第17話
ハザマは結局、その紙片を葛西にも榊にも送らなかった。
送らないという判断が正しいとは思っていない。
だが、すぐに上へ流すのが最適とも思えなかった。
保全対象。
未確定人格。
主系列。
用語だけ見れば、管理局内部の古い文書にも似た言い回しはある。だが、似ていることと同一であることは違う。雑に外側から寄せてきた書式にも見えるし、逆に内側の語を知っている者が、わざと雑にしている可能性もある。
曖昧なものを葛西へ渡せば、まず監査の論理で圧縮される。
榊へ渡せば、主処理と切り分けたうえで制度に吸われる。
真木なら、少なくとも波形としては嘘をつかない。
だから、先に真木だった。
管理局の中継端末を使わず、現地観測用の絞った経路で短文だけ送る。
《追加資料あり》
《現地文字文書/書式異常》
《“保全対象”“未確定人格”“主系列”を含む》
《先におまえが見ろ》
返答は早かった。
《命令口調が雑なんだけど》
《でも見る》
それだけ。
ハザマは端末を閉じた。
夜までまだ少しある。
レオンとの再接触の前に、街を一巡しておきたかった。
ヴァルカの夜は、昼よりも輪郭が出る。
工房の火が窓越しに赤く揺れ、水路の黒が深くなり、石畳だけが冷たく光る。昼のあいだ労働で潰されていたものが、夜になると少しだけ戻ってくる。酒。噂。疲労。借金。明日の仕事に間に合う程度の欲望。
ハザマは市場裏から倉庫街までを歩いた。
足を止めるたび、目で見るより先に、微かなズレを探している自分に気づく。
ここで一度死んだ。
ここでは落ちなかった。
ここは未採用。
ここにはまだ薄く残っている。
ユウト案件のあとから、その読み方が少し早い。
それが有利なのか、汚染なのか、自分でも判別しきれない。
倉庫街の角で、ハザマは立ち止まった。
役人ふうの男が立っていた場所。
昼間は人目もあり、ただの路地にしか見えなかったが、夜に来ると違う。空間の継ぎ目が少し硬い。現地の石の配置にしては、意味が揃いすぎている。
保全側。再侵入管理。
仮置きの語が、もう一段だけ現実味を持つ。
そこへ端末が振動する。
真木から、音声ではなく文字の束だった。
《紙片、現地インク》
《筆跡は現地模倣》
《でも文体の圧縮癖が変》
《あと“主系列”は、うちの現行運用語としては半端》
《古い資料なら近いのがある》
《外が内を真似たか、内が外へ漏れたか、その中間》
《嫌な言い方すると、どっち側の人間でも使える》
ハザマはその表示を読み返す。
《断定はしない》
《でも“保全対象”のほうは、かなり意図的》
《対象を消耗品ではなく保存単位で見てる》
《それと》
そこで一拍、表示が止まり、次の行が出た。
《紙の裏面に、極薄い転写痕》
《あの三文字と癖が似てる》
ハザマの目が細くなる。
《レオンの紙と?》
《そう》
《偶然では》
《筆跡鑑定担当に言わせるなら、まだ偶然》
《でも私は嫌》
真木らしい表現だった。
つまり、まだ証拠ではない。だが、無視すると後で刺さる類いの嫌さがある。
《共有は》
と打ちかけて、やめる。
真木のほうから先に来た。
《葛西にはまだ渡すな》
《榊は状況次第》
《先に対象本人から取れるものを取れ》
《そのほうが解析が進む》
ハザマは短く、
《了解》
と返した。
それが制度違反に近い小回りだということはわかっている。
だが、ここで全部を均等に通すと、案件が“整理された不明点”になってしまう。まだそうする段階ではない。
夜の約束の場所は、昼と同じ倉庫ではなかった。
ハザマが指定したのは、水路を一本挟んだ古い荷印小屋だ。狭いが、出入口は二つある。外からの接近も読みやすい。
レオンは、時間ぴったりではなく少し遅れて来た。
その遅れ方が、この数日で身につけた警戒を物語っている。一本道をまっすぐ来る人間の歩幅ではない。二度、三度と立ち止まり、後ろを見て、別の道を経由して、ようやく来た。
「逃げなかったですね」
ハザマが言う。
レオンは鼻で笑う。
「逃げる自由はある、って言ったのはおまえだろ」
「はい」
「自由があるなら使うか考えた」
「使わなかった」
「逃げても状況が悪くなるって言われたからな」
「合理的です」
「そういう褒め方しかできないのか」
レオンは小屋の中へ入る。
昨夜より顔色が悪い。
だが、それは恐怖だけではない。紙に書き留めるという行為で、自分の異常に輪郭が出た疲れだとハザマは見た。
「持ってきた」
レオンが上着の内側から折り畳んだ紙を出す。
昨夜の続きらしい。炭の線が増え、単語のようなものがいくつか並んでいる。
「増えたのか」
「寝る前に少し」
「寝られましたか」
「寝られるわけないだろ」
ハザマは紙を受け取る。
前より具体的だった。
黒い帯の脇に、箱のような輪郭。
四角い光。
そして現地語ではない音を、現地文字に無理やり近づけたような断片。
ト
ラ
ッ
ク
意味は、ハザマにもまだ確定できない。
だが、前の異世界でユウトの死因として見た地球側断片のひとつと、音の質感が近い。近すぎる。
レオンがじっと見ている。
「その顔やめろ」
「どの顔ですか」
「知ってることが増えた顔だ」
「増えた可能性はあります」
「またそれ」
ハザマは紙を閉じない。
言うべき範囲を選ぶ。
「これは、この街の記憶ではない可能性が高い」
レオンの喉が動く。
「じゃあ何だ」
「あなたの現在の人格に接続されている、別系統の断片」
「前世ってことか」
「その言葉は、いまは使いません」
「何で」
「形がまだ決まっていない」
レオンは苛立って壁を見た。
「おまえ、本当にそういう言い方ばっかりだな」
「雑に言い切って外したほうが面倒です」
「じゃあ俺は何を信じりゃいい」
「いま見えている範囲です」
ハザマは紙の三文字を指で軽く押さえる。
「あなたの中には、この街だけでは閉じない記憶片がある」
「……」
「そして、それを保全したい側がいる」
「昨日の紙か」
「はい」
「おまえは止めたい」
「現象を止めます」
「同じじゃない」
「結果としては近い」
レオンは苦く笑う。
「残したい側と止めたい側がいて、どっちも俺の都合じゃない」
「そうです」
「すごいな」
「何が」
「最悪の言い方を、ためらいなしに選ぶところが」
そこで小屋の外、水路の向こうから短い音がした。
金属同士が触れたような、乾いた一音。
ハザマの視線が扉へ走る。
レオンも、もう同じ速度でそちらを向く。反復の中で、自分に向けられた異物の音に慣れ始めている。
「来たのか」
レオンが低く言う。
「たぶん、見に来ています」
「誰が」
「残したい側か、止めたい側か、その両方です」
ハザマは端末を半開きにする。
応戦ではない。観測優先。
今ここで衝突すれば、まだ取れるはずの情報が散る。
小屋の木壁の隙間に、細い光が一瞬だけ走った。
輪。あるいはそれに類する金属反射。
レオンが息を呑む。
昨日の男だと、たぶん彼も直感した。
「出るな」
ハザマが言う。
「おまえも出るなよ」
「状況次第です」
「その言い方」
「職業病です」
外の気配は、すぐには踏み込んでこなかった。
見張っている。試している。こちらが何をどこまで共有したかを測っている気配だ。
ハザマは小さく舌の奥で息を吐く。
単独の現象ではない。
監視されている対象に、自分たちもまた観測を返されている。
綱引きは、思ったより早く表面に出た。
レオンが小声で言う。
「おい」
「何ですか」
「俺、戻るのか」
「今夜死ねば」
「そうじゃなくて」
レオンは紙を見た。
自分が書いた、ここにない断片。
それからハザマを見た。
「俺は、戻るたびに俺のままなのか」
初めて、その問いが出た。
死ぬたび朝へ戻る。
戻る身体。残る記憶。
だが、その積み上がりが本当に“同じ自分”なのかという恐怖は、今まで言葉になっていなかった。
ハザマは即答しない。
その沈黙を、レオンは嫌というほど見た。
断定を避けるときの沈黙だ。
だが今日は、少し違う。
「……わかりません」
ハザマが言う。
「ただ」
「ただ?」
「戻るたびに、同じ朝へ戻っているのではなく、同じ朝を食い潰している可能性はあります」
レオンの顔が白くなる。
「何だよそれ」
「あなたにとっては同じ朝でも、未採用の死や未実行の選択が、どこにも行かずに残っているなら」
「……」
「あなたは戻っているのではなく、削っているのかもしれない」
外の気配より、その言葉のほうが、レオンにはよほど堪えたらしかった。
椅子代わりの箱に座り込み、顔を覆う。
死ぬこと。戻ること。使うこと。試すこと。
全部が自分の都合で片づく話ではないと、もう薄々わかっていた。
だが、「削っている」と言われると、急に手触りが変わる。
誰かの一回性。
街の朝。
まだ選ばれていない死。
そういうものを、自分が少しずつ食って進んでいるのかもしれない。
ハザマは、その沈黙を壊さずに端末へ一行だけ打つ。
――対象、自我連続性への疑念を自発的に提示。
これで、もう戻れない。
案件としても、本人としても。
そのとき、外から低い声がした。
「今夜はやめておけ」
男とも女ともつかない。抑えた声だ。
壁越しで輪郭が曖昧なのに、なぜか言葉だけはひどく近い。
レオンが顔を上げる。
ハザマの端末が、短く異常反応を示す。
外の声は続ける。
「未確定のまま崩せば、両方に損だ」
ハザマは扉を見たまま言う。
「保全側か」
「その呼び方でもいい」
紙片よりはっきりしている。
だが、名乗らない。
名乗らないまま、向こうはこちらの呼び方だけ受け入れる。
「誰だ」
レオンが叫ぶ。
「俺に何をした」
「おまえにしたのではない。残しただけだ」
その言い回しに、ハザマの目が細くなる。
残した。
保全。
未確定人格。
点が少しずつ近づいている。
「出てこい」
レオンが言う。
だが、外の気配は笑ったようにも息を吐いたようにも聞こえただけで、次の瞬間にはもうなかった。
輪の光も、足音も、消えている。
ハザマはすぐには追わない。
追えば、今度は向こうの用意した形へ乗る。
それより、残った言葉のほうが重い。
「……聞いただろ」
レオンが、乾いた声で言う。
「残した、って」
「はい」
「俺は、作られたのか」
「まだそこまでは言えません」
「またそれだ」
「ですが、いまの一言は重要です」
レオンは両手で顔をこすった。
死の反復。
記憶断片。
保全対象。
残した。
自分の輪郭が、自分の過去より先に外から説明され始めている。
ハザマは端末を閉じた。
「今夜はここで終わります」
「終わるかよ」
「これ以上は、相手のペースです」
「おまえも怖がるんだな」
「怖がらないなら死にます」
「それはちょっと人間っぽいな」
「残念でした」
レオンは、そこでまた少しだけ笑いそうになって、すぐ真顔へ戻る。
笑える話ではない。
なのに、そういうどうでもいいやり取りがないと、今の自分の輪郭が持たない。
外へ出る前に、ハザマは紙を二つに分けた。
断片記憶の記録は自分が持つ。
元の紙はレオンへ返す。
「持っていてください」
「何で」
「あなたが見返すためです」
「おまえの解析用じゃなくて?」
「それは写しました」
「嫌な言い方だな」
「正確です」
レオンは紙を受け取る。
炭で汚れた、自分の知らない記憶の紙。
いまはこれだけが、自分が自分をまだ少し疑える証拠だった。




