第12話
その日の昼までに、レオンは三回、誰かに変な顔をされた。
一回目は、荷受け所の見習いに。
二回目は、水路沿いの工房女に。
三回目は、昼の配給を仕切る帳場の老人に。
理由はどれも小さい。
だが、小さいからこそ誤魔化しにくかった。
「おまえ、朝からずいぶん勘がいいな」
荷受け所の見習いがそう言ったとき、レオンは返事に詰まった。
勘ではない。
もう知っているだけだ。
朝の事故を避けてから、レオンの身体は奇妙な軽さと重さを同時に持っていた。助かったという安堵は確かにある。だがその下で、頭のどこかが冷えている。今朝ここで何が起こるか、自分だけが先に知っていた。その知識で生き延びた。そこまではいい。問題は、その知識がまだ手の中に残っていることだった。
たとえば、昼前の配給。
帳場の老人は、いつも麦粥を配る順を変えない。
だが今日は違った。昨日――いや、前の朝では、遅れてきた染色工房の女たちを先に通し、そのせいで荷運び連中が揉めた。口論になり、桶がひっくり返り、配給はしばらく止まった。
その光景を思い出した瞬間、レオンは言っていた。
「先にこっちを通したほうが早い」
老人は眉をひそめた。
まだ揉めてもいないのに、何を言い出すのかという顔だった。
「何でおまえが仕切る」
「いや、その……あいつら、桶をひっくり返す」
「は?」
そのときちょうど、染色工房の女の一人が急いで腕を振り、持っていた桶の縁を隣の男の肘にぶつけた。麦粥が少し跳ねる。男が振り返って怒鳴る。昨日見た始まり方と、ほとんど同じだった。
レオンは反射で桶を押さえた。
こぼれは最小限で済む。
場は荒れずに終わる。
帳場の老人は、礼より先に気味の悪さを顔に出した。
「……おまえ、何でわかった」
その問いに、レオンはもうまともに答えられない。
見たからだ。
起こったからだ。
そして自分だけが、それを持っているからだ。
「たまたまだ」
言いながら、自分で嘘が薄いとわかった。
工房女のときも同じだった。
水路の脇で、彼女はいつも片方の足をかばって歩く。前の朝、積み荷の角がその足首を直撃して、彼女は半日仕事を外れた。だから今日、レオンは荷車が揺れた瞬間に彼女の肩を引いた。
女は助かった。
それで終わればよかったのに、彼女は助かったあとで妙な顔をした。
「……見てたの?」
「何を」
「私の足」
責めているわけではない。
ただ、初めて会うに近い男が、自分の傷む足のことを知っていることに、少しだけ引いたのだ。
レオンは笑ってごまかそうとして、失敗した。
前の朝なら、彼女が痛みで顔をしかめたところまで知っている。そこまで知っているのに、彼女にはその共有がない。会話の高さが合わない。
そのズレが、昼になる頃にはじわじわと効いてきていた。
通りの向こう、荷受け所二階の窓から、ハザマはそのやりとりを見ていた。
対象レオン・グラーツ。
局所リプレイを理解し始めた男。
現時点での外見は、まだ生活苦の労働者でしかない。
だが、周囲との時間差がすでに発生している。
端末には、短い注記が積み上がる。
――対象、先行知識による小規模介入を反復。
――周囲の損害軽減に寄与。
――ただし関係形成が一方向に肥大。
ハザマは最後の文言を一度消して、書き直した。
――対象のみが経験を蓄積するため、対人距離に非対称が発生。
こちらの方が記録には向いている。
だが実際に起きていることの気味悪さは、もう少し生々しかった。
初対面のはずの相手に、相手の失敗や痛みや言いよどみを先回りして知られている。
知られている側には、理由のない親密さだけが押しつけられる。
その不自然さを、レオン自身も少しずつ感じ始めていた。
午後、荷運びの仕事が一段落したあと、レオンは市場裏の細い通りへ向かった。
そこは借金取りがよく立つ場所だった。
前の朝、彼はそこで殴られている。
払えない金の話だった。返済期限は過ぎている。逃げれば追われる。正面から行けば痛い目を見る。だから昨日は裏道へ回り、それで刺された。
今日はまだ刺されていない。
だが、どうすれば刺されるのかを知っている。
その知識が、レオンの足を少しだけ遅くした。
「……やめとけ」
自分で自分に言う。
今日は事故を避けただけで十分だ。余計なことを試すな。生きているだけでいい。
そのはずなのに、足は止まらなかった。
裏道の先で、借金取りの男が壁にもたれている。
細い目。痩せた肩。右の袖だけ少し短い。
昨日の朝に見た通りだ。
「よお、レオン」
男が笑う。
この男にとっては一回目の笑いだ。
レオンにとっては二回目だ。
「今日こそ耳揃えて払う気になったか?」
「……なってない」
「だろうな」
男は壁を離れ、近づく。
昨日はここで左へ避けた。石壁に追い込まれた。短刃が出た。腹ではなく脇を狙われた。抵抗しようとして、もっと深く入った。
レオンはその順番を知っている。
知っているからこそ、いま逃げれば、別の場所で同じことが起きる気がした。
「誰に頼まれてる」
レオンが先に言った。
男が一瞬だけ止まる。
「何だ?」
「おまえみたいなのが一人で動く額の借金じゃないだろ。誰に言われたんだ」
その言い方も、前の朝で聞いた相手の癖を先に踏まえたものだった。
借金取りは眉をひそめる。昨日はまだそこまで踏み込まなかった。だからこの問いは、男にとって唐突だ。
「知る必要あるか?」
「あるね」
レオンは答えながら、自分の声の落ち着き方にぞっとした。
昨日死んだ場所の一つ手前で、今日は相手の反応を測っている。
まるで何度か稽古した場面みたいに。
男の手が袖の中へ入る。
短刃が出る。
そこまでは知っていた。
だが次の一瞬、レオンは避けなかった。
避けられた。
昨日死んだ分だけ、今日は半歩ずらせたはずだ。
なのに避けなかった。
痛みが来る。
脇腹に熱いものが入り、遅れて身体が冷える。壁にぶつかる。呼吸が変な音になる。
借金取りが何か言っている。
その後ろ、路地の奥からもう一つ足音がする。重い靴だ。昨日はいなかった。いや、昨日もいたのに、自分が死ぬのが早すぎて見えなかっただけか。
影が一瞬、差す。
レオンは薄れゆく視界の中で、その靴の主の膝から下だけ見た。革の質が違う。街の人間の靴じゃない。どこか役人か、それに近い側の――
そこで視界が切れた。
死は、やはり死だった。
慣れない。
慣れたくもない。
だが終わる直前、レオンの頭には一つだけ、妙に冷えた理解が残った。
見えなかったものを、見た。
翌朝、レオンはまた飛び起きた。
今度は叫ばなかった。
代わりに、寝台の縁を握ったまま長く息を吐いた。
顔色は昨日より悪い。
だが混乱は、少し減っている。
減っていることの方が、もっと悪かった。
「……いるのか」
誰にともなく、そう呟く。
借金取りの背後にいた、もう一人。
自分のちんけな借金なんかより大きい何かが、あそこに絡んでいるのかもしれない。
それともただの取り巻きか。
どちらでもいい。昨日死んだから、今日はそこまで行ける。
水で顔を洗い、上着を取る。
外ではまた同じ鳥が鳴き、同じ咳がして、同じ鐘が鳴る準備をしている。
レオンはふと、自分の手を見た。
生き返った手ではない。
死んだあとに戻った手でもない。
もう少し悪い何かだ。死を持ち越したまま、また誰かと初めて会うための手。
そのころ、向かいの屋根裏から監視していたハザマは、記録欄の最後に短く入力していた。
――対象、死亡を情報取得のために半ば意図的に受容。
入力後、数秒だけ止まる。
半ば。
その語を残したのは、まだ完全な意図ではないと思いたかったからだ。
だが、希望的な文言かもしれないとも思う。
レオンはすでに、昨日の死を避けるだけでは足りなくなり始めている。
死んだ先でしか得られない情報があるなら、それを取りに行くという発想が、恐怖の中に混ざっている。
これは不死ではない。
死の反復でもない。
もっとじわじわと、人間の一回性を削る何かだ。
朝の鐘が鳴る。
レオンは今度、まっすぐ市場裏へ行くつもりで部屋を出た。
その背中を見送りながら、ハザマは端末を閉じる。
案件の輪郭が、一段はっきりした。
この男は、死なないから危険なのではない。
死を材料にし始めたから危険なのだ。




