第11話
朝の鐘が鳴る前に、レオン・グラーツは目を開けた。
起きる、というより、弾かれるように浮き上がる。
息が荒い。喉が焼ける。右肩が痛む気がして、反射的にそこを押さえる。けれど服の下の皮膚は切れていない。血も出ていない。骨も折れていない。
それでも身体だけは知っている。
昨日、いや昨日ではないのかもしれないが、とにかく一度、自分はそこを鉄で貫かれて死んだ。
レオンはしばらく動けなかった。
狭い部屋。湿った壁。寝台。箱。椅子。
窓の隙間から入る灰色の朝。
全部、前と同じだ。
正確すぎる。
同じ位置の上着。
同じ角度の木杯。
同じところで鳴く、外のやけに甲高い鳥。
「……またかよ」
小さく言った声が、自分のものなのに妙によそよそしく聞こえた。
最初のときは、夢だと思った。
二度目は、熱だと思った。
三度目で、そういうごまかしがだんだん苦しくなった。
死んだのだ。
ちゃんと。
落ちて、刺さって、息が詰まって、身体が勝手に冷えていって、そこで終わった。なのに、朝になるとここに戻っている。
痛みだけが少し遅れて消える。
恐怖は、もっと遅い。
寝台の縁に座ったまま、レオンは自分の手を見る。
働く手だ。節が太く、爪のあいだに取れきらない汚れがある。昨夜の死のせいで、急に別人の手になるわけではない。
だから余計に始末が悪い。
この手で、また同じ朝を触るのだとわかる。
外で、朝一番の荷車が石畳を軋ませて通った。
その音だけで、レオンの胃が縮む。
来る。
あの通りを曲がる。
水路沿い。工房裏。鉄材を積んだ荷車。滑る馬。崩れる束。間に合わない。
まだ何も起きていないのに、身体が先に覚えている。
レオンは立ち上がり、水桶の冷たい水で顔を洗った。鏡はない。なくても、自分がいまどんな顔をしているかくらいわかる。死人みたいな顔だろう。いや、一度死んでいるのだから、間違ってはいないのかもしれない。
そう考えた瞬間、自分で自分が気味悪くなった。
扉を開ける。
労働者街の朝は、いつも同じ匂いがする。湿った石、汚れた水、燃えかけの炭、安い麦粥。生きるための匂いなのに、今日は少し墓に近い。
共同井戸のそばで、隣の部屋の爺が咳をしている。
昨日もしていた。
その前もしていた。
たぶん明日もする。
その「明日」が、自分にとって他人と同じ意味かどうか、もうわからない。
「顔色悪いな、レオン」
声をかけられ、レオンは反射的に振り返る。
荷受け所でよく一緒になる人夫のマルクだ。太い腕と鈍い目つき。悪い奴じゃない。昨日――昨日でいいのか――自分の死体を見て、青くなっていた男でもある。
「……そうか」
「そうか、じゃねえよ。飲みすぎたか?」
レオンは一瞬だけ答えに詰まる。
飲みすぎたわけじゃない。死んだのだ。だがそんなことを言えるはずもない。
「寝不足だ」
「珍しいな」
珍しい。
そうだろう。マルクにとっては今朝が最初だからだ。
レオンはそこで、ひどく妙な孤立を感じた。
この男とはもう何回も同じ朝をやっている気がするのに、マルクにとって自分との今朝はたった一回しかない。
「行くぞ」
「ああ」
荷受け所へ向かう道すがら、レオンは何度も周囲を見た。
何を警戒しているのか、自分でも半分わかっていない。事故か、偶然か、それとも“同じ日がまた始まった”という事実そのものか。
街は灰色だった。
産業都市ヴァルカは、晴れていてもたいてい灰色に見える。石造りの建物、煤けた壁、水路の縁に溜まる汚れ、工房の煙。明るいものは空ではなく、火だけだ。そして火はいつも仕事のために燃えている。
荷受け所に着くと、昨日と同じ木箱が積まれていた。
縄のほつれ。箱の角の割れ。荷札の滲み。
ここまで揃うと、神に悪戯されているみたいだった。
若い見習いが、重い箱の縄を持ち直している。
昨日、自分が壁際へ突き飛ばした相手だ。
「そっち持て」
レオンは思わず強い口調で言った。
見習いがびくりとする。
マルクが怪訝そうにこちらを見る。
「朝から機嫌悪いな」
「悪い」
苛立っているのは本当だった。
恐怖をうまく隠せないとき、人はたいてい苛立って見える。
木箱を担ぐ。重い。
この重さは変わらない。
それが少しだけ救いでもあった。死んでも朝に戻っても、木箱はちゃんと重い。世界が全部嘘になったわけではないと、そういうところでしか確かめられない。
だが歩き始めると、また身体が先に硬くなる。
水路沿いの細い道。
工房裏の曲がり角。
鉄材を積んだ荷車が来る位置。
馬が滑る石。
全部わかる。わかってしまう。
レオンは前を見ながら、見習いへ低く言った。
「次、角で止まれ」
「え?」
「いいから止まれ」
「何で」
「いいからだ!」
声が大きくなった。
見習いは怯えて黙る。マルクが後ろで舌打ちした気配がする。
まだ来ていない。
なのに、来ることだけは知っている。
角を曲がる直前、レオンは箱を下ろした。
「おい、何してる!」
「黙ってろ!」
前方から鉄の軋む音。
馬の鼻息。
レオンは見習いの胸を押して壁際へ寄せ、自分も水路と反対側へ飛ぶ。
その直後、荷車の馬が石を滑った。
鉄材の束が大きく揺れ、何本かが崩れかける。
御者が怒鳴る。工房の戸が開く。通りの人間が一斉に身を引く。だが今度は、死者は出ない。鉄材は石畳を打ち、火花を散らしただけで止まった。
見習いが顔を真っ白にしている。
御者が罵声を浴びせる。
工房の男が「朝から何だ」と怒鳴る。
レオンだけが、その場で立ち尽くした。
助かった、と思う前に、先に来たのは眩暈だった。
避けた。
昨日知った死を使って。
まだ何も起きていない朝に、自分だけが昨日の終わりを持ち込んで、避けた。
「……本当に」
口の中で呟く。
「戻ってる……」
見習いが何か言っている。
だが半分しか聞こえない。
怖い。
怖いはずなのに、その下で別の感情が動き始めているのが、自分でもわかった。
知っていれば、避けられる。
もう一度やれば、もっと早く避けられる。
別のやり方も試せる。
その考えが頭をよぎった瞬間、レオンは自分で自分を殴りたくなった。
今考えることか、それを。
死んだばかりなのに。死が戻るとわかったばかりなのに。
それでも考えてしまった。
そのこと自体が、もう少し怖かった。
通りの向こう、二階窓の暗がりから、その一部始終を見ている視線があった。
ハザマは本に見せかけた端末へ、短く記録を落とす。
――対象、同一朝の反復を認識済み。
――事故回避に先行知識を使用。
――恐怖の内部に、試行の発想が混入し始めている。
そのあと、少しだけ指を止める。
鉄材の落ちた場所。
死ななかった石畳。
そこに、昨日の死の抜け跡だけが、まだごく薄く残っている。
見つけるのが、前より早い。
ハザマは自分の観測補正を一段戻し、最後に一行だけ加えた。
――未採用の死に、局所的な空白残留の可能性あり。
通りの真ん中で、レオンはまだ自分の手を見ていた。
生きている手だ。
昨日もここにあったはずの手だ。
なのに、昨日の死もまた、本当にあった気がする。
見習いが怯えた顔で訊く。
「レオンさん、どうしてわかったんですか」
レオンはすぐに答えられなかった。
どうしてわかった。
見たからだ。
死んだからだ。
言えるはずがない。
彼は水路の黒い水を見下ろし、やがて誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「……もう一回、確かめるか」
その言葉は、祈りではなかった。
まだ決意でもない。
ただ、恐怖の中に混ざり始めた、試行の匂いだった。




