第7話
夜明けは、静かだった。
村の東端にある低い柵の向こうで、空の色がゆっくり薄まっていく。
夜の冷えはまだ残っているのに、闇だけが先に退いていく時間だった。
ユウトは集会小屋の前に立っていた。
眠れなかった。
眠る気もなかった。
焼けた手は熱を持ったまま鈍く痛み、身体の奥には昨日まで知らなかった重さが沈んでいる。それでも、倒れずに立てているだけ、まだましだった。
聖剣は腰に差している。
もはや光らない。ただの剣の重みだけがある。
広場には、昨夜の名残が残っていた。
倒れた卓、半分燃え尽きた薪、片づけきれなかった皿。祝宴の跡なのに、祭りの終わりには見えない。もっと個人的で、もっと曖昧な何かが終わった跡だった。
ハザマはすでにそこにいた。
井戸の脇、朝靄の薄いところに立ち、端末を開いている。黒い外套の輪郭だけが、朝の色から少し浮いて見えた。
「時間です」
ユウトはゆっくり歩いていく。
「律儀だな」
「あなたも」
「逃げないって言ったからな」
ハザマは端末から目を離さない。
「逃げても追いました」
「そうだろうな」
それで会話は一度切れた。
広場の端には、何人かの村人が立っていた。
近づきすぎず、離れすぎず。村長。リリサ。昨夜助けた子どもの母親。肩を縫われた傭兵も、顔を青くしたまま壁にもたれている。
誰も「勇者様」とは呼ばない。
だが、誰もユウトに石を投げるわけでもない。
その距離が、いちばん現実だった。
「住人の立ち会いは想定していません」
ハザマが言った。
「下がってもらうことはできますか」
「無理だろ」
「でしょうね」
ハザマはようやく顔を上げる。
リリサと目が合った。
彼女は小さく身をすくめたが、それでも逸らさなかった。
「これから何をするのですか」
村長が問う。
声は震えていたが、昨夜よりははっきりしていた。
ハザマは少しだけ考えたあと、必要最小限の言葉を選ぶ。
「この世界に不適合な接続を切ります」
「それで……ユウト殿は」
「ここには残れません」
リリサの息が詰まる音がした。
「消えるってことですか」
今度は彼女が言う。
ハザマは即答しなかった。
ユウトが、その一瞬の遅れを見た。
「あなた方から見れば、そう見えるでしょう」
それが限界だった。
リリサは何か言い返そうとして、言葉を失う。
ユウトは横から口を挟まなかった。庇えば余計に壊れる気がしたし、何より今は、自分でもその言い方以外を持っていなかった。
「始めます」
ハザマが端末を閉じ、今度は別の表示を開く。
白い線が空中に浮かぶ。
昨夜のような攻防のための線ではない。もっと細く、もっと静かだ。文字とも図形ともつかない線分が、幾重にも重なって円をつくっていく。
ユウトは、それを見てふと気づいた。
これは処刑じゃない。
儀式でもない。
もっと事務的で、もっと正確な、解体に近い何かだ。
「円の内側へ」
言われて、ユウトは一歩入る。
地面の感触は変わらない。
なのに、空気だけがわずかに薄くなる。
「最終剥離を行います」
「痛いか」
「個人差があります」
「嫌な答え方だな」
「事実です」
ユウトは小さく息を吐く。
「……まあいい」
ハザマの指が動く。
最初の線が光る。
その瞬間、ユウトの胸の奥で何かが軽く抜けた。
痛みではない。
むしろ逆だ。いままで知らないうちに身体のどこかに差し込まれていた細い杭を、一本だけ抜かれたような、奇妙な空虚感だった。
「第一層、戦闘補正解除」
ハザマの声は平坦だ。
ユウトは立ったまま、自分の足に重みが増すのを感じる。
昨日の夜にすでに大半は失っていたはずなのに、それでもまだ、見えない支えが残っていたらしい。
「第二層、加護経路遮断」
今度は喉のあたりが冷えた。
祈れば何かが応じるような、あの根拠のない確信が、音もなく切れる。最初から自分の中にはなかった穴が、そこにできる。
リリサが、一歩だけ前へ出る。
「やめて……」
声は小さい。
だが、広場の全員がその一言を聞いた。
ハザマの指が一瞬止まりかける。
ほんの一瞬だけだ。
ユウトはそれを見た。
「続けろ」
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
リリサが顔を上げる。
ユウトはそちらを見ないまま言う。
「中途半端が一番まずいんだろ」
ハザマは何も言わず、処理を続けた。
「第三層、称号固定解除」
世界が少しだけ遠くなる。
勇者。
その言葉が、自分の中から剥がれていくのがわかった。
王都の神殿。
抜けた聖剣。
歓声。
期待。
憧れ。
どれも消えていない。記憶はある。
だが、それらを「自分の当然の位置」と感じていた感覚だけが切れていく。
ユウトはそこで初めて、本当に膝をついた。
手をついた地面が冷たい。
火傷した右手に痛みが走る。
それが逆に、まだここにいる証拠みたいだった。
「最終確認」
ハザマが言う。
「工藤悠斗。あなたは現在、この世界への不正接続を維持しています。終了処理に異議はありますか」
事務的な問い。
昨夜と同じ形式確認だ。
ユウトは顔を上げた。
村長がいる。
リリサがいる。
子どもが母親の後ろにいる。
助けた傭兵が、縫い跡を押さえながら立っている。
昨日まで、守るべき側として見ていた顔。
今はもう、自分の手の届かない側へ行きかけている顔。
「……あるに決まってるだろ」
ユウトは言った。
「ある。でも」
そこで、少し笑う。
立派でも何でもない、ただ疲れた顔だった。
「でも、逃げない。ここで逃げたら、俺の三年が無意味になる気がする」
ハザマは黙って聞いている。
「俺が本当に勇者だったかは、もうわからない。補正だの、コードだの、そういうのが混ざってたんだろうし」
焼けた右手を見下ろす。
「でも、痛いもんは痛いし、助けたかった気持ちまで偽物だとは思わない」
リリサが、泣くのをこらえるみたいに唇を引き結んだ。
ユウトはようやくそちらを見た。
「……悪かったな」
「何が」
「よくわかんないまま、巻き込んだ」
リリサは首を振る。
でも、その先の言葉が出ない。
ハザマが端末を持つ手を少しだけ下げた。
住人との接続が濃すぎる。残留が強くなる。規定上は好ましくない。
なのに今この場で、それを切る言葉が出てこない。
「特務官殿」
村長が低く言う。
「ひとつ、頼みがあります」
ハザマはそちらを見る。
「この者が、何者であったにせよ」
老人は、声を震わせながらも続けた。
「この村を救ってくれたことだけは、どうか……」
どうか、と言ったきり、言葉にならなかった。
記憶を残してくれ、なのか。
無かったことにしないでくれ、なのか。
それともただ、礼を言いたかったのか。
ハザマには判別できなかった。
できないまま、端末の表示が小さく揺れる。
《住人側残留強度:上昇》
《終了後の違和感残存率:許容上限付近》
高い。
予想より高い。
ハザマは表示を見て、目を細める。
ユウト個人の強度だけではない。住人側の結びつきが、妙に切れにくい。
そのとき、リリサが小さく言った。
「……忘れたくない」
処理円の外から、朝の冷たい空気のなかへ落ちる声。
「全部は無理でもいい。変になってもいい。だけど、忘れたくない」
ハザマの端末が、短く警告を鳴らした。
住人側感情の固定化。
記憶残響の自発的保持。
本来なら薄れていくはずの痕跡が、外からではなく内側から結ばれようとしている。
ユウトも気づいたらしい。
苦い顔で笑った。
「……困ったな」
「はい」
ハザマは今度だけ、少し遅れて答えた。
困る。
本当に困る。
規定上も、実務上も、そしてそれ以外の何かにとっても。
「終了処理へ移行します」
声を落として告げる。
白い線が、最後に閉じる。
ユウトの輪郭が揺れた。
風に乱れるのとは違う。
光の粒になるほど綺麗でもない。
ただ、この世界の朝の景色から、少しずつ合わなくなっていく。
リリサが息を呑む。
子どもが泣き出す。
村人たちは一歩も踏み込めない。
ユウトは、揺れながらハザマを見た。
「なあ」
「何ですか」
「外から見えなくなっても、無かったことにはならないんだよな」
「……はい」
ハザマは答える。
今度はごまかさない。
「なりません」
ユウトはそれを聞いて、ほんの少しだけ安心したように見えた。
次の瞬間、輪郭が深くぶれ――
端末が、異常な音を立てた。
《終了処理:実行》
《対象消失……》
《残留値検出》
《識別不能な人格残響を観測》
ハザマの目が、わずかに見開かれる。
ユウトの姿は消えていた。
だが、処理円の中心には、誰もいないはずなのに、まだ何かが“いる”感じだけが残っている。
風が吹く。
朝の光が少し強くなる。
広場に立つ誰も、その正体を言えない。
それでも全員が、いま確かに一人分の欠落を見たのだと知っていた。
ハザマは端末を見下ろす。
そこには、完了の表示の下に、小さく、ありえない一文だけが残っていた。
――削除対象の一部が、観測者側に残留しています。
ハザマは初めて、その文面をすぐに消さなかった。




