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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第3章 死なない男

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第14話

その朝を、レオンはもう六回使っていた。


 回数を指折り数えるのは、四回目でやめた。

 五回を越えると、正確さより感触のほうが先に残る。どこで死んだか、どこで痛かったか、どこで情報が取れたか。そういう手触りだけが、朝ごと身体に積もっていく。


 最初の頃は、起きるたびに吐いていた。

 いまは吐かない。

 それがいちばん悪かった。


 寝台から起き上がり、右腿をさする。傷はない。だが、刃が入った位置だけはまだ冷えている。脇腹にも、胸にも、首にも、消えたはずの痛みが薄く重なっている。身体は朝に戻っているのに、死の残滓がまだ体の奥に残っている。


 レオンは顔を洗いながら、前の朝のやりとりを反芻した。


 借金取り。

 その背後にいた役人ふうの男。

 指の細い輪。

 死ぬ直前に見た、ここにはない風景。


 黒い道。白い線。警告音。硬い光。


 夢にしては鮮明すぎる。

 記憶にしては意味が通らない。

 なのに、その断片が頭のどこかへ引っかかって離れなかった。


「……知ってる、気がするんだよな」


 言葉に出すと、部屋の狭さが急に他人行儀に感じられた。


 外へ出る。

 労働者街の朝はまた同じだ。咳。桶の音。湿った石。鳥。

 だがレオンのほうが、もう同じではない。


 共同井戸のそばで、マルクが手を振る。

 レオンはそれに手を上げ返しながら、今日の午前に起きる小さなことをいくつも先に知っている自分を、なるべく考えないようにした。


 荷受け所へ着くまでに、彼は二つの事故を未然に防いだ。

 一つは積み木箱の崩れ。

 一つは水路沿いの滑落。


 どちらも善意だった。

 だが善意だけでは済まない。


「何でそこまでわかるんだ」


 見習いの一人にそう聞かれ、レオンは肩をすくめてごまかした。

 もう、こういう顔をされること自体には慣れ始めている。


 慣れるな、と頭のどこかで思う。

 だが、もう遅いのかもしれない。


 午前の仕事の途中、ミレナが桶を抱えて通りかかった。

 今日も市場へ染料を運ぶのだろう。彼女はレオンを見ると、少しだけ迷った顔で足を止めた。前より近づきにくそうな、でも完全には避けていない距離だった。


「今日も出るの?」


 彼女が聞く。


 レオンは反射的に答えた。


「いや、今日は市場裏には近づかない」


 言った瞬間、自分で顔が強張る。


 ミレナの眉がわずかに寄った。


「……市場裏って、まだ言ってないけど」

「……たぶん、そっち行くだろ」

「たぶんで決めつけるの?」


 声音は責めるほど強くない。

 けれど、そのやりとりの中に細い棘がある。


 レオンは言葉に詰まる。

 市場裏へ彼女が行くのを知っているのは、前の朝にそうだったからだ。だが彼女にはそれがない。自分だけが、彼女の一回目の朝へ二回目の知識を持ち込んでしまっている。


「悪い」


 結局、それしか言えなかった。


 ミレナはしばらくレオンを見ていたが、やがて小さく息をついた。


「最近、変だよ」

「……そうだろうな」

「何があったの」

「別に」

「別に、ね」


 その返し方が、彼女には不誠実に見えただろう。

 当然だ、とレオンは思う。自分でもそう思う。


 彼女は桶を抱え直し、今度は本当に市場へ向かって歩き出す。

 レオンはその背中を見ながら、止めるべきか迷った。止めればまた、知りすぎた人間になる。止めなければ、別の朝で見た面倒へ彼女を近づける。


 選ぶたびに、どちら側でも少し腐る。


 向かいの倉庫屋根の影から、ハザマはその会話を見ていた。


 対象レオン・グラーツ。

 現在、先行知識による小規模介入を繰り返している。損害軽減に寄与している事例も多い。

 にもかかわらず、関係の手触りは悪化している。


 善意が働いているから安心、ではない。

 むしろ善意があるぶん、ねじれが見えにくい。


 端末に新しいログを落とす。


 ――対象、対人関係に未来知識を混入。

 ――結果として、理由のない親密さと理由のない支配が同時発生。


 最後の一語に少し迷い、消さないまま残した。

 支配。まだ強すぎるかもしれない。

 だが、相手の知らない失敗や痛みを先に知った上で距離を決めるのは、もう保護だけでは済まない。


 ハザマの端末へ、葛西から短い確認が届く。


《監視継続。接触許可なし》

《判断拡張を行うな》


 ハザマは読んで閉じた。

 言われなくてもわかっている。

 わかっているが、現場はその通りの順番では進まない。


 昼すぎ、レオンはわざと仕事を早く切り上げた。

 表向きは腹痛。誰も深くは追わない。労働者街では、体調不良も借金も、人の持ち物として雑に処理される。


 だがレオンの狙いは別にあった。


 役人ふうの男が現れる時間と場所を、ここ数回で少しずつ絞っていたのだ。

 市場裏。水路沿いの倉庫街。帳簿の受け渡しがある路地。

 直接追えばすぐ死ぬ。だから、誰がどの角を曲がるか、どの鐘のあとに現れるかを、死と引き換えに削ってきた。


 知りたいだけじゃない。

 もう、突き止めたいになっている。

 その変化をレオン自身も理解していたが、止められなかった。


 水路沿いの倉庫街は昼でも薄暗い。

 建物が高く、空が細い。水は濁り、板橋は湿り、荷縄の匂いと鉄の錆の匂いが混じっている。遠くで鍛冶の音。近くで誰かの咳。生きた街の音なのに、ここだけ少し死に近い。


 役人ふうの男は、やはり来た。


 今日は借金取りを連れていない。

 代わりに、灰色の上着の裾から、あの細い輪がはっきり見えた。


 レオンは柱の陰から出る。


「待て」


 男が止まる。

 表情は変わらないが、目だけが瞬時に動いた。周囲の出口と、水路と、レオンの両手の位置を見る。慣れている目だ。


「おまえか」


「その輪、何だ」


 男は返事の代わりに、少しだけ首を傾けた。


「昨日も聞いたな」

「昨日じゃない」

「そうか?」


 その返しに、レオンの背中が冷える。


 知っているのか。

 ただの揺さぶりか。

 判断がつかない。


「誰に雇われてる」

「それを聞いてどうする」

「知りたい」

「知ると死ぬぞ」


 レオンは唇を歪める。

 もう死んでいる。何度も。だが、その返しを口に出しかけて飲み込む。出せば、こちらの異常が先に露骨になる。


「……すでに何度か死んでる顔だな」


 男が低く言った。


 レオンの呼吸が止まる。


「何だと」

「おまえ、目の焦点が少し変だ。初めて刃を見た人間の目じゃない」

「誰だ、おまえ」

「おまえこそ誰だ」


 そこで男の指が、輪に触れた。


 細い金属輪の表面に、ほんの一瞬だけ、石の街に似合わない冷たい光が走る。

 それを見た瞬間、レオンの頭の奥でまた別の断片が弾けた。


 透明な板。

 数字。

 見たことのない文字列。

 そして、耳に近すぎる誰かの声。


 ――再起動。

 ――保全。

 ――同期。


 意味はわからない。

 だがその響きだけが、なぜかひどく近い。


 レオンは一歩後ずさる。

 男もわずかに目を細めた。今の反応を見たのだろう。


「……残っているのか」


 男がごく小さく呟く。


「何が」

「いや」


 そこで男は話を切った。

 次の瞬間、倉庫の陰から別の足音がした。借金取りではない。市の警備兵に近い重さ。レオンは反射で振り返る。その一拍で、男はもう動いていた。


 逃げる。

 水路沿いへ。


 レオンも追う。

 追ってから、自分が何をしているのかわからなくなる。相手の正体を知りたい。輪の意味を知りたい。昨日よりもう少し先まで行きたい。だがその「先」のために、また死を払うつもりなのかと、自分の中でもう一人が冷たく問う。


 男は板橋を渡る。

 湿っている。

 前の朝、別の男がそこから滑って落ちたのを見たことがある。だから危ないとわかる。わかるのに、レオンは減速しない。


 板が軋む。

 足が滑る。


 水路へ落ちる寸前、男の上着の内側が少しだけ開き、銀色の薄い片が見えた。金属でも革でもない、もっと滑らかな何か。そこにもまた、この街のものではない冷たい質感がある。


 レオンはそれを見たまま、体勢を崩した。


 濁った水が迫る。

 落ちれば、たぶんまた死ぬ。

 そして明日の朝に戻る。


 それでも今は、その片が何かをもう少し見たいと思っている自分がいた。


 その瞬間だった。


 横から伸びた手が、レオンの襟を強く引いた。


 喉が詰まる。

 背中が板へ打ちつけられる。

 水路へ落ちる軌道が消える。


 男はその隙に走り去った。

 銀の片も、輪も、すぐ見えなくなる。


 レオンは咳き込みながら、自分を引いた相手を見上げる。


 黒い外套。

 この街には少し似合わない、輪郭の鋭い男。


 初めて正面から見る顔だった。

 見覚えはない。

 なのに、どこかでずっと見られていたような嫌な確信だけが先に来る。


「……誰だ」


 レオンが言う。


 男はすぐには答えない。

 水路の向こう、逃げた男の消えた先を一度だけ確認し、それからレオンへ視線を戻す。


「それを訊く前に」


 低い声だった。平坦で、だが妙に通る。


「あなたは、自分が何回目の朝を使っているか、もう数えていませんね」


 レオンの顔から血の気が引く。


 知っている。

 こいつは知っている。

 自分の異常を、事故や借財や悪夢ではなく、もっと別の言葉で知っている。


「……何なんだ、おまえ」

「観測していました」


 男はそう言ってから、一拍だけ間を置く。


「正確には、まだ監視段階でした」


 レオンは立ち上がろうとして、足に力が入らない。

 死にかけたせいだけじゃない。今まで見えていなかったものが、急に人間の形を取って目の前へ出てきたせいだ。


「監視……?」

「はい」


 男は短く言った。


「これ以上、あなたを放置すると周囲の一回性が削れる」


 その言葉は意味がわからない。

 わからないのに、正確に嫌だった。


「何を言ってる」

「あなたはもう、死を避けるために動いていない」

「……」

「死んだ先にしかない情報を取りに行き始めている」

「違う」

「違いません」


 レオンは反射的に否定したが、声に力がなかった。


 違わない。

 さっき、自分は落ちる寸前でも、あの銀の片をもっと見たいと思っていた。死ぬかもしれないと知りながら、それを材料として扱いかけていた。


 男はその沈黙を見ていた。


「名前を聞いても?」

 レオンが絞り出すように言う。


 男はほんの少しだけ視線を細める。

 名乗るかどうかを測る目だ。


「ハザマです」


 それだけだった。


 役職も、立場も、所属も言わない。

 だが、その短さの方がかえって不気味だった。名前だけを差し出しても十分だと思っている人間の気配がある。


 レオンは水路の濁りを横目で見た。

 落ちていれば、明日の朝に戻れたかもしれない。いや、戻れた。たぶん。

 だが今は落ちていない。

 死を使って先へ行く流れを、この男に一度切られた。


 それが妙に腹立たしく、妙に安堵でもあった。


「……あいつは誰だ」


 ハザマはすぐには答えなかった。


「まだ断定できません」

「知ってる口だな」

「あなたよりは」

「ふざけるな」

「ふざけていません」


 ハザマは周囲へ視線を流す。追手はまだ来ていない。だがここに留まる時間でもない。


「接触許可は今取ります」

「何だよそれ」

「手順です」

「手順で人を見てるのか」

「そうしないと、適切に処理できない」


 レオンはその返答に、ぞっとするより先に、なぜか少し笑いそうになった。

 この男は気持ち悪いほど正直だ。ごまかしてくれれば憎みやすいのに、ごまかさない。


「……俺のこと、何だと思ってる」

 レオンが聞く。


 ハザマは答えを少しだけ選んでから言った。


「まだ、確定していません」

「そういうことじゃない」

「では、こう言います」


 ハザマの声は、低いままだった。


「あなたは、ただ死なないのではない。死を重ねるたび、人と世界の距離を少しずつ壊している」


 レオンは言い返せなかった。


 板橋の下で、水が濁って流れていく。

 街はいつもの午後へ戻りつつある。誰もこの場で何が起きたか知らない。知らないまま働き、食い、眠る。

 その“一回きり”の中へ、自分だけが複数回の死を持ち込んでいる。


 そして今、それを言葉にした人間が目の前にいる。


 ハザマは端末を一度だけ開き、短く何かを送信した。

 その画面はレオンには見えない。見えないのに、あの銀の輪に似た冷たさだけは感じる。


「次は、こちらから話を聞きます」


 そう言ってハザマは端末を閉じた。


「逃げますか」

「逃げたら」

「追います」

「死んだら」

「それでも追います」


 レオンは初めて、ほんの少しだけ本気で寒くなった。


 死んでも追う。

 それは脅しではない。

 この男は事務の言葉で、本当にそう言っている。


 ハザマはもう一度だけ水路の向こうを見た。

 役人ふうの男は消えている。銀の片も輪も、いまは回収できない。

 だが、十分だった。


 レオン。

 外部由来の断片記憶。

 違法介入臭。

 未採用の死に残る空白。

 そして、死を材料にし始めた倫理の摩耗。


 監視段階はここで終わる。


「今日は戻ってください」

 ハザマが言う。

「また朝まで待てってのか」

「いいえ」

「じゃあ何だ」

「次は、あなたが戻る朝ではなく、こちらの手順で進めます」


 レオンはその意味を半分も理解できなかった。

 だが、理解できないまま、もう元の位置には戻れないことだけはわかった。


 板橋から降りるとき、レオンは一度だけ振り返った。

 水路の上にはまだ、自分が落ちかけた空白が、目には見えない薄さで残っている気がした。

 死ななかった。

 だから明日の朝へは飛ばない。

 なのに、死にかけたその可能性だけが、どこにも行かずにここへ残る。


 その違和感は、前よりはっきりしていた。


 ハザマもまた、同じ場所を見ていた。

 だが彼の視線はレオンではなく、その空白の形を測っているように見える。


 レオンはそこで、ひどく悪い予感を抱く。


 自分はこの男に見つかったのではない。

 自分の死と、その抜け跡ごと見つかったのだと。

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