第13話
同じ朝を三度も四度もやると、街そのものが狭く感じてくる。
レオンはそれを、いいことだとは思わなかった。
道が読める。
誰がどこで足を滑らせるか、どの荷車がいつ曲がってくるか、どの帳場の老人がどの順で文句を言うか、少しずつわかってしまう。
最初は助かるためだった。次は避けるためだった。
だが今は、その知識が勝手に人の内側へまで伸び始めている。
染色工房の女――ミレナが、桶を持つとき右手より左手に重さを逃がす癖も、笑う前に一度だけ口を閉じる癖も、もう知っていた。
知りたくて知ったわけではない。何度か同じ朝をやり直すうち、勝手に積もっただけだ。
「今日も行くの?」
ミレナがそう訊いたとき、レオンは反射的に「いや、今日は市場裏には行かないよ」と答えた。
そのあとで、彼女がまだ市場裏へ行く話などしていなかったことに気づいた。
「……何でそれを」
「何でって」
「私、まだ言ってない」
レオンは口を閉じる。
工房の裏口。湿った石壁。染料の匂い。
ミレナの顔は怒ってはいない。ただ、距離の測り方が少しずれた相手を見る顔だった。
「たぶん、いつもの時間だろ」
「そうだけど」
それで会話は切れた。
切れたまま、微妙な違和感だけが残る。
レオンは胸の奥が冷えるのを感じた。
助けたかっただけだ。今日もたぶん市場裏で借金取りが立つ。そこへ彼女が通りかかれば面倒になる。だから避けたかった。避けるためには、先に知っていることを使うしかない。
だが、その“しかない”の中に、もう無理が混じっている。
他人にとっては一回目の会話だ。
自分にとってだけ、何度目かになる。
そこに善意を持ち込むほど、相手の知らないものを先に持ちすぎる。
ミレナが桶を持って工房へ戻る背中を見送りながら、レオンは舌打ちした。
自分に対してだ。
余計なことを言った。余計なことを知っていた。
それでも、足は市場裏へ向かっていた。
借金取りの男は、今日も同じ壁にもたれていた。
細い目。袖に隠した短刃。乾いた笑い方。
この男だけなら、もう対処できる。少なくとも前の自分よりは。
「また来たか」
男が言う。
また。
男にとっては初めてだ。
だが、レオンはその言葉にもう何度か刺されている。
「後ろに誰がいる」
レオンは挨拶より先に言った。
男の目が細くなる。
苛立ちではない。測る目だ。
「今日は元気だな」
「質問してる」
「答える義理がねえ」
わかっている。
前の朝もそうだった。
ここで踏み込めば、刃が出る。半歩遅れれば脇腹。さらに遅ければ首筋。
レオンは壁際へ寄らない。
むしろ一歩、相手の間合いへ入った。
「おまえ一人で回してる金じゃない」
「耳がいいのか、勘がいいのか」
「どっちでもない。知ってるだけだ」
「は?」
言ってから、自分でもその言葉の冷たさに驚く。
知ってるだけ。
その“だけ”の中に、何回ぶんもの死が入っている。
男の手が袖へ入る。
刃が出る。
レオンは今度は避けた。半歩。さらに踏み込み、男の手首を掴んで石壁へ押しつける。昨日までならできなかった動きだ。死んで、見て、間合いを覚えたからできる。
「後ろに誰がいる」
男の手首がきしむ。
だが次の瞬間、路地の奥から本当に別の足音がした。
重い。
昨日死ぬ直前に聞いた靴音と同じだ。
レオンは反射的に振り向く。
そこにいたのは、役人ふうの上着を着た中年の男だった。
市の倉庫役人に見える。だがその布地は、労働者街にしては質がよすぎる。右手の指に、荷印ではない細い金属輪が光っている。
「離せ」
男は短く言った。
声に覚えはない。
だが、覚えがないことの方が逆に嫌だった。昨日まで見えていなかっただけかもしれないからだ。
「こいつ、誰に雇われてる」
「おまえには関係ない」
「ある」
レオンは離さない。
胸の中では恐怖が暴れている。だが、そこからもう一歩だけ先へ行けば何か見える気がした。死んでも戻るなら、今はその“一歩”を買える。
その発想が出た時点で、自分が変わり始めているのだと、どこかではわかっていた。
役人ふうの男が少しだけ顎を動かす。
借金取りはその合図だけで力を抜き、逆にレオンの腕を引いた。体勢が崩れる。次に来る角度が読めない。刃は脇腹ではなく、今度は腿を裂いた。
レオンは膝をつく。
痛い。
痛いのに、頭のどこかだけが白く冷えている。
血の落ち方。靴の位置。役人ふうの男の袖口。そこに、ごく薄く見慣れない縫い目がある。街の仕立てではない。もっと滑らかで、細い。
「その輪、何だ」
レオンが言うと、男は一瞬だけ本当に不思議そうな顔をした。
そこを見られるとは思っていなかった顔だ。
「……誰に聞いた」
「知らねえよ。見えただけだ」
嘘だった。
見えた。だが、どこかで“見覚え”もあった。
この街では見たことがない金属の冷たい光に、意味のわからない懐かしさが混じる。
借金取りが二度目の刃を入れる。
今度は深かった。
レオンは壁にもたれ、呼吸が崩れる。足元の石畳が遠くなり、路地の匂いがやけに濃くなる。死ぬ、と身体が先に理解する。
その瞬間、視界の奥で別の光景が弾けた。
濡れた黒い路面。
白い帯。
低く続く警告音。
ガラス越しに滲む、硬い光。
誰かが何かを叫んでいる。言葉はわからないのに、切迫だけはわかる。
そして、正面から来る二つの光。
レオンの目が見開く。
何だ、それは。
この街にない。
石も水路もない。馬もいない。なのに、なぜか自分の胸だけが、その風景を知っているみたいに縮む。
次の瞬間、全部が切れた。
*
向かいの建物の屋上から見ていたハザマは、対象の生命反応が落ちた時点で記録を固定した。
死亡二回目。いや、確認済みだけで何度目かはもう曖昧だ。重要なのは回数ではない。使い方だった。
レオンは今日は、事故を避けるためではなく、背後関係を見るために死の危険を受け入れた。
完全な自殺ではない。
だが、情報と引き換えに死の可能性を呑んでいる。
ハザマは端末に入力する。
――対象、死亡を交渉・探索の延長へ組み込み始めている。
入力後、視線を路地へ戻す。
血が広がる。借金取りと役人ふうの男はすでに立ち去り始めている。そこにもまた、薄い空白が残る。死んだはずの場所にだけ、世界の縫い目が少し遅れる感じ。
だが、今日はそれだけではなかった。
死亡直前、対象の脳波に短い異常発火がある。
現地記憶帯ではない。
ハザマは再生をかける。ほんの一秒未満。視覚断片。音。輪郭。
黒い平面。
白い線。
規格外の光源。
ハザマの表情が、わずかに動いた。
「……何だ、これは」
現地文化圏にない風景だった。
夢とも幻とも断定できる。だが、案件のこの位置で出るには、少し都合がよすぎる。
端末が短く振動する。真木からの簡易メッセージだ。
《対象死亡時の保全波形、追加解析》
《標準的な現地祝福・呪詛系ではない》
《外部人格案件の亜種に近い》
《あと、書式が雑》
《嫌な言い方をすると、違法介入臭がする》
ハザマはその文面を二度読んだ。
違法介入臭。
真木がそう書くときは、まだ断定できないときだ。断定できるなら、もっと乾いた用語を使う。
レオンの死体は、程なくして役人に運ばれる。
この街にとってはただの裏路地の暴力だ。
他人には一回きり。
レオンだけが、翌朝これを情報に変える。
ハザマは端末を閉じる。
ユウト案件の残留。
空白への参照。
死んだはずの場所に残る抜け。
そして今、現地にない風景断片。
まだ線にはならない。
だが、点は増えている。
*
翌朝、レオンはまた目を開けた。
今度は飛び起きない。
起き上がる前に、先に右腿へ手をやる。傷はない。だが、熱い痛みだけは残像みたいに脈打っていた。
息を整える。
そして、昨日の路地で見たものを思い出そうとする。
黒い道。
白い線。
光。
「……何だよ、あれ」
口に出してみる。
どの言葉でもしっくりこない。
夢にしては具体的で、記憶にしては意味がない。
レオンは寝台に腰かけたまま、自分の手を見た。
同じ手。
同じ朝。
違うのは、自分の中に増え続ける、ここにないものだけだ。
外ではまた同じ咳がして、同じ鳥が鳴く。
だがレオンには、もうこの街だけが自分の全部だとは思えなくなり始めていた。
理由はわからない。
わからないまま、胸の奥だけが少し冷える。
今日も市場裏へ行く。
今度は、あの輪をもっと近くで見るために。
そう決めた時点で、昨日よりさらに一歩、戻れなくなっているとわかっていた。




