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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第1章 勇者抹消

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第8話

 ユウトが消えたあと、広場には誰もすぐには動けなかった。


 朝の光が少しずつ強くなっていく。

 井戸の縁。倒れた卓。濡れた土。焚き火の灰。

 景色は何も変わっていないのに、そこにあるはずだった何かだけが抜けていた。


 ハザマは処理円の中心を見ていた。


 誰もいない。

 だが、端末の表示はまだ終了していない。


《対象消失》

《残留値検出》

《識別不能な人格残響を観測》

《観測者側への付着を確認》


 付着。


 その言葉が悪かった。

 まるで汚れのようだ、とハザマは思った。だが実際、管理局の用語ではそうなる。削除後にも観測系に引っかかり続ける痕跡は、残留ノイズとして扱われる。


 普通なら、ここで追加の清掃処理に入る。

 住人側の精神残響を薄め、観測者側に貼りついた痕跡も剥がし、案件を完了へ寄せる。


 だが今、ハザマの指は動かなかった。


「……終わったのですか」


 村長の声で、ようやく広場に人の気配が戻る。


 ハザマは端末から目を離した。

 問いの意味は単純だ。あの若者はもういないのか。自分たちの見ていたものは何だったのか。この朝をどう受け取ればいいのか。


「処理は完了しました」


 そう答えるしかない。


 リリサが処理円の跡へ近づく。

 昨夜から何度も止められてきたのに、今度はハザマも止めなかった。


 彼女は白い線が消えかけている地面の上で立ち止まり、何かを探すように目を動かした。

 だが、そこには何もない。


 何もないはずなのに、彼女の顔だけが少しずつ壊れていく。


「……いた、のに」


 小さな声だった。


 誰が。

 そう尋ねれば、たぶんすぐには答えられないだろう。

 名前の輪郭はもう曖昧になり始めていた。けれど、そこに誰かがいた感じだけが、逆にくっきり残っている。


 村長が眉を寄せる。傭兵は傷口を押さえたまま地面を見る。子どもは母親の服をつかみ、「あのおにいちゃんは」と言いかけて黙る。


 説明できない喪失感。

 最初の案件から、もうそれが起きている。


 ハザマは表示を閉じた。


「広場は片づけてください。昨夜の出来事について、無理に思い出そうとしないほうがいい」

「どういう意味だ」


 傭兵が低く言う。


 昨夜までなら、勇者の背中を見上げていた男だった。

 今はただ、助けられた事実と、消えた事実のあいだで立っている。


「思い出せないものは、追うほど歪みます」

「じゃあ忘れろってのか」

「そうは言っていません」

「同じだろ」


 ハザマは答えなかった。

 同じではない。だが違いを説明しても、この広場では何の慰めにもならない。


 リリサが、しゃがみ込む。


 地面に何か落ちているのを見つけたらしかった。

 拾い上げたのは、小さな布切れだった。焦げて、端が固くなっている。


 ユウトが火傷した手に巻いていた布だと、ハザマはすぐにわかった。


「それは」


 言いかけて、止める。


 回収対象ではない。

 ただの布だ。

 だが、ただの布では済まない気もした。


 リリサはそれを両手で握りしめた。


「これ、あの人の……」


 そこまで言ってから、彼女は強く目を閉じる。

 名前が出ない。顔の細部も、もう曖昧なのだろう。なのに、布を握った瞬間だけ、失ったものの温度が戻った顔をしていた。


 ハザマはその様子を見て、端末の記録欄に一行だけ追記する。


 ――住人側に物理媒介を通した残留固定の兆候あり。


 書いたあとで、自分でも不快だった。

 言い方が乾きすぎている。だが他に記録する語を持たない。


 広場の整理が始まる。

 人は動いているほうが少し楽になる。倒れた卓を起こし、焦げた薪をまとめ、水を撒く。そのあいだにも皆、ときどき処理円のあった場所を見る。そして、見るたびに何かを思い出しかけ、結局つかめずに離れる。


 ハザマは村から少し離れた丘へ移動した。

 見晴らしのいい場所だった。広場も集会小屋も小さく見える。朝の空気は冷たく、昨夜の熱をすっかり剥がしていく。


 そこで初めて、小型の抽出器を取り出した。


 金属筒に水を入れ、熱源を点ける。

 管理局支給品の簡易コーヒー器具。現地の飲み物を嫌っているわけではないが、案件直後の口の中を切り替えるには、これが一番早かった。


 湯が上がる。

 苦い匂いが、朝の草の匂いと混ざる。


 ハザマは紙コップに落ちた黒い液体を一口飲んだ。

 薄い。だが十分だった。


 現実感は、たいていこういうどうでもいい手順で戻ってくる。


 端末を開く。

 報告書のテンプレートが立ち上がる。


【案件番号】IWMA-CL/01-07

【対象】外部人格侵入体

【仮称】工藤悠斗

【処理結果】終了

【住人側残留】軽度~中度

【観測異常】あり


 そこまで入力して、指が止まる。


 観測異常。

 軽い語だ。実際には軽くない。


 ハザマはログを展開した。

 削除完了後の残響波形。住人感情との結びつき。処理前から存在していた一次検出の欠損。そして最後に表示された、あの一文。


 ――削除対象の一部が、観測者側に残留しています。


 通常なら、この時点で自己清掃を行う。

 観測者側に貼りついた残留は、次の案件へノイズを持ち込む。職務上、好ましくない。

 それでもハザマは、清掃処理の欄を開いたまま閉じた。


 代わりに、ログの該当箇所を再読する。


 残留先識別。

 未確定。

 候補一件。


 その候補欄には、認証IDの一部だけが残っていた。

 ハザマ自身のものだ。


 コーヒーの温度が少し下がる。

 朝日が強くなり、丘の下で村人たちの動きもはっきりしてくる。


 ハザマは端末に新しい行を打ち込んだ。


 ――対象終了後、観測者側への不明瞭な残留を確認。追加検査を申請。


 送信しかけて、止める。


 申請を上げれば、上は清掃を優先する。

 残留値の原因究明より先に、観測者側の汚染除去。つまり、自分の側に残ったものを先に消しにくる可能性が高い。


 それが規定上は正しい。

 正しいが、今回は少し早すぎる気がした。


 ハザマは送信文を一度消した。

 代わりに、最低限の完了報告だけを送る。


【処理結果】終了

【付記】住人側違和感残留あり。経過観察を推奨。


 それだけ。


 簡素すぎる。

 後で突っ込まれるだろう。だが、今はそれでいいと思った。


 送信を終えたあと、端末が一瞬だけ明滅した。


 新着ではない。

 通信でもない。

 波形の残り香のような、ごく短い揺れ。


 ハザマは眉を寄せ、再走査をかける。


 何も出ない。

 だが、ほんの一瞬だけ、波形の末尾に聞き覚えのない揺らぎがあった。言葉と呼べるほど明確ではない。ただ、音声に変換すれば何か一音くらいにはなりそうな揺れ。


 錯覚かもしれない。

 残留を意識しすぎたせいかもしれない。


 それでもハザマは、さっき送らなかった完全報告のことを思い出す。

 もし今ここで自己清掃をかければ、この揺らぎも消えるだろう。


 指は、動かなかった。


 丘の下から足音がする。

 見ると、リリサがひとりでこちらへ来ていた。村の仕事を抜けてきたのだろう。手には、あの焦げた布切れがある。


 ハザマの前で止まり、少し息を整えてから言う。


「……あの人の名前、思い出せません」


 ハザマは答えない。


「でも、ここが痛いんです」


 彼女は胸を押さえる。

 泣いているわけではない。ただ、どう処理していいのかわからない顔だった。


「変ですよね」

「正常です」

「そうなんですか」

「はい」


 リリサは少しだけ眉をひそめる。


「あなたは、冷たいことを普通みたいに言いますね」

「よく言われます」

「それも、正常ですか」

「いえ」


 ハザマはコーヒーを一口飲む。


「それは、たぶん違います」


 リリサはその返答を聞いて、少しだけ意外そうな顔をした。

 昨夜から初めて、ハザマが自分を無傷の外側に置いていないと見えたのかもしれない。


「忘れてしまうんでしょうか」


 彼女が訊く。


 ハザマは少し考える。

 規定どおりに言うなら、薄れていく、と答えるべきだ。

 だが彼女の手の中には布がある。住人側感情の固定がある。何より、自分の端末には残留が出ている。


「全部は消えないかもしれません」


 リリサは布を見下ろす。


「それで十分です」

「そうですか」

「……十分じゃないかもしれないけど、そう思うことにします」


 彼女はそう言って、小さく頭を下げた。

 礼なのか、区切りなのか、ハザマにはわからない。


 丘を下っていくその背中を見送りながら、ハザマは紙コップの底に残った黒を飲み干した。


 苦い。

 だが、それで少しだけ輪郭が戻る。


 端末を閉じる直前、画面の隅で、未処理のログがもう一度だけ微かに明滅した。


 一次検出ログ、欠損。

 再走査記録、欠損。

 観測者側残留、継続。


 そして、その下に、さっきまではなかった空白行が一つ増えていた。


 文字はない。

 なのに、そこだけが妙に気になる。


 ハザマはしばらくその空白を見ていたが、結局何も書き込まず端末を閉じた。


 村の朝が始まっている。

 案件は終わった。報告も送った。処理も完了した。


 それでも、ひどく初手を間違えた気配だけが残っている。


 ハザマは外套の襟を直し、丘を下りる。


 次の案件は、もう入っているだろう。

 だが、どこへ行ってもたぶん、最初のこの案件が基準になる。


 削除したはずなのに、残る。

 終わらせたはずなのに、観測者側へ付着する。

 正しく処理したはずなのに、何かが少しだけずれている。


 その感触を、ハザマはコーヒーの苦さと一緒に喉の奥へ押し込んだ。


 そして村を出る直前、一度だけ振り返る。


 広場ではもう片づけが進み、祝宴の跡も消えつつあった。

 だが処理円の中心だった場所だけ、誰も荷物を置かず、妙にきれいに空いている。


 誰が決めたわけでもない。

 ただそこだけ、まだ埋めてはいけない気がするのだろう。


 ハザマはそれを見て、目を細めた。


 消去は完了している。

 だが、空白の扱いまでは完了していない。


 そのずれだけを胸の奥に残したまま、ハザマは村を出た。

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