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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第3章 死なない男

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第12話

その日の昼までに、レオンは三回、誰かに変な顔をされた。


 一回目は、荷受け所の見習いに。

 二回目は、水路沿いの工房女に。

 三回目は、昼の配給を仕切る帳場の老人に。


 理由はどれも小さい。

 だが、小さいからこそ誤魔化しにくかった。


「おまえ、朝からずいぶん勘がいいな」


 荷受け所の見習いがそう言ったとき、レオンは返事に詰まった。


 勘ではない。

 もう知っているだけだ。


 朝の事故を避けてから、レオンの身体は奇妙な軽さと重さを同時に持っていた。助かったという安堵は確かにある。だがその下で、頭のどこかが冷えている。今朝ここで何が起こるか、自分だけが先に知っていた。その知識で生き延びた。そこまではいい。問題は、その知識がまだ手の中に残っていることだった。


 たとえば、昼前の配給。


 帳場の老人は、いつも麦粥を配る順を変えない。

 だが今日は違った。昨日――いや、前の朝では、遅れてきた染色工房の女たちを先に通し、そのせいで荷運び連中が揉めた。口論になり、桶がひっくり返り、配給はしばらく止まった。


 その光景を思い出した瞬間、レオンは言っていた。


「先にこっちを通したほうが早い」


 老人は眉をひそめた。

 まだ揉めてもいないのに、何を言い出すのかという顔だった。


「何でおまえが仕切る」

「いや、その……あいつら、桶をひっくり返す」

「は?」


 そのときちょうど、染色工房の女の一人が急いで腕を振り、持っていた桶の縁を隣の男の肘にぶつけた。麦粥が少し跳ねる。男が振り返って怒鳴る。昨日見た始まり方と、ほとんど同じだった。


 レオンは反射で桶を押さえた。


 こぼれは最小限で済む。

 場は荒れずに終わる。


 帳場の老人は、礼より先に気味の悪さを顔に出した。


「……おまえ、何でわかった」


 その問いに、レオンはもうまともに答えられない。

 見たからだ。

 起こったからだ。

 そして自分だけが、それを持っているからだ。


「たまたまだ」


 言いながら、自分で嘘が薄いとわかった。


 工房女のときも同じだった。

 水路の脇で、彼女はいつも片方の足をかばって歩く。前の朝、積み荷の角がその足首を直撃して、彼女は半日仕事を外れた。だから今日、レオンは荷車が揺れた瞬間に彼女の肩を引いた。


 女は助かった。

 それで終わればよかったのに、彼女は助かったあとで妙な顔をした。


「……見てたの?」


「何を」

「私の足」


 責めているわけではない。

 ただ、初めて会うに近い男が、自分の傷む足のことを知っていることに、少しだけ引いたのだ。


 レオンは笑ってごまかそうとして、失敗した。

 前の朝なら、彼女が痛みで顔をしかめたところまで知っている。そこまで知っているのに、彼女にはその共有がない。会話の高さが合わない。


 そのズレが、昼になる頃にはじわじわと効いてきていた。


 通りの向こう、荷受け所二階の窓から、ハザマはそのやりとりを見ていた。


 対象レオン・グラーツ。

 局所リプレイを理解し始めた男。

 現時点での外見は、まだ生活苦の労働者でしかない。

 だが、周囲との時間差がすでに発生している。


 端末には、短い注記が積み上がる。


 ――対象、先行知識による小規模介入を反復。

 ――周囲の損害軽減に寄与。

 ――ただし関係形成が一方向に肥大。


 ハザマは最後の文言を一度消して、書き直した。


 ――対象のみが経験を蓄積するため、対人距離に非対称が発生。


 こちらの方が記録には向いている。

 だが実際に起きていることの気味悪さは、もう少し生々しかった。


 初対面のはずの相手に、相手の失敗や痛みや言いよどみを先回りして知られている。

 知られている側には、理由のない親密さだけが押しつけられる。


 その不自然さを、レオン自身も少しずつ感じ始めていた。


 午後、荷運びの仕事が一段落したあと、レオンは市場裏の細い通りへ向かった。

 そこは借金取りがよく立つ場所だった。


 前の朝、彼はそこで殴られている。

 払えない金の話だった。返済期限は過ぎている。逃げれば追われる。正面から行けば痛い目を見る。だから昨日は裏道へ回り、それで刺された。

 今日はまだ刺されていない。

 だが、どうすれば刺されるのかを知っている。


 その知識が、レオンの足を少しだけ遅くした。


「……やめとけ」


 自分で自分に言う。

 今日は事故を避けただけで十分だ。余計なことを試すな。生きているだけでいい。


 そのはずなのに、足は止まらなかった。


 裏道の先で、借金取りの男が壁にもたれている。

 細い目。痩せた肩。右の袖だけ少し短い。

 昨日の朝に見た通りだ。


「よお、レオン」


 男が笑う。

 この男にとっては一回目の笑いだ。

 レオンにとっては二回目だ。


「今日こそ耳揃えて払う気になったか?」

「……なってない」

「だろうな」


 男は壁を離れ、近づく。

 昨日はここで左へ避けた。石壁に追い込まれた。短刃が出た。腹ではなく脇を狙われた。抵抗しようとして、もっと深く入った。


 レオンはその順番を知っている。


 知っているからこそ、いま逃げれば、別の場所で同じことが起きる気がした。


「誰に頼まれてる」


 レオンが先に言った。


 男が一瞬だけ止まる。


「何だ?」

「おまえみたいなのが一人で動く額の借金じゃないだろ。誰に言われたんだ」


 その言い方も、前の朝で聞いた相手の癖を先に踏まえたものだった。

 借金取りは眉をひそめる。昨日はまだそこまで踏み込まなかった。だからこの問いは、男にとって唐突だ。


「知る必要あるか?」

「あるね」


 レオンは答えながら、自分の声の落ち着き方にぞっとした。


 昨日死んだ場所の一つ手前で、今日は相手の反応を測っている。

 まるで何度か稽古した場面みたいに。


 男の手が袖の中へ入る。

 短刃が出る。

 そこまでは知っていた。


 だが次の一瞬、レオンは避けなかった。


 避けられた。

 昨日死んだ分だけ、今日は半歩ずらせたはずだ。

 なのに避けなかった。


 痛みが来る。

 脇腹に熱いものが入り、遅れて身体が冷える。壁にぶつかる。呼吸が変な音になる。


 借金取りが何か言っている。

 その後ろ、路地の奥からもう一つ足音がする。重い靴だ。昨日はいなかった。いや、昨日もいたのに、自分が死ぬのが早すぎて見えなかっただけか。


 影が一瞬、差す。


 レオンは薄れゆく視界の中で、その靴の主の膝から下だけ見た。革の質が違う。街の人間の靴じゃない。どこか役人か、それに近い側の――


 そこで視界が切れた。


 死は、やはり死だった。

 慣れない。

 慣れたくもない。

 だが終わる直前、レオンの頭には一つだけ、妙に冷えた理解が残った。


 見えなかったものを、見た。


 翌朝、レオンはまた飛び起きた。


 今度は叫ばなかった。

 代わりに、寝台の縁を握ったまま長く息を吐いた。

 顔色は昨日より悪い。

 だが混乱は、少し減っている。


 減っていることの方が、もっと悪かった。


「……いるのか」


 誰にともなく、そう呟く。


 借金取りの背後にいた、もう一人。

 自分のちんけな借金なんかより大きい何かが、あそこに絡んでいるのかもしれない。

 それともただの取り巻きか。

 どちらでもいい。昨日死んだから、今日はそこまで行ける。


 水で顔を洗い、上着を取る。

 外ではまた同じ鳥が鳴き、同じ咳がして、同じ鐘が鳴る準備をしている。


 レオンはふと、自分の手を見た。

 生き返った手ではない。

 死んだあとに戻った手でもない。

 もう少し悪い何かだ。死を持ち越したまま、また誰かと初めて会うための手。


 そのころ、向かいの屋根裏から監視していたハザマは、記録欄の最後に短く入力していた。


 ――対象、死亡を情報取得のために半ば意図的に受容。


 入力後、数秒だけ止まる。


 半ば。

 その語を残したのは、まだ完全な意図ではないと思いたかったからだ。


 だが、希望的な文言かもしれないとも思う。


 レオンはすでに、昨日の死を避けるだけでは足りなくなり始めている。

 死んだ先でしか得られない情報があるなら、それを取りに行くという発想が、恐怖の中に混ざっている。


 これは不死ではない。

 死の反復でもない。

 もっとじわじわと、人間の一回性を削る何かだ。


 朝の鐘が鳴る。


 レオンは今度、まっすぐ市場裏へ行くつもりで部屋を出た。

 その背中を見送りながら、ハザマは端末を閉じる。


 案件の輪郭が、一段はっきりした。


 この男は、死なないから危険なのではない。

 死を材料にし始めたから危険なのだ。

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