第15話
板橋を離れてからも、レオンは二度ほど後ろを振り返った。
ハザマは逃げも追い立てもせず、一定の距離を保って歩いている。
それが逆に気味が悪い。
捕まえるならすぐ捕まえればいい。脅すならもっとわかりやすくやればいい。なのに、この男はまるで書類の一行みたいな歩き方で、こちらの呼吸が落ち着くのも、また乱れるのも待っている。
「どこへ連れていく」
ようやくレオンが言うと、ハザマは前を見たまま答えた。
「連行ではありません」
「そう見えない」
「安全な場所で話をします」
「誰にとって安全なんだ」
「いまは、両方にとってです」
その言い方に、レオンは舌打ちしたくなった。
逃げられる気はしない。
逃げて死ねば、また朝に戻るかもしれない。だが、その“かもしれない”を、さっき板橋で一度止められた。死ねば先へ行けるという流れを、この男が切ってしまった。
労働者街から少し離れた、水路脇の古い倉庫。
使われなくなって久しいらしく、扉は半ば朽ち、壁の石には水染みが広がっている。人通りは少ない。けれど完全な廃墟でもない。見ようと思えば誰かが見られる位置だ。
ハザマは中へ入り、窓際の木箱を一つ起こした。
「座ってください」
「命令か」
「提案です」
「……提案ね」
レオンは結局座った。
腿にまだ、死んだときの鈍い痛みが残っている。傷はないのに、身体だけが覚えている。
ハザマは立ったまま端末を開いた。
レオンの目にはそれが、黒い板とも、薄い帳面ともつかないものに見える。街のどの道具とも違う。役人ふうの男が指に触れていた輪と同じで、見たことがないのに、どこか胸の奥だけがそれを知っているみたいにざわついた。
「名前」
ハザマが言う。
「レオン・グラーツ」
「現地名としては、ですね」
「何だよ、その言い方」
ハザマは返さず、別の問いを置く。
「いままで、何回戻りましたか」
「……知らない」
「数えていない」
「途中で意味がなくなった」
「途中から数えられなくなった、ではなく?」
「同じだろ」
「違います」
声は低いが、そこでだけ少し硬かった。
「数える意思があったのに崩れたのか、最初から数の単位が溶けたのかで、壊れ方が違う」
「……壊れ方って何だよ」
ハザマはようやくレオンを見た。
「あなたはいま、死を出来事ではなく資源に変え始めています」
「違う」
「違いません」
「おまえ、会うたびそればっかりだな」
「会ったのは二度目です」
「俺にとっては違う」
その言葉が落ちたあと、倉庫の中は少しだけ静かになった。
ハザマは、レオンがすぐ怒鳴るかと思っていた。
だが、怒鳴らない。
怒鳴るだけの熱が、もう死の反復で削れているのかもしれない。あるいは逆に、怒鳴って済む段階を越えたのか。
「……おまえは何だ」
レオンが言う。
「役人でもない。借金取りでもない。あの輪の男とも違う。なのに、俺のことを最初から知ってる顔をしてる」
「観測対象だからです」
「またそれか」
「事実です」
ハザマは端末を少しだけ傾けた。
レオンには読めない。だが、そこに自分の朝が、死が、昨日の路地が並んでいるのだと直感だけはした。
「あなたの現象は、この街の呪詛や祝福ではない」
「……」
「現地文化で説明できる経路が見つかっていません」
「だから?」
「だから、あなた自身の由来が問題になります」
レオンは笑いかけて、うまくできなかった。
「由来?」
「生まれ。連続性。元の人格。最初の死」
「何言ってるかわからない」
「全部わからなくて構いません。ひとつずつ確認します」
ハザマは端末を閉じる。
ここから先は、機械より顔を見たほうがいいと判断した。
「死ぬ直前に、この街にない風景を見ていますね」
レオンの肩がわずかに跳ねる。
「黒い路面。白い線。警告音に近い反復音。硬い光源」
「……何で」
「観測しました」
「頭の中まで見てるのか」
「必要な範囲で」
「気持ち悪いな」
「よく言われます」
レオンはほんの少しだけ黙る。
その沈黙の中で、自分が誰かに見られていた恐怖と、ようやく説明に近いものへ触れた安堵が、汚く混ざる。
「……あれが何か、知ってるのか」
「断定はしません」
「知ってる顔だ」
「知っている可能性はあります」
「何だよそれ」
ハザマは問いを返す。
「あなたには、他にもありますか」
「何が」
「この街にない断片」
「……」
レオンは即答できなかった。
ある。
たぶん、ある。
けれどそれは記憶と呼ぶには歪で、夢と呼ぶにはしつこい。雨に濡れた何かの匂い。硬い床を滑る振動。見たことのない文字。止まれ、に似ているがこの街のどの言葉でもない命令の感じ。
「ある、のか」
ハザマが静かに促す。
「……少し」
「人ですか、場所ですか」
「場所、かもしれない。音もある」
「名前は」
「知らない」
「自分の名前は」
「レオン・グラーツだ」
「それだけですか」
「それ以外を知らない」
言ってから、自分で腹が立った。
知らない。
知らないくせに、ここにない何かだけは胸の奥へ残っている。
ハザマはその苛立ちごと観測していた。
「あなたがこの街の人間でないとは、まだ言いません」
「言ってるようなもんだろ」
「可能性の話です」
「その可能性ってやつで、俺をどうする」
「現象の停止を優先します」
「停止」
「あなたが戻らなくなるようにする」
「……要するに殺すのか」
「その理解で概ね構いません」
レオンは木箱を蹴りかけて、やめた。
蹴っても意味がない。
この男はそういう怒りを少しも怖がらない。怖がらないどころか、木箱の壊れ方まで記録しそうな顔で見ている。
「ふざけるな」
「ふざけていません」
「俺は頼んで戻ってるわけじゃない!」
「知っています」
「知ってるなら」
「それでも止めます」
レオンの喉が詰まる。
この男は、自分の苦しさを理解しないから冷たいのではない。
理解したうえで、それでも止めると言う。
そのほうがずっと質が悪い。
ハザマは一歩だけ距離を詰めた。
「あなたは最初、被害者でした」
「最初?」
「はい。少なくとも現象の初期段階では」
「じゃあ今は違うのか」
「あなた自身が、死を情報化し始めた」
「……」
「その時点で、現象と人格を切り離して扱えなくなります」
レオンは答えない。
答えられない。
板橋で落ちかけたとき、自分は確かに考えたのだ。死ぬかもしれない。でも、その前にもっと見えるかもしれない、と。
倉庫の外で、水路を渡る風が鳴る。
そのとき、ハザマの端末が短く振動した。
葛西からの文字だけの連絡。
《接触許可、暫定承認》
《拘束は行うな》
《情報取得を優先》
《処理判断は保留》
遅い、とハザマは思ったが顔には出さない。
レオンがその微かな間を見た。
「……上があるんだな、おまえにも」
「あります」
「犬みたいだ」
「そう言われたことはありません」
「今、少しだけむかついた顔したぞ」
「気のせいです」
レオンはそこで初めて、ほんの少しだけまともに笑いそうになった。
笑いにはならなかったが、死と朝の反復の中で初めて、人間らしい間が落ちた気がした。
その空気を、ハザマは意図的に切る。
「役人ふうの男について」
「……」
「何を見ましたか」
「輪。銀の片。変な縫い目」
「他に」
「俺のことを見て、残っているのか、って言った」
「正確に?」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「死ぬ直前だぞ。そこまで責めるな」
「責めていません。精度確認です」
レオンは舌打ちする。
「で、その“残ってる”って何だ」
「候補はあります」
「言えよ」
「まだ」
「まだばっかりだな」
「断定前に言葉を渡すと、あなたの認識を誘導します」
その説明は腹立たしいほど筋が通っていた。
だからレオンは余計に嫌になる。
「……おまえ、俺を助ける気あるのか」
レオンが低く言う。
ハザマは答えを選んだ。
少しだけ長く。
「現象を止めることが、結果的にあなたを助ける形になる可能性はあります」
「人間にはそんな言い方しないだろ」
「します」
「してない」
ハザマはそこで初めて、ほんのわずかに視線を逸らした。
助ける。
その語は、現場で使うには重い。
ユウト案件のあとから、少しだけ重すぎる。
「……少なくとも」
ハザマが言う。
「このまま繰り返させ続けるのは、あなたにも周囲にもよくない」
レオンはその言い方を聞いて、怒るより先に疲れた。
たぶん本当なのだろう。
だから嫌だ。
本当であることと、受け入れられることは違う。
「今日は帰ってください」
ハザマが言う。
「また同じ朝になるかもしれない」
「なら?」
「次は逃がしません」
「今も逃がしてないだろ」
「いまは話しているだけです」
「それが一番厄介なんだよ」
レオンは木箱から立ち上がる。
足元が少し揺れる。死の残り香なのか、話しすぎたせいなのか、自分でもわからない。
倉庫の戸口まで歩いたところで、背後からハザマが呼ぶ。
「レオン・グラーツ」
「何だ」
「次に死ぬ前に、思い出した断片を記録してください」
「何で」
「消える前に形を取りたい」
「おまえのために?」
「結果的には」
レオンは振り返らずに言う。
「自分でしゃべってて嫌にならないのか、その言い方」
「なります」
「嘘つけ」
「半分だけ本当です」
レオンはそこでようやく、少しだけ本当に笑った。
笑ってから、その軽さにすぐ気づいて顔をしかめる。こんなところで笑う話ではない。
倉庫を出る。
外の空気は冷えていた。街はまだ動いている。誰も、自分が何回朝をやり直したか知らない。誰も、この午後が一度死を通ってきた午後だとは知らない。
だが、もう自分ひとりの秘密でもなくなった。
レオンは水路沿いを歩きながら、自分の右手を見る。
死んで戻る手。
誰かを助ける手。
誰かを試す手。
そして今は、知らない断片を書き留めろと言われた手。
背中側に、まだハザマの視線がある気がした。
実際に見ているかどうかはわからない。
それでも、もう“観測される側”の感覚は消えない。
一方、倉庫の中ではハザマが端末へ短く入力していた。
――対象、接触後も逃走優先ではない。
――説明への欲求あり。
――外部断片記憶の自己記述を試みる価値あり。
――役人ふうの男は保全側、あるいは再侵入管理側の可能性。
最後の行で、指が少しだけ止まる。
保全。
再侵入。
どちらも仮置きにすぎない。
だが、ユウト案件の残留と合わせると、消すだけでは終わらない誰かの手つきが、少しずつ見え始めていた。
ハザマは端末を閉じる。
処理判断はまだ保留。
だが、もう案件は監視の段階ではない。
レオンも、自分も、その一線を越えた。
超えたら、もう戻れない。




