを浮かべた、その時だった。
コツ、コツ。
背後から、ガラスを叩く音がした。
アルミアは動きを止めた。ここは王城の最上階だ。バルコニーの外側には空しかない。鳥でもぶつかったのだろうか。
コツ、コツ、コツ。
違う。規則正しい。それは明らかに、誰かが窓ガラスをノックしている音だった。
「……なに?」
アルミアが苛立たしげに振り向く。
バルコニーの大きな窓ガラスの向こう。雨に濡れる夜の闇の中に、一人の男が立っていた。いや、正確には「張り付いていた」。
雨ざらしのボロ布を纏った青年が、重力を無視して垂直な外壁に靴底をつけ、窓を覗き込んでいるのだ。
「こんばんは。ルームサービスです。頼んでませんか?」
男はニコリと笑い、施錠されているはずの窓の鍵を、ガラス越しに黒いタールのようなものを浸透させてあっさりと開けた。
音もなく室内へ足を踏み入れたその顔を見て、グレンがヒッ、と喉の奥で悲鳴を上げた。
「な、な……」
「おや、グレン。奇遇ですね。こんな夜遅くに、魔法の個人レッスンですか? 熱心だなぁ」
アルミアは自分の目を疑った。
そこに立っているのは、間違いなく鳴上修だった。だが、ありえない。彼は今日の昼間、リンド城前広場で首を刎ねられたはずだ。この目で確かに見た。
なのに、なぜここにいる? そして、その首筋にある不気味な縫い目はなんだ?
「あんた……鳴上? 生きてたの? どうやって……!」
「どうやって、と聞かれると難しいですね。強いて言うなら、神様からの特別手当みたいなものです」
鳴上は靴についた泥を気にする素振りも見せず、高級な絨毯の上を歩いてくる。
「いやぁ、王城の壁を登るのって結構大変ですね。サポーター時代に荷物担いで山登りさせられた経験が、こんなところで活きるとは思いませんでした」
「来るなっ! 化け物め!」
グレンは錯乱したように叫び、ベッドシーツを被ってガタガタと震え出した。
アルミアは咄嗟に後ずさり、両手に膨大な魔力を集中させた。
「何が起きたのか知らないけど、死人がしゃしゃり出てこないでよ! アンタなんか、一瞬で灰にしてあげるわ!」
詠唱すら省略した、アルミアの最強の攻撃魔法。
極大の火球が、室内の空気を焼き焦がしながら鳴上へと放たれた。
ゴォォォォォッ!
爆音が響き、鳴上の身体が紅蓮の炎に包まれる。
絨毯が焦げ、高価な調度品が溶ける。確実に炭化したはずだ。アルミアは荒い息を吐きながら、炎が収まるのを待った。
だが。
「アルミアさん。相変わらず、火力が雑ですね」
炎の中から、焦げた肉の臭いを漂わせながら、鳴上が歩み出てきた。
顔の右半分は焼け爛れ、眼球が溶け落ちている。だが、その傷口からはどす黒い泥のようなものが這い出し、瞬く間に新しい皮膚と眼球を形成していった。
「え……!?」
「これじゃあ、外側だけ焦げて中まで火が通ってないですよ。料理なら落第点ですね」
鳴上は平然とした声で言いながら、アルミアの首を片手で掴み上げ、空中に吊るし上げた。
「ガハッ……! はな、せ……っ!」
「魔法って便利ですよね。魔力を練るだけで何でもできる。地道に歩くしかないサポーターから見れば、本当に羨ましい限りでしたよ」
鳴上の瞳が、三日月のように細まる。その奥には、一切の感情を欠いた混沌の泥が揺らめいていた。
「でもね。いくら便利でも、器が壊れたら使えないでしょう?」
鳴上の空いたもう片方の手が、アルミアの右腕を掴んだ。
メチャリ。
嫌な音と共に、アルミアの右腕が手首から先だけ、まるで果実を握り潰すように粉砕された。
「ギャアアアアアアアッ!?」
「あ、ごめんなさい。指先だけ折るつもりが、ちょっと力加減間違えちゃいました」
「痛いっ! 痛い痛い痛いっ! やめて、お願い、許してっ!」
「許す? 誰が誰をですか?」
鳴上は首を傾げた。
「アルミアさん。あなた、僕がタルタロスに送られる時、なんて言ったか覚えてますか?」
――サポーターのくせに、やっと役に立ったじゃない。私たちの代わりに泥を被ってくれて、ありがとう。一生そこで腐っててね。
「あなたたちは、僕をゴミのように捨てた。だから、僕もあなたをゴミとして処理しているだけですよ。分別はしっかりしないとね」
鳴上はそう言うと、今度はアルミアの左腕を掴み、雑巾でも絞るようにねじり切った。
絶叫。血しぶきが、部屋の白い壁を斑模様に染め上げる。
「あ、あぁ……あぁぁっ……!」
ベッドの上でシーツを被っていたグレンは、その隙間から惨劇を覗き見し、恐怖のあまり失禁していた。かつて魔王にすら立ち向かった勇者が、今はただの臆病な子供のように泣きじゃくっている。
「勇者様、そんなところで震えてないで、助けてあげたらどうですか?」
鳴上は、両腕を失い痙攣するアルミアを片手で吊るしたまま、グレンの方を振り返った。
「仲間のピンチですよ? あぁ、無理か。王女を殺して仲間に罪をなすりつけるようなヘタレですもんね。自分の保身しか頭にないんだ」
「ひぃっ、く、来るな……俺は悪くない、俺は……!」
「安心してください。今日はルームサービスのお届け先がアルミアさんだっただけです。あなたの順番は、まだ先ですよ」
鳴上は再びアルミアに向き直った。彼女の息はすでに絶え絶えだった。
「魔法の詠唱もできない魔女なんて、ただの燃えないゴミですね」
鳴上は、自分の内側で渦巻く『混沌の魔力』を、アルミアの体内へと直接流し込んだ。
「あ、でも物理的には燃えるか。あなたの得意な炎で、しっかり中まで火を通しておきますね」
「ガ……ァ……ッ!」
アルミアの体内から、赤い光が漏れ出した。
彼女自身の魔力が暴走し、内臓から焼き尽くしていく。目から、鼻から、口から、青白い炎が噴き出し、彼女は声にならない悲鳴を上げながら、内側から完全に焼却されていった。
数秒後、鳴上の手から床に落ちたのは、黒焦げになった人型の炭の塊だった。
パラパラと崩れ落ちる灰を靴で踏みにじり、鳴上は満足げに息をついた。
「いやぁ、綺麗に燃えましたね。テッドもそうでしたが、やっぱり後片付けはサポーターの基本ですから」
鳴上は血と灰にまみれた手で、グレンに向かってひらひらと手を振った。
「それじゃあ勇者様。ゆっくりと、自分の築き上げたものが全て壊れていくのを、その特等席で見ていてくださいね」
そう言い残し、鳴上は再びバルコニーへと歩き出し、夜の雨の中へと姿を消した。
後には、鼻をつく焦げ臭い匂いと、勇者の情けない嗚咽だけが残された。




