第9話
異世界管理局本部は、地上から見るとただの低い庁舎群にしか見えない。
窓は少ない。看板もない。
人目を避けるための施設というより、人が意味を見出しにくい形へ意図的に調整された建築だった。正面玄関はあるのに、そこを正面だと思わせない。通路はまっすぐなのに、歩いているうちに自分がどこにいるのか少し曖昧になる。
ハザマはいつものように認証ゲートを通った。
白い光が肩の高さを横切り、衣服の表面、端末、携行物、残留値を順に読む。
《クレンジング部門特務官 認証》
《現場帰還》
《観測系残留 微量》
《再検査推奨》
最後の一行だけを見て、ハザマは足を止めなかった。
受付の職員も何も言わない。
この施設では、「推奨」は「義務」とは違う。
少なくとも、今のところは。
エレベーターで地下へ下りる。
数字のない階層表示。無機質な照明。磨かれすぎて、かえって清潔さに見えない床。異世界管理局の中枢はたいてい地下にある。外側の現実より、観測対象の世界群に近い場所のほうが、運用上都合がいいからだと聞いたことがある。
クレンジング部門の処理室は、第三管理層のいちばん端にあった。
扉が開くと、低い機械音と、紙の擦れる音と、遠くの誰かが咳をする音が混ざっている。
ここでは誰も大声を出さない。
声を上げなくても、処理件数も、誤差率も、終了ログも、全部数字で見えるからだ。
ハザマは端末を接続台へ置いた。
即座に帰還記録が展開される。
【案件番号】IWMA-CL/01-07
【対象】外部人格侵入体
【仮称】工藤悠斗
【処理結果】終了
【付記】住人側違和感残留あり。経過観察を推奨。
それだけ。
「ずいぶん短い報告ね」
横から声がした。
振り向くと、解析担当の真木が立っていた。
三十代後半。白衣ではなく灰色の業務服を着ている。髪はきっちり束ねられ、目元だけがいつも眠そうだ。だが画面を見るときだけ、針みたいに焦点が合う。
「現場で詩でも書いてきた?」
「必要なことは書いています」
「必要最低限、でしょ」
真木はハザマの端末表示を自分の補助画面に引き寄せる。
「住人側違和感残留あり、経過観察。これ、便利な言葉よね。観測異常を柔らかく言い換えるとたいていそうなる」
「異常とは書いていません」
「書いてないのが問題」
ハザマは返さない。
真木もそれ以上は追わず、代わりに画面を細かく拡大し始めた。
「残留値は?」
「微量です」
「帰還ゲートで引っかかった」
「推奨でした」
「推奨でも引っかかるものは引っかかるのよ」
そう言いながらも、真木の手つきは雑ではない。
ログの波形、接続経路、終了時の減衰。
彼女は一つひとつを見ていく。人の感情に興味は薄いが、残った痕跡には正直だ。
「……変ね」
真木が小さく言った。
「何が」
「終わり方。対象の減衰は完了してる。でも観測側への引きが残ってる」
「そうですか」
「そうですか、じゃない。あなた、自分で見てないの?」
見ている。
見ているから書かなかった。
ハザマは接続台から端末を外した。
「再検査はあとで受けます」
「いま受けなさいよ」
「先に報告があります」
真木は露骨に嫌そうな顔をしたが、止めなかった。
彼女にとって重要なのは、誰が何を隠したかより、後でちゃんと読める形で残るかどうかだ。
処理室を出て、監督室へ向かう。
通路の途中に、小さな給湯区画がある。
自販機ではなく、抽出器が並んでいる場所だった。管理局の飲料設備にしては珍しく、少しだけ人間的な空間に見える。
ハザマは立ち止まり、金属製の小型ドリッパーを使ってコーヒーを落とした。
湯を注ぐ。蒸らす。落ちるのを待つ。
現場から戻ったあと、この手順を一つ挟まないと、自分の頭が勤務中のものに切り替わらない。
匂いが立つ。苦い。少し焦げている。管理局支給の豆はたいしてうまくないが、それで十分だった。
「毎回それ飲んでるな」
声をかけてきたのは、上司の榊だった。
五十代。クレンジング部門統括。
温厚に見える顔立ちをしているが、部下を安心させる種類の温厚さではない。責めるときも褒めるときも声を荒げないぶん、判断がそのまま制度の顔に見えるタイプだった。
「切り替えです」
「現場と?」
「はい」
「いい習慣だ」
榊はそう言って、自分はコーヒーを取らず、紙の薄い報告板だけを見た。
「工藤悠斗案件、終了確認した」
「はい」
「誤差改善は悪くない。王都周辺の分岐率が一・八下がった」
ハザマは黙っている。
人がひとり消えた報告のあとに、上司が最初に言うのはそこだ。
もう慣れている。慣れていなければ、この部署に長くはいられない。
「ただ、監査が少し気にしている」
「何をですか」
「現場滞在時間。住人接触濃度。報告の簡略化」
言いながら、榊は特に責める口調でもない。
「特に問題があったとは見ていない。だが、問題がなかったことを示すには情報が足りない」
「補記します」
「してくれ」
榊はそこでようやくハザマの紙コップを見る。
「眠れていない顔だな」
「通常運転です」
「そうか。なら通常か」
その返しが冗談なのかどうか、少しわかりづらい。
監督室に入ると、すでにもう一人いた。
監査役の葛西。四十代前半。黒縁眼鏡。姿勢がやけに正しい。クレンジング部門の人間ではないが、現場判断の逸脱を洗うため定期的に同席してくる。
「特務官ハザマ」
葛西は椅子に座ったまま言った。
「工藤悠斗案件の報告、拝見しました」
「はい」
「簡潔ですね」
「必要事項は入っています」
「その判断基準を確認したい」
最初からそう来る。
ハザマは紙コップを机の端に置いた。
「対象は終了。住人群に軽度から中度の違和感残留。局地的な情動固定あり。案件としては閉じています」
「外部干渉は?」
「一時的な不正通信と短時間侵入体の投下」
「それを“付記”に入れていない理由は?」
「主処理は阻害されなかったためです」
葛西は少しだけ目を細める。
「主処理は、ですね」
「はい」
「では副次的な異常は?」
ハザマは一拍だけ遅れた。
ほんのわずかな遅れ。
だが、こういう場ではそれで十分だ。
葛西の視線が冷たくなる。
責めるというより、記録する目だ。
「何かありましたか」
「観測系に微量の残留が出ています」
「報告書には?」
「帰還後に確認したので、未記載です」
「追加してください」
「はい」
榊がそこで口を挟む。
「葛西、帰還直後だ。再検査の結果を見てからでも」
「だからこそです。現場判断の直後の言い淀みは、記録しておくべきです」
その言い方に棘はない。
だが、棘がない分だけ厄介だった。
ハザマは黙っている。
否定しても無駄だし、否定する材料もない。
葛西は端末を操作し、新しい確認項目を開いた。
「非干渉規定、第七項を復唱できますか」
「現地住人への過剰関与、個人的接触、歴史変動要因の提供、情動固定を誘発する言動を禁ずる」
「例外条項は」
「対象処理の安定化と住人保護のため、必要最小限の介入を認める」
「あなたはいつも、その“必要最小限”を広く取る」
ハザマはようやく葛西を見た。
「住人保護のためです」
「あるいは、自分が処理しやすくなるから」
「結果は同じです」
「本当に?」
葛西の問いは、数字ではなく人間に向いていた。
だから少し面倒だった。
ハザマが返答を選びかけたとき、真木が監督室に顔を出した。
「ごめん、話の途中で悪いけど、工藤案件の残留波形、少し妙」
全員がそちらを見る。
真木は補助端末を軽く持ち上げた。
「現場側の減衰は終わってる。住人側違和感も、理屈としてはわかる。でも観測側の引っかかりが、普通の汚れ方じゃない」
「どういう意味だ」
榊が聞く。
「“付着”というより、“参照”に近い感じ」
その言葉に、ハザマの指がほんの少しだけ動いた。
真木は続ける。
「誰かの観測系が、削除後の空白をまだ読みに行ってるみたいな波形。きれいじゃないけど、そんな感じ」
「観測者は特定できるか」
「まだ。けど候補は狭い」
葛西の視線がすぐにハザマへ向く。
「再検査ですね」
「はい」
今度は否定しなかった。
否定できる段階を、少し過ぎている。
榊は腕を組み、数秒だけ考えたあと言う。
「再検査を受けて、そのあと補記だ」
「はい」
「それと」
机の上に、別の案件ファイルが置かれる。
薄い灰色の表紙。
クレンジング部門では、次案件の通知はいつもこうやって物理板で渡される。現場要員に余計な先読みをさせすぎないためだ。
「休暇を入れたいところだが、そうもいかない」
「構いません」
「だろうな」
榊は感情の見えにくい口調のまま言う。
「次は少し毛色が違う。処理の前に解析の読み合わせを入れる」
「了解です」
「葛西も同席する」
「監査案件ですか」
「いま決まった」
葛西は否定しない。
真木だけが少しうんざりした顔をした。
「また面倒なの引いたわね」
「内容は」
ハザマが問うと、榊は短く答えた。
「死なない男だ」
そこで部屋が少し静かになる。
ハザマは机上の灰色ファイルを見る。
まだ開かない。
ただ、そのタイトルだけで十分だった。
工藤悠斗の案件が終わったばかりだというのに、もう次が来る。
制度は止まらない。
それが管理局だった。
葛西が眼鏡の位置を直しながら言う。
「再検査後、会議室Bへ。コーヒーはその前に飲み終えてください」
「命令ですか」
「推奨です」
「推奨なら考えます」
「考えなくて結構です」
榊が小さく息をついた。
真木は苦笑する。
それがこの職場の、かなり穏やかな空気なのだと、外から見ればたぶん思えないだろう。
ハザマは紙コップを取り上げ、残っていたコーヒーを一口飲んだ。
ぬるくなっていた。
苦味だけが、さっきより少し強く感じられた。




