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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第4章 この朝を選ぶ男

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第16話

 レオンは、書くことがこんなに腹立たしいとは思っていなかった。


 共同井戸の裏手の狭い部屋。

 寝台。箱。椅子。湿った壁。

 いつもと同じ場所なのに、机代わりに箱を引き寄せ、その上へ紙と筆記用の炭を置いた瞬間だけ、妙に部屋が借り物みたいに見える。


 ハザマに言われたから書くわけではない。

 そう思いたかった。

 だが、あの男の言葉がなければ、自分からこんなことはしなかったのも事実だった。


 ――死ぬ前に見た断片を記録してください。

 ――消える前に形を取りたい。


 形。

 レオンは舌打ちしながら、炭を握る。


 黒い道。

 白い線。

 光。

 音。


 書こうとして、手が止まる。


 この街の言葉では、うまく言えない。

 道ではない。

 でも道に近い。

 石畳より滑らかで、土より固く、夜に濡れると光を返す黒い平面。そんなものを見た覚えは、この街のどこにもない。


 レオンは紙へ、言葉ではなくまず形を書いた。

 長い黒い帯。

 その真ん中を切る二本の白い筋。

 箱のようなものの前についた二つの光。


 自分で見ても意味がわからない。


「……何だよ、これ」


 独り言が、湿った壁に吸われる。


 次に、音を書こうとする。

 低い。

 一定。

 警告に近い。

 止まれ、と言われているようで、でもこの街のどの単語とも違う。

 炭先が紙の上を迷い、途中でひどくぎこちない線になる。


 そのとき、ふいに別の断片が来た。


 硬い匂い。

 冷たい雨。

 ガラス越しの滲んだ光。

 そして、誰かの声。


 意味はわからない。

 けれど音の頭だけが、やけにはっきり残る。


「……レ」


 レオンはその一音を口に出し、自分で驚く。

 この街の言葉の“レ”ではない。もっと平たく、もっと軽い響きだ。

 炭を走らせる。現地の文字では書けない。だから、聞こえたままの形に近い記号を無理やり並べる。


 レ

 オ

 ン


 書いてから、手が止まる。


 それは自分の名前に近い。

 だが、街で呼ばれる“レオン”とは少しだけ質が違う気がした。

 呼ばれたのではない。

 思い出したのでもない。

 もっと厄介に、自分の奥のどこかで、それが最初からそこにあった感じ。


 紙を裏返す。

 見たくなかった。


 外で、またあの咳がする。

 鳥も鳴く。

 同じ朝ではないはずなのに、同じ音だけが執拗に繰り返される。

 レオンは急に息苦しくなって立ち上がり、桶の水をあおった。冷たい。喉は冷えるのに、胸の奥だけが熱い。


 扉を叩く音がした。


 体が先に強張る。

 借金取りか、役人ふうの男か、それとも――


「開けます」


 ハザマの声だった。


 許可を待つでもなく、だが乱暴でもなく、一定の手順で扉が開く。

 この男は何をするにも、誰かの部屋に入る感じではなく、観測所へ入る感じで動く。


「……勝手に入るなよ」

「拒否するなら三秒前に言ってください」

「言えるか」


 ハザマは部屋の狭さを一瞥し、椅子ではなく壁際に立った。

 距離を詰めすぎない。

 触れもしない。

 なのに、逃げ道だけは静かに計算している位置取りだ。


「書けましたか」

「少し」

「見せてください」

「嫌だ」

「わかります」

「だったらいいだろ」

「ですが必要です」


 レオンは紙を握ったまま、しばらく動かなかった。

 あの断片を他人に渡すのは、夢を見られるより気味が悪い。

 だが、もう自分だけで抱えるには形が悪すぎるとも思う。


 結局、紙を差し出した。


 ハザマは受け取って、黙って読む。

 長い沈黙だった。

 読むというより、紙に残った迷い方ごと拾っているような沈黙だ。


「……これは」

「笑うなよ」

「笑いません」


 ハザマの視線が、黒い帯と白い筋の絵から、記号めいた三文字に移る。


「この書き方は、周辺地域の言語体系と少し違います」

「知らねえよ。聞こえたまま置いただけだ」

「聞こえた」

「頭の中でだ」


 ハザマはもう一度、その三文字を見る。

 現地の文字ではない。

 だが、全く見覚えがないとも言い切れない。

 記録の奥で何度か処理した、外部由来人格の残滓に似た、組み換え途中の癖がある。


「これが何かわかるのか」


 レオンが言う。


 ハザマは即答しなかった。

 言えることと、まだ渡さないほうがいいことを分ける。


「あなたの現在の記憶系が、この街の外の何かを参照している可能性は高い」

「またそういう言い方か」

「断定していないので」

「断定しろよ」

「早い言葉は、たいてい判断を壊します」


 レオンは舌打ちする。

 だがその返答が、嫌なほど筋が通っているのもわかる。


 ハザマは紙の端を指で軽く叩いた。


「この黒い帯。あなたは道に近いが道ではない、と感じている」

「……何でわかる」

「線の引き直しが多い。知っているものへ寄せようとして失敗している」

「観測ってのは、そういうのまで見るのか」

「必要なら」


 そのままハザマは端末を開く。

 レオンには相変わらず黒い板にしか見えないが、今日は昨日より、その表面の冷たさが気になった。役人ふうの男の輪と、同じ系統の異物感だ。


「共有は最小限にします」


 ハザマが言う。


「解析担当へ渡します」

「どこに」

「上です」

「その“上”ってのが嫌なんだよ」


 レオンが言ったとき、外で足音が止まった。


 ほんの一拍。

 この街では珍しくない、ただの通行人の足音かもしれない。

 だがハザマは即座に端末を閉じ、視線を扉へ向ける。変化は最小限。反応だけは早い。


「……誰かいるのか」

 レオンが低く言う。


「たぶん」

「たぶんで済ませるな」

「済ませます」


 ハザマは壁際から半歩だけ動いた。

 扉を庇う位置ではない。レオンと扉の線をずらし、外からの初手がどちらにも直進しにくい位置だ。


 足音は、すぐ動き出さなかった。


 聞いていた。

 そう思うほうが自然だった。


 レオンの喉が乾く。

 借金取りか、役人ふうの男か、それとも別か。

 自分はもう、見つかっている。ハザマにだけではなく、あちらにも。


「おまえのせいか」

「あなたの現象のせいです」

「言い方」

「事実です」


 その瞬間、扉の下の隙間から、薄い紙片が滑り込んだ。


 誰かが投げ込んだのだ。

 足音はもうない。


 ハザマが先に拾う。

 紙は現地のものだが、折り方が妙に機械的だった。中に書かれている文字は、この街の言葉。だが筆圧が均一すぎる。


 ハザマは開き、数秒だけ読む。

 レオンが苛立つ。


「何だよ」

「……あなた宛ではありません」

「じゃあ誰宛だ」

「こちら側宛です」


 ハザマは紙を裏返す。

 余白の隅に、昨日見た輪と同じくらい細い線で、記号が一つだけ刻まれていた。印章にも署名にも見えない。

 だが、真木ならたぶん嫌な顔をする種類の癖だ。


「読め」

 レオンが言う。

「読ませろよ」

「簡潔に言います」

「簡潔にじゃなくて、そのまま」

「そのままは渡しません」

「何で」

「あなたの認識を誘導したくない」

「またそれか!」


 レオンの声が少し大きくなる。


 ハザマは紙から視線を上げた。


「内容はこうです」

「……」

「“保全対象への過接近を控えろ。未確定人格の崩壊は主系列の損失になる”」


 倉庫みたいに狭い部屋だった。

 そのくせ、その一文だけで急に世界の広さが変な方向へ開く。


「保全対象って何だ」

 レオンが言う。

「主系列ってどういうことだ」

「現時点では、あなたを指している可能性が高い」

「……は?」

「あなたを消す側とは別に、残そうとしている側がいる」

「何で」

「それは、こちらが知りたい」


 レオンは笑おうとして失敗した。

 胃のあたりが冷たい。


「じゃあ何か。おまえは止めたい。向こうは残したい。俺はその真ん中で死んだり生き返ったりしてるわけか」

「概ね」

「よくそんな顔で言えるな」

「慣れています」

「慣れるなよ」


 その言葉だけ、少し本気で出た。


 ハザマは返さない。

 返さないまま、紙片を端末で読み取る。

 現地インク。だが書式は現地文書の癖からずれている。外から現地に寄せた手つき。

 雑だが、わざと雑にしている可能性もある。


 レオンは息を整えようとして、整わない。


 自分は何なのか。

 ただの死なない男ではない。

 この街の人間かどうかすら怪しくなり始めている。

 しかもどこかの誰かが、自分を“保全対象”と呼んでいる。


「……俺は、何なんだ」


 それはハザマへ向けた問いだったが、半分は自分へ落ちたものでもあった。


 ハザマは即答しなかった。

 そして珍しく、少しだけ言葉を選ぶ。


「現時点では」

「その前置きやめろ」

「やめません」


 レオンが睨む。

 ハザマは続けた。


「あなたは、停止すべき現象の中心にいる」

「人間には聞こえないな」

「もう一つ言います」

「……」

「あなたには、あなた自身の説明がまだ足りていない」


 レオンは眉を寄せる。


「それは当たり前だろ」

「当たり前ではありません」

「何が」

「普通の人間は、自分の始まりがわからないまま何度も死を使ったりしない」

「……」


 反論できなかった。


 ハザマは差し出された紙を見下ろす。

 黒い帯、白い筋、光。

 そして、現地文字でも管理局標準記号でもない、妙な三文字。


「今夜、もう一度会います」

 ハザマが言う。

「今度は、あなたが思い出した順ではなく、こちらが訊く順で」

「断ったら」

「断る自由はあります」

「でも?」

「状況は悪化します」


 レオンは顔をしかめた。


「脅しが下手だな」

「脅していません」

「だからそこだよ」


 外の気配はもう消えている。

 だが、消えた気配ほどあとを引くものはない。

 レオンは自分の手を見る。炭で少し黒い。断片を書いた手だ。死んで戻る手だ。誰かに保全対象と呼ばれる手だ。


 もう、自分ひとりの異常ではない。


 ハザマは扉を開ける前に、端末へ最後の一行だけ打ち込んだ。


 ――対象は保全側からも接触対象と見なされている可能性あり。案件は単独現象ではなく、介入の綱引きへ移行。


 そこまで書いて、送信はしなかった。


 榊に上げるべきか。

 葛西を先に通すべきか。

 真木へだけ流すべきか。

 判断はまだ早い。だが、早すぎる保留もまた判断だ。


 ハザマは端末を閉じる。


「今夜に」

 それだけ言う。


 レオンは何も答えなかった。

 答えられなかったというより、もう何をどう答えても、自分の朝が単純な一回には戻らないと知ってしまった顔だった。

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