第14話
その朝を、レオンはもう六回使っていた。
回数を指折り数えるのは、四回目でやめた。
五回を越えると、正確さより感触のほうが先に残る。どこで死んだか、どこで痛かったか、どこで情報が取れたか。そういう手触りだけが、朝ごと身体に積もっていく。
最初の頃は、起きるたびに吐いていた。
いまは吐かない。
それがいちばん悪かった。
寝台から起き上がり、右腿をさする。傷はない。だが、刃が入った位置だけはまだ冷えている。脇腹にも、胸にも、首にも、消えたはずの痛みが薄く重なっている。身体は朝に戻っているのに、死の残滓がまだ体の奥に残っている。
レオンは顔を洗いながら、前の朝のやりとりを反芻した。
借金取り。
その背後にいた役人ふうの男。
指の細い輪。
死ぬ直前に見た、ここにはない風景。
黒い道。白い線。警告音。硬い光。
夢にしては鮮明すぎる。
記憶にしては意味が通らない。
なのに、その断片が頭のどこかへ引っかかって離れなかった。
「……知ってる、気がするんだよな」
言葉に出すと、部屋の狭さが急に他人行儀に感じられた。
外へ出る。
労働者街の朝はまた同じだ。咳。桶の音。湿った石。鳥。
だがレオンのほうが、もう同じではない。
共同井戸のそばで、マルクが手を振る。
レオンはそれに手を上げ返しながら、今日の午前に起きる小さなことをいくつも先に知っている自分を、なるべく考えないようにした。
荷受け所へ着くまでに、彼は二つの事故を未然に防いだ。
一つは積み木箱の崩れ。
一つは水路沿いの滑落。
どちらも善意だった。
だが善意だけでは済まない。
「何でそこまでわかるんだ」
見習いの一人にそう聞かれ、レオンは肩をすくめてごまかした。
もう、こういう顔をされること自体には慣れ始めている。
慣れるな、と頭のどこかで思う。
だが、もう遅いのかもしれない。
午前の仕事の途中、ミレナが桶を抱えて通りかかった。
今日も市場へ染料を運ぶのだろう。彼女はレオンを見ると、少しだけ迷った顔で足を止めた。前より近づきにくそうな、でも完全には避けていない距離だった。
「今日も出るの?」
彼女が聞く。
レオンは反射的に答えた。
「いや、今日は市場裏には近づかない」
言った瞬間、自分で顔が強張る。
ミレナの眉がわずかに寄った。
「……市場裏って、まだ言ってないけど」
「……たぶん、そっち行くだろ」
「たぶんで決めつけるの?」
声音は責めるほど強くない。
けれど、そのやりとりの中に細い棘がある。
レオンは言葉に詰まる。
市場裏へ彼女が行くのを知っているのは、前の朝にそうだったからだ。だが彼女にはそれがない。自分だけが、彼女の一回目の朝へ二回目の知識を持ち込んでしまっている。
「悪い」
結局、それしか言えなかった。
ミレナはしばらくレオンを見ていたが、やがて小さく息をついた。
「最近、変だよ」
「……そうだろうな」
「何があったの」
「別に」
「別に、ね」
その返し方が、彼女には不誠実に見えただろう。
当然だ、とレオンは思う。自分でもそう思う。
彼女は桶を抱え直し、今度は本当に市場へ向かって歩き出す。
レオンはその背中を見ながら、止めるべきか迷った。止めればまた、知りすぎた人間になる。止めなければ、別の朝で見た面倒へ彼女を近づける。
選ぶたびに、どちら側でも少し腐る。
向かいの倉庫屋根の影から、ハザマはその会話を見ていた。
対象レオン・グラーツ。
現在、先行知識による小規模介入を繰り返している。損害軽減に寄与している事例も多い。
にもかかわらず、関係の手触りは悪化している。
善意が働いているから安心、ではない。
むしろ善意があるぶん、ねじれが見えにくい。
端末に新しいログを落とす。
――対象、対人関係に未来知識を混入。
――結果として、理由のない親密さと理由のない支配が同時発生。
最後の一語に少し迷い、消さないまま残した。
支配。まだ強すぎるかもしれない。
だが、相手の知らない失敗や痛みを先に知った上で距離を決めるのは、もう保護だけでは済まない。
ハザマの端末へ、葛西から短い確認が届く。
《監視継続。接触許可なし》
《判断拡張を行うな》
ハザマは読んで閉じた。
言われなくてもわかっている。
わかっているが、現場はその通りの順番では進まない。
昼すぎ、レオンはわざと仕事を早く切り上げた。
表向きは腹痛。誰も深くは追わない。労働者街では、体調不良も借金も、人の持ち物として雑に処理される。
だがレオンの狙いは別にあった。
役人ふうの男が現れる時間と場所を、ここ数回で少しずつ絞っていたのだ。
市場裏。水路沿いの倉庫街。帳簿の受け渡しがある路地。
直接追えばすぐ死ぬ。だから、誰がどの角を曲がるか、どの鐘のあとに現れるかを、死と引き換えに削ってきた。
知りたいだけじゃない。
もう、突き止めたいになっている。
その変化をレオン自身も理解していたが、止められなかった。
水路沿いの倉庫街は昼でも薄暗い。
建物が高く、空が細い。水は濁り、板橋は湿り、荷縄の匂いと鉄の錆の匂いが混じっている。遠くで鍛冶の音。近くで誰かの咳。生きた街の音なのに、ここだけ少し死に近い。
役人ふうの男は、やはり来た。
今日は借金取りを連れていない。
代わりに、灰色の上着の裾から、あの細い輪がはっきり見えた。
レオンは柱の陰から出る。
「待て」
男が止まる。
表情は変わらないが、目だけが瞬時に動いた。周囲の出口と、水路と、レオンの両手の位置を見る。慣れている目だ。
「おまえか」
「その輪、何だ」
男は返事の代わりに、少しだけ首を傾けた。
「昨日も聞いたな」
「昨日じゃない」
「そうか?」
その返しに、レオンの背中が冷える。
知っているのか。
ただの揺さぶりか。
判断がつかない。
「誰に雇われてる」
「それを聞いてどうする」
「知りたい」
「知ると死ぬぞ」
レオンは唇を歪める。
もう死んでいる。何度も。だが、その返しを口に出しかけて飲み込む。出せば、こちらの異常が先に露骨になる。
「……すでに何度か死んでる顔だな」
男が低く言った。
レオンの呼吸が止まる。
「何だと」
「おまえ、目の焦点が少し変だ。初めて刃を見た人間の目じゃない」
「誰だ、おまえ」
「おまえこそ誰だ」
そこで男の指が、輪に触れた。
細い金属輪の表面に、ほんの一瞬だけ、石の街に似合わない冷たい光が走る。
それを見た瞬間、レオンの頭の奥でまた別の断片が弾けた。
透明な板。
数字。
見たことのない文字列。
そして、耳に近すぎる誰かの声。
――再起動。
――保全。
――同期。
意味はわからない。
だがその響きだけが、なぜかひどく近い。
レオンは一歩後ずさる。
男もわずかに目を細めた。今の反応を見たのだろう。
「……残っているのか」
男がごく小さく呟く。
「何が」
「いや」
そこで男は話を切った。
次の瞬間、倉庫の陰から別の足音がした。借金取りではない。市の警備兵に近い重さ。レオンは反射で振り返る。その一拍で、男はもう動いていた。
逃げる。
水路沿いへ。
レオンも追う。
追ってから、自分が何をしているのかわからなくなる。相手の正体を知りたい。輪の意味を知りたい。昨日よりもう少し先まで行きたい。だがその「先」のために、また死を払うつもりなのかと、自分の中でもう一人が冷たく問う。
男は板橋を渡る。
湿っている。
前の朝、別の男がそこから滑って落ちたのを見たことがある。だから危ないとわかる。わかるのに、レオンは減速しない。
板が軋む。
足が滑る。
水路へ落ちる寸前、男の上着の内側が少しだけ開き、銀色の薄い片が見えた。金属でも革でもない、もっと滑らかな何か。そこにもまた、この街のものではない冷たい質感がある。
レオンはそれを見たまま、体勢を崩した。
濁った水が迫る。
落ちれば、たぶんまた死ぬ。
そして明日の朝に戻る。
それでも今は、その片が何かをもう少し見たいと思っている自分がいた。
その瞬間だった。
横から伸びた手が、レオンの襟を強く引いた。
喉が詰まる。
背中が板へ打ちつけられる。
水路へ落ちる軌道が消える。
男はその隙に走り去った。
銀の片も、輪も、すぐ見えなくなる。
レオンは咳き込みながら、自分を引いた相手を見上げる。
黒い外套。
この街には少し似合わない、輪郭の鋭い男。
初めて正面から見る顔だった。
見覚えはない。
なのに、どこかでずっと見られていたような嫌な確信だけが先に来る。
「……誰だ」
レオンが言う。
男はすぐには答えない。
水路の向こう、逃げた男の消えた先を一度だけ確認し、それからレオンへ視線を戻す。
「それを訊く前に」
低い声だった。平坦で、だが妙に通る。
「あなたは、自分が何回目の朝を使っているか、もう数えていませんね」
レオンの顔から血の気が引く。
知っている。
こいつは知っている。
自分の異常を、事故や借財や悪夢ではなく、もっと別の言葉で知っている。
「……何なんだ、おまえ」
「観測していました」
男はそう言ってから、一拍だけ間を置く。
「正確には、まだ監視段階でした」
レオンは立ち上がろうとして、足に力が入らない。
死にかけたせいだけじゃない。今まで見えていなかったものが、急に人間の形を取って目の前へ出てきたせいだ。
「監視……?」
「はい」
男は短く言った。
「これ以上、あなたを放置すると周囲の一回性が削れる」
その言葉は意味がわからない。
わからないのに、正確に嫌だった。
「何を言ってる」
「あなたはもう、死を避けるために動いていない」
「……」
「死んだ先にしかない情報を取りに行き始めている」
「違う」
「違いません」
レオンは反射的に否定したが、声に力がなかった。
違わない。
さっき、自分は落ちる寸前でも、あの銀の片をもっと見たいと思っていた。死ぬかもしれないと知りながら、それを材料として扱いかけていた。
男はその沈黙を見ていた。
「名前を聞いても?」
レオンが絞り出すように言う。
男はほんの少しだけ視線を細める。
名乗るかどうかを測る目だ。
「ハザマです」
それだけだった。
役職も、立場も、所属も言わない。
だが、その短さの方がかえって不気味だった。名前だけを差し出しても十分だと思っている人間の気配がある。
レオンは水路の濁りを横目で見た。
落ちていれば、明日の朝に戻れたかもしれない。いや、戻れた。たぶん。
だが今は落ちていない。
死を使って先へ行く流れを、この男に一度切られた。
それが妙に腹立たしく、妙に安堵でもあった。
「……あいつは誰だ」
ハザマはすぐには答えなかった。
「まだ断定できません」
「知ってる口だな」
「あなたよりは」
「ふざけるな」
「ふざけていません」
ハザマは周囲へ視線を流す。追手はまだ来ていない。だがここに留まる時間でもない。
「接触許可は今取ります」
「何だよそれ」
「手順です」
「手順で人を見てるのか」
「そうしないと、適切に処理できない」
レオンはその返答に、ぞっとするより先に、なぜか少し笑いそうになった。
この男は気持ち悪いほど正直だ。ごまかしてくれれば憎みやすいのに、ごまかさない。
「……俺のこと、何だと思ってる」
レオンが聞く。
ハザマは答えを少しだけ選んでから言った。
「まだ、確定していません」
「そういうことじゃない」
「では、こう言います」
ハザマの声は、低いままだった。
「あなたは、ただ死なないのではない。死を重ねるたび、人と世界の距離を少しずつ壊している」
レオンは言い返せなかった。
板橋の下で、水が濁って流れていく。
街はいつもの午後へ戻りつつある。誰もこの場で何が起きたか知らない。知らないまま働き、食い、眠る。
その“一回きり”の中へ、自分だけが複数回の死を持ち込んでいる。
そして今、それを言葉にした人間が目の前にいる。
ハザマは端末を一度だけ開き、短く何かを送信した。
その画面はレオンには見えない。見えないのに、あの銀の輪に似た冷たさだけは感じる。
「次は、こちらから話を聞きます」
そう言ってハザマは端末を閉じた。
「逃げますか」
「逃げたら」
「追います」
「死んだら」
「それでも追います」
レオンは初めて、ほんの少しだけ本気で寒くなった。
死んでも追う。
それは脅しではない。
この男は事務の言葉で、本当にそう言っている。
ハザマはもう一度だけ水路の向こうを見た。
役人ふうの男は消えている。銀の片も輪も、いまは回収できない。
だが、十分だった。
レオン。
外部由来の断片記憶。
違法介入臭。
未採用の死に残る空白。
そして、死を材料にし始めた倫理の摩耗。
監視段階はここで終わる。
「今日は戻ってください」
ハザマが言う。
「また朝まで待てってのか」
「いいえ」
「じゃあ何だ」
「次は、あなたが戻る朝ではなく、こちらの手順で進めます」
レオンはその意味を半分も理解できなかった。
だが、理解できないまま、もう元の位置には戻れないことだけはわかった。
板橋から降りるとき、レオンは一度だけ振り返った。
水路の上にはまだ、自分が落ちかけた空白が、目には見えない薄さで残っている気がした。
死ななかった。
だから明日の朝へは飛ばない。
なのに、死にかけたその可能性だけが、どこにも行かずにここへ残る。
その違和感は、前よりはっきりしていた。
ハザマもまた、同じ場所を見ていた。
だが彼の視線はレオンではなく、その空白の形を測っているように見える。
レオンはそこで、ひどく悪い予感を抱く。
自分はこの男に見つかったのではない。
自分の死と、その抜け跡ごと見つかったのだと。




