第16話
レオンは、書くことがこんなに腹立たしいとは思っていなかった。
共同井戸の裏手の狭い部屋。
寝台。箱。椅子。湿った壁。
いつもと同じ場所なのに、机代わりに箱を引き寄せ、その上へ紙と筆記用の炭を置いた瞬間だけ、妙に部屋が借り物みたいに見える。
ハザマに言われたから書くわけではない。
そう思いたかった。
だが、あの男の言葉がなければ、自分からこんなことはしなかったのも事実だった。
――死ぬ前に見た断片を記録してください。
――消える前に形を取りたい。
形。
レオンは舌打ちしながら、炭を握る。
黒い道。
白い線。
光。
音。
書こうとして、手が止まる。
この街の言葉では、うまく言えない。
道ではない。
でも道に近い。
石畳より滑らかで、土より固く、夜に濡れると光を返す黒い平面。そんなものを見た覚えは、この街のどこにもない。
レオンは紙へ、言葉ではなくまず形を書いた。
長い黒い帯。
その真ん中を切る二本の白い筋。
箱のようなものの前についた二つの光。
自分で見ても意味がわからない。
「……何だよ、これ」
独り言が、湿った壁に吸われる。
次に、音を書こうとする。
低い。
一定。
警告に近い。
止まれ、と言われているようで、でもこの街のどの単語とも違う。
炭先が紙の上を迷い、途中でひどくぎこちない線になる。
そのとき、ふいに別の断片が来た。
硬い匂い。
冷たい雨。
ガラス越しの滲んだ光。
そして、誰かの声。
意味はわからない。
けれど音の頭だけが、やけにはっきり残る。
「……レ」
レオンはその一音を口に出し、自分で驚く。
この街の言葉の“レ”ではない。もっと平たく、もっと軽い響きだ。
炭を走らせる。現地の文字では書けない。だから、聞こえたままの形に近い記号を無理やり並べる。
レ
オ
ン
書いてから、手が止まる。
それは自分の名前に近い。
だが、街で呼ばれる“レオン”とは少しだけ質が違う気がした。
呼ばれたのではない。
思い出したのでもない。
もっと厄介に、自分の奥のどこかで、それが最初からそこにあった感じ。
紙を裏返す。
見たくなかった。
外で、またあの咳がする。
鳥も鳴く。
同じ朝ではないはずなのに、同じ音だけが執拗に繰り返される。
レオンは急に息苦しくなって立ち上がり、桶の水をあおった。冷たい。喉は冷えるのに、胸の奥だけが熱い。
扉を叩く音がした。
体が先に強張る。
借金取りか、役人ふうの男か、それとも――
「開けます」
ハザマの声だった。
許可を待つでもなく、だが乱暴でもなく、一定の手順で扉が開く。
この男は何をするにも、誰かの部屋に入る感じではなく、観測所へ入る感じで動く。
「……勝手に入るなよ」
「拒否するなら三秒前に言ってください」
「言えるか」
ハザマは部屋の狭さを一瞥し、椅子ではなく壁際に立った。
距離を詰めすぎない。
触れもしない。
なのに、逃げ道だけは静かに計算している位置取りだ。
「書けましたか」
「少し」
「見せてください」
「嫌だ」
「わかります」
「だったらいいだろ」
「ですが必要です」
レオンは紙を握ったまま、しばらく動かなかった。
あの断片を他人に渡すのは、夢を見られるより気味が悪い。
だが、もう自分だけで抱えるには形が悪すぎるとも思う。
結局、紙を差し出した。
ハザマは受け取って、黙って読む。
長い沈黙だった。
読むというより、紙に残った迷い方ごと拾っているような沈黙だ。
「……これは」
「笑うなよ」
「笑いません」
ハザマの視線が、黒い帯と白い筋の絵から、記号めいた三文字に移る。
「この書き方は、周辺地域の言語体系と少し違います」
「知らねえよ。聞こえたまま置いただけだ」
「聞こえた」
「頭の中でだ」
ハザマはもう一度、その三文字を見る。
現地の文字ではない。
だが、全く見覚えがないとも言い切れない。
記録の奥で何度か処理した、外部由来人格の残滓に似た、組み換え途中の癖がある。
「これが何かわかるのか」
レオンが言う。
ハザマは即答しなかった。
言えることと、まだ渡さないほうがいいことを分ける。
「あなたの現在の記憶系が、この街の外の何かを参照している可能性は高い」
「またそういう言い方か」
「断定していないので」
「断定しろよ」
「早い言葉は、たいてい判断を壊します」
レオンは舌打ちする。
だがその返答が、嫌なほど筋が通っているのもわかる。
ハザマは紙の端を指で軽く叩いた。
「この黒い帯。あなたは道に近いが道ではない、と感じている」
「……何でわかる」
「線の引き直しが多い。知っているものへ寄せようとして失敗している」
「観測ってのは、そういうのまで見るのか」
「必要なら」
そのままハザマは端末を開く。
レオンには相変わらず黒い板にしか見えないが、今日は昨日より、その表面の冷たさが気になった。役人ふうの男の輪と、同じ系統の異物感だ。
「共有は最小限にします」
ハザマが言う。
「解析担当へ渡します」
「どこに」
「上です」
「その“上”ってのが嫌なんだよ」
レオンが言ったとき、外で足音が止まった。
ほんの一拍。
この街では珍しくない、ただの通行人の足音かもしれない。
だがハザマは即座に端末を閉じ、視線を扉へ向ける。変化は最小限。反応だけは早い。
「……誰かいるのか」
レオンが低く言う。
「たぶん」
「たぶんで済ませるな」
「済ませます」
ハザマは壁際から半歩だけ動いた。
扉を庇う位置ではない。レオンと扉の線をずらし、外からの初手がどちらにも直進しにくい位置だ。
足音は、すぐ動き出さなかった。
聞いていた。
そう思うほうが自然だった。
レオンの喉が乾く。
借金取りか、役人ふうの男か、それとも別か。
自分はもう、見つかっている。ハザマにだけではなく、あちらにも。
「おまえのせいか」
「あなたの現象のせいです」
「言い方」
「事実です」
その瞬間、扉の下の隙間から、薄い紙片が滑り込んだ。
誰かが投げ込んだのだ。
足音はもうない。
ハザマが先に拾う。
紙は現地のものだが、折り方が妙に機械的だった。中に書かれている文字は、この街の言葉。だが筆圧が均一すぎる。
ハザマは開き、数秒だけ読む。
レオンが苛立つ。
「何だよ」
「……あなた宛ではありません」
「じゃあ誰宛だ」
「こちら側宛です」
ハザマは紙を裏返す。
余白の隅に、昨日見た輪と同じくらい細い線で、記号が一つだけ刻まれていた。印章にも署名にも見えない。
だが、真木ならたぶん嫌な顔をする種類の癖だ。
「読め」
レオンが言う。
「読ませろよ」
「簡潔に言います」
「簡潔にじゃなくて、そのまま」
「そのままは渡しません」
「何で」
「あなたの認識を誘導したくない」
「またそれか!」
レオンの声が少し大きくなる。
ハザマは紙から視線を上げた。
「内容はこうです」
「……」
「“保全対象への過接近を控えろ。未確定人格の崩壊は主系列の損失になる”」
倉庫みたいに狭い部屋だった。
そのくせ、その一文だけで急に世界の広さが変な方向へ開く。
「保全対象って何だ」
レオンが言う。
「主系列ってどういうことだ」
「現時点では、あなたを指している可能性が高い」
「……は?」
「あなたを消す側とは別に、残そうとしている側がいる」
「何で」
「それは、こちらが知りたい」
レオンは笑おうとして失敗した。
胃のあたりが冷たい。
「じゃあ何か。おまえは止めたい。向こうは残したい。俺はその真ん中で死んだり生き返ったりしてるわけか」
「概ね」
「よくそんな顔で言えるな」
「慣れています」
「慣れるなよ」
その言葉だけ、少し本気で出た。
ハザマは返さない。
返さないまま、紙片を端末で読み取る。
現地インク。だが書式は現地文書の癖からずれている。外から現地に寄せた手つき。
雑だが、わざと雑にしている可能性もある。
レオンは息を整えようとして、整わない。
自分は何なのか。
ただの死なない男ではない。
この街の人間かどうかすら怪しくなり始めている。
しかもどこかの誰かが、自分を“保全対象”と呼んでいる。
「……俺は、何なんだ」
それはハザマへ向けた問いだったが、半分は自分へ落ちたものでもあった。
ハザマは即答しなかった。
そして珍しく、少しだけ言葉を選ぶ。
「現時点では」
「その前置きやめろ」
「やめません」
レオンが睨む。
ハザマは続けた。
「あなたは、停止すべき現象の中心にいる」
「人間には聞こえないな」
「もう一つ言います」
「……」
「あなたには、あなた自身の説明がまだ足りていない」
レオンは眉を寄せる。
「それは当たり前だろ」
「当たり前ではありません」
「何が」
「普通の人間は、自分の始まりがわからないまま何度も死を使ったりしない」
「……」
反論できなかった。
ハザマは差し出された紙を見下ろす。
黒い帯、白い筋、光。
そして、現地文字でも管理局標準記号でもない、妙な三文字。
「今夜、もう一度会います」
ハザマが言う。
「今度は、あなたが思い出した順ではなく、こちらが訊く順で」
「断ったら」
「断る自由はあります」
「でも?」
「状況は悪化します」
レオンは顔をしかめた。
「脅しが下手だな」
「脅していません」
「だからそこだよ」
外の気配はもう消えている。
だが、消えた気配ほどあとを引くものはない。
レオンは自分の手を見る。炭で少し黒い。断片を書いた手だ。死んで戻る手だ。誰かに保全対象と呼ばれる手だ。
もう、自分ひとりの異常ではない。
ハザマは扉を開ける前に、端末へ最後の一行だけ打ち込んだ。
――対象は保全側からも接触対象と見なされている可能性あり。案件は単独現象ではなく、介入の綱引きへ移行。
そこまで書いて、送信はしなかった。
榊に上げるべきか。
葛西を先に通すべきか。
真木へだけ流すべきか。
判断はまだ早い。だが、早すぎる保留もまた判断だ。
ハザマは端末を閉じる。
「今夜に」
それだけ言う。
レオンは何も答えなかった。
答えられなかったというより、もう何をどう答えても、自分の朝が単純な一回には戻らないと知ってしまった顔だった。




