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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第3章 死なない男

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第11話

朝の鐘が鳴る前に、レオン・グラーツは目を開けた。


 起きる、というより、弾かれるように浮き上がる。

 息が荒い。喉が焼ける。右肩が痛む気がして、反射的にそこを押さえる。けれど服の下の皮膚は切れていない。血も出ていない。骨も折れていない。


 それでも身体だけは知っている。

 昨日、いや昨日ではないのかもしれないが、とにかく一度、自分はそこを鉄で貫かれて死んだ。


 レオンはしばらく動けなかった。


 狭い部屋。湿った壁。寝台。箱。椅子。

 窓の隙間から入る灰色の朝。

 全部、前と同じだ。


 正確すぎる。

 同じ位置の上着。

 同じ角度の木杯。

 同じところで鳴く、外のやけに甲高い鳥。


「……またかよ」


 小さく言った声が、自分のものなのに妙によそよそしく聞こえた。


 最初のときは、夢だと思った。

 二度目は、熱だと思った。

 三度目で、そういうごまかしがだんだん苦しくなった。


 死んだのだ。

 ちゃんと。

 落ちて、刺さって、息が詰まって、身体が勝手に冷えていって、そこで終わった。なのに、朝になるとここに戻っている。


 痛みだけが少し遅れて消える。

 恐怖は、もっと遅い。


 寝台の縁に座ったまま、レオンは自分の手を見る。

 働く手だ。節が太く、爪のあいだに取れきらない汚れがある。昨夜の死のせいで、急に別人の手になるわけではない。


 だから余計に始末が悪い。


 この手で、また同じ朝を触るのだとわかる。


 外で、朝一番の荷車が石畳を軋ませて通った。

 その音だけで、レオンの胃が縮む。


 来る。

 あの通りを曲がる。

 水路沿い。工房裏。鉄材を積んだ荷車。滑る馬。崩れる束。間に合わない。


 まだ何も起きていないのに、身体が先に覚えている。


 レオンは立ち上がり、水桶の冷たい水で顔を洗った。鏡はない。なくても、自分がいまどんな顔をしているかくらいわかる。死人みたいな顔だろう。いや、一度死んでいるのだから、間違ってはいないのかもしれない。


 そう考えた瞬間、自分で自分が気味悪くなった。


 扉を開ける。

 労働者街の朝は、いつも同じ匂いがする。湿った石、汚れた水、燃えかけの炭、安い麦粥。生きるための匂いなのに、今日は少し墓に近い。


 共同井戸のそばで、隣の部屋の爺が咳をしている。

 昨日もしていた。

 その前もしていた。

 たぶん明日もする。


 その「明日」が、自分にとって他人と同じ意味かどうか、もうわからない。


「顔色悪いな、レオン」


 声をかけられ、レオンは反射的に振り返る。

 荷受け所でよく一緒になる人夫のマルクだ。太い腕と鈍い目つき。悪い奴じゃない。昨日――昨日でいいのか――自分の死体を見て、青くなっていた男でもある。


「……そうか」

「そうか、じゃねえよ。飲みすぎたか?」


 レオンは一瞬だけ答えに詰まる。

 飲みすぎたわけじゃない。死んだのだ。だがそんなことを言えるはずもない。


「寝不足だ」

「珍しいな」


 珍しい。

 そうだろう。マルクにとっては今朝が最初だからだ。


 レオンはそこで、ひどく妙な孤立を感じた。

 この男とはもう何回も同じ朝をやっている気がするのに、マルクにとって自分との今朝はたった一回しかない。


「行くぞ」

「ああ」


 荷受け所へ向かう道すがら、レオンは何度も周囲を見た。

 何を警戒しているのか、自分でも半分わかっていない。事故か、偶然か、それとも“同じ日がまた始まった”という事実そのものか。


 街は灰色だった。


 産業都市ヴァルカは、晴れていてもたいてい灰色に見える。石造りの建物、煤けた壁、水路の縁に溜まる汚れ、工房の煙。明るいものは空ではなく、火だけだ。そして火はいつも仕事のために燃えている。


 荷受け所に着くと、昨日と同じ木箱が積まれていた。

 縄のほつれ。箱の角の割れ。荷札の滲み。

 ここまで揃うと、神に悪戯されているみたいだった。


 若い見習いが、重い箱の縄を持ち直している。

 昨日、自分が壁際へ突き飛ばした相手だ。


「そっち持て」


 レオンは思わず強い口調で言った。


 見習いがびくりとする。

 マルクが怪訝そうにこちらを見る。


「朝から機嫌悪いな」

「悪い」


 苛立っているのは本当だった。

 恐怖をうまく隠せないとき、人はたいてい苛立って見える。


 木箱を担ぐ。重い。

 この重さは変わらない。

 それが少しだけ救いでもあった。死んでも朝に戻っても、木箱はちゃんと重い。世界が全部嘘になったわけではないと、そういうところでしか確かめられない。


 だが歩き始めると、また身体が先に硬くなる。


 水路沿いの細い道。

 工房裏の曲がり角。

 鉄材を積んだ荷車が来る位置。

 馬が滑る石。

 全部わかる。わかってしまう。


 レオンは前を見ながら、見習いへ低く言った。


「次、角で止まれ」

「え?」

「いいから止まれ」

「何で」

「いいからだ!」


 声が大きくなった。

 見習いは怯えて黙る。マルクが後ろで舌打ちした気配がする。


 まだ来ていない。

 なのに、来ることだけは知っている。


 角を曲がる直前、レオンは箱を下ろした。


「おい、何してる!」

「黙ってろ!」


 前方から鉄の軋む音。

 馬の鼻息。

 レオンは見習いの胸を押して壁際へ寄せ、自分も水路と反対側へ飛ぶ。


 その直後、荷車の馬が石を滑った。


 鉄材の束が大きく揺れ、何本かが崩れかける。

 御者が怒鳴る。工房の戸が開く。通りの人間が一斉に身を引く。だが今度は、死者は出ない。鉄材は石畳を打ち、火花を散らしただけで止まった。


 見習いが顔を真っ白にしている。

 御者が罵声を浴びせる。

 工房の男が「朝から何だ」と怒鳴る。


 レオンだけが、その場で立ち尽くした。


 助かった、と思う前に、先に来たのは眩暈だった。


 避けた。

 昨日知った死を使って。

 まだ何も起きていない朝に、自分だけが昨日の終わりを持ち込んで、避けた。


「……本当に」


 口の中で呟く。


「戻ってる……」


 見習いが何か言っている。

 だが半分しか聞こえない。


 怖い。

 怖いはずなのに、その下で別の感情が動き始めているのが、自分でもわかった。


 知っていれば、避けられる。

 もう一度やれば、もっと早く避けられる。

 別のやり方も試せる。


 その考えが頭をよぎった瞬間、レオンは自分で自分を殴りたくなった。

 今考えることか、それを。

 死んだばかりなのに。死が戻るとわかったばかりなのに。


 それでも考えてしまった。

 そのこと自体が、もう少し怖かった。


 通りの向こう、二階窓の暗がりから、その一部始終を見ている視線があった。


 ハザマは本に見せかけた端末へ、短く記録を落とす。


 ――対象、同一朝の反復を認識済み。

 ――事故回避に先行知識を使用。

 ――恐怖の内部に、試行の発想が混入し始めている。


 そのあと、少しだけ指を止める。


 鉄材の落ちた場所。

 死ななかった石畳。

 そこに、昨日の死の抜け跡だけが、まだごく薄く残っている。


 見つけるのが、前より早い。


 ハザマは自分の観測補正を一段戻し、最後に一行だけ加えた。


 ――未採用の死に、局所的な空白残留の可能性あり。


 通りの真ん中で、レオンはまだ自分の手を見ていた。

 生きている手だ。

 昨日もここにあったはずの手だ。

 なのに、昨日の死もまた、本当にあった気がする。


 見習いが怯えた顔で訊く。


「レオンさん、どうしてわかったんですか」


 レオンはすぐに答えられなかった。


 どうしてわかった。

 見たからだ。

 死んだからだ。

 言えるはずがない。


 彼は水路の黒い水を見下ろし、やがて誰にも聞こえないくらいの声で言った。


「……もう一回、確かめるか」


 その言葉は、祈りではなかった。

 まだ決意でもない。

 ただ、恐怖の中に混ざり始めた、試行の匂いだった。

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