第10話
再検査室は、病院より静かだった。
白い壁。白い床。白い照明。
だが清潔というより、余計な判断を挟ませないための色に見える。ここでは、人間の体調より先に、観測者としての状態が測られる。
ハザマは椅子に座り、両手を金属の枠の内側へ置いた。
真木が端末を操作する。枠の内側で、光がゆっくり青から白へ移る。
「動かないで」
「動きません」
「動きそうな顔してる」
「顔で測定精度は落ちません」
「そういう問題じゃないのよ」
真木は眠そうな声のまま、画面を睨んでいた。
数値が流れる。残留値、接続反応、観測偏位、認証系への付着。
ハザマは天井を見る。
検査自体に痛みはない。だが、他人に自分の内部を覗かれる感覚は好きではなかった。
「……妙ね」
真木がまた言う。
「まだか」
「まだ。静かにして」
枠の光が一度だけ強くなり、すぐ落ちる。
真木は画面を拡大し、指先で二つ三つの波形を重ねた。
それから、少しだけ眉をひそめる。
「付着というより、やっぱり参照ね」
「残っているのか」
「“残っている”というより…」
真木は補助端末をハザマの前に向けた。
青い線が一本、基準値からわずかに外れている。
「汚れなら、時間と一緒に減衰する。でもこれは、薄いくせに一定間隔で上がる」
「何を読んでいる」
「そこが問題。対象そのものじゃない。対象が抜けたあとの空白を、誰かがまだ見にいってる」
ハザマは無言でその線を見る。
空白を読む。
言葉としてはおかしい。だが、ユウト案件の終わり方を思い出すと、まったく間違っているとも言えなかった。
「観測者は特定できるか」
「候補は一つ」
「言わなくていい」
真木が少しだけ口元を上げる。
「言わなくてもわかってる顔してるわよ」
ハザマは答えない。
「ただし」
真木は画面を閉じた。
「いま除去すると、何が残ってたかごと潰れる可能性が高い」
「残していいと言うのか」
「私は解析。倫理担当じゃないわ」
それは彼女らしい答えだった。
「でも、データとしては惜しい。工藤悠斗案件の残留は、今までの“汚れ”と性質が違う」
「上にそう言うのか」
「言う。あなたが嫌な顔をしても」
真木は立ち上がり、検査枠の電源を落とした。
「一応言っとくけど、現時点では危険性は低い。業務続行可。ただし再スキャンは増える」
「面倒だな」
「こっちの台詞」
再検査室を出ると、通路の向こうで葛西が待っていた。
腕時計も見ずに立っている。待ち合わせではなく、監視の位置に見える立ち方だった。
「結果は」
「業務続行可だそうです」
「だそうです、ではなく」
「微量残留。性質不明。要再観察」
葛西はうなずき、何かを端末へ記録した。
「会議室Bへ」
「命令ですか」
「業務連絡です」
「それなら従います」
葛西はそれ以上返さず、先に歩き出す。
長い廊下の先で、会議室Bのランプだけが点いていた。
室内にはすでに榊がいた。
壁面の半分がスクリーンになっていて、地図ともグラフともつかない表示が重なっている。海流、気圧帯、穀物先物、感染症モデル、物流遅延、人口移動。バラバラの情報に見えるのに、同じ画面の上で連動していた。
会議卓の上には、灰色の案件ファイルが一冊。
榊はハザマが入ってくるのを見ると、短く言った。
「座れ」
「はい」
真木も遅れて入室し、壁際の補助卓につく。
葛西は榊の斜め後ろ。部門の人間ではない位置をきっちり守っていた。
榊が灰色ファイルを開く。
「案件番号IWMA-CL/02-03。仮称、死なない男」
その言葉に合わせて、スクリーンの表示が切り替わった。
一つの地方都市。
石造りの街路。水路。市場。工房。
技術水準は低い。魔術文化は限定的。王都から離れた産業都市圏。観測安定度は中の上。
「対象は現地名レオン・グラーツ。年齢三十二。職業、荷運び人夫」
榊は淡々と読み上げる。
「三十二日前、荷車の横転事故で死亡確認」
「確認?」
ハザマが問う。
「現地医療基準での死亡確認。呼吸停止、心停止、瞳孔散大」
「その後」
「翌朝、本人が自宅で起床している」
真木が補足を入れる。
「一回だけじゃない。落下死、刺創、焼死、溺死。少なくとも七件。全部“翌朝に戻る”」
「時間逆行か」
「局所リプレイに近い。本人の記憶だけ保持されてる可能性が高い」
スクリーンに、同じ男の死亡記録が並ぶ。
どの死に方も派手ではない。むしろ、妙に生活に近い。人が本当に死ぬ形ばかりだった。
「侵入体か」
ハザマが言う。
「高確率でそう見ている」
榊が答える。
「ただし、勇者型のような顕著な権能演出がない。加護、称号、外部インターフェース、いずれも未検出」
「なら何で」
「死なないからよ」
真木が疲れた口調で言う。
「本人は死ぬ。毎回ちゃんと死ぬ。でも“次の朝”にだけやり直しが発生する。世界側の巻き戻しじゃない。もっと狭い」
「局所的な保存点か」
「その言い方が一番近い」
榊は画面の端を指した。
「問題はここだ。対象が死ぬたび、周辺予測が乱れる」
「どの程度」
「主観測系の下位政策帯にじわじわ響く程度には」
その言葉に、ハザマは一瞬だけスクリーンを見直した。
主観測系。
管理局の人間はよくそう言う。現実世界とも、地球とも、表では言わない。
もう慣れたはずの言葉なのに、今日は少しだけ耳に残った。
葛西が口を開く。
「レオン・グラーツ個人の反復が、主観測系の予測モデルに遅延ノイズを生んでいる」
「説明としてはそうなる」
榊がうなずく。
「一人のやり直しが、一都市の労働配置、流通時期、治安変動に染み出していく。小さいが、長く置けば積み上がる」
「要するに」
ハザマが言う。
「また誤差改善の話ですか」
「要するにそうだ」
榊は隠しもしない。
「我々は、そのためにいる」
会議室が静かになる。
その静けさは冷たいが、空虚ではない。
ここにいる人間は少なくとも、自分たちが何をしているのかを理解したうえで座っている。
だからこそ、ハザマはたまに息苦しくなる。
「非干渉規定は通常運用」
葛西が確認する。
「対象は市民階層。共同体への接触濃度が高い。前回以上に注意してください」
「前回以上?」
ハザマが視線を上げる。
葛西は表情を変えない。
「工藤悠斗案件では、結果的に住人側情動固定を許した」
「住人保護を優先した結果です」
「その必要最小限の取り方が広い、と私は見ています」
「必要でした」
「今回も?」
「現場を見てから判断します」
葛西の眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなる。
「その返答を監査記録に残します」
「どうぞ」
榊がそこで手を上げた。
「そこまでにしろ。今回は議論より準備が先だ」
机の中央に、新しい表示が立ち上がる。
レオン・グラーツの生活圏。住居。勤務経路。死亡地点の重なり。朝に戻る起点。人間関係の簡易相関。
「対象は自分が繰り返していることを理解し始めている」
真木が言う。
「初期は混乱していたが、四回目以降、明らかに行動最適化が見られる」
「利用し始めている?」
「まだ断定はしない。でも、死を情報収集に使う兆候がある」
ハザマは画面を見る。
毎朝戻る。
記憶は残る。
それが事実なら、人間はたぶん変わる。
恐怖だけでは終わらない。
死が有限でなくなった瞬間、他人との距離も、罪悪感も、慎重さも、少しずつ狂う。
「現地投入はいつですか」
「六時間後」
榊が答える。
「先に観測ログへ潜って、パターンを頭に入れろ。今回は最初から対象へ接触するな」
「監視先行」
「そうだ。死なない相手は、自分が死なないとわかった途端に雑になる」
「そして周囲が壊れる」
「そのとおり」
榊はファイルを閉じる。
「ハザマ」
「はい」
「前回案件の補記は出せ」
「出します」
「残留の件は、真木と連携して別枠で追え」
「了解です」
「ただし主処理と混ぜるな」
「……はい」
その一拍を、葛西は見ていた。
何も言わない。言わないまま記録する。
会議が終わる。
真木は資料をまとめ、葛西は監査ログを閉じ、榊は次の処理帯へ移るために別の画面を開く。誰も劇的な顔をしない。案件が一つ終わり、次が来る。それだけだ。
ハザマだけが、席を立つ前に一度だけ壁面スクリーンを見る。
主観測系。
本系。
基準系列。
そんな言葉が、さっきから当たり前みたいに並んでいた。
昔は疑問を持ったことがある。
なぜ“現実”と呼ばないのか。
なぜ“こちら側”ではなく、“主”とか“本”とか、比較のある言い方ばかりするのか。
だが、その疑問はずっと勤務の奥へ押し込めてきた。
考える必要がなかったからだ。
考えると仕事が遅くなるからだ。
「行かないの?」
真木の声で、意識が戻る。
「行きます」
「珍しい顔してた」
「通常です」
「今日それ、二回目」
真木は軽く肩をすくめて先に出ていく。
会議室に残ったのは、ハザマと机の上の紙コップだけだった。
中身は空。底に薄い黒が乾きかけている。
ハザマはそれを捨て、新しいコーヒーを取りに給湯区画へ向かった。
次の案件の前には、いつも一杯飲む。
現地へ入る前の手順というより、境界線みたいなものだった。ここまでは本部、ここから先は現場。そう自分に言い聞かせるための。
抽出器へ湯を落とす。
立ちのぼる匂いを吸い込みながら、ふと、端末の未消去ログが頭をよぎる。
――削除対象の一部が、観測者側に残留しています。
あれはまだ消していない。
削除も、完全報告も、自己清掃も、全部後回しにしたままだ。
ハザマは紙コップを持ち上げ、一口飲んだ。
少し苦い。
少し薄い。
管理局のコーヒーは、いつも現実感の代用品みたいな味がする。
端末へ、新しい案件の投入通知が届く。
《現地観測ログ接続まで 05:42:11》
ハザマは表示を閉じる。
次は、死なない男。
だが、頭の奥ではまだ、あの村の広場に残っていた空白が消えていない。
その空白を押し込めるみたいに、もう一口だけコーヒーを飲み、ハザマは処理室へ戻った。




