第18話
謎の紙片、そしてレオンに残る断片記憶。
少しだけ手札が増えてきた。
ハザマが最初にそれを渡したのは、やはり真木だった。
現地の中継室は、宿屋の地下倉庫を偽装した小部屋にある。壁は石、机は木、灯りは油。だが、扉を閉めて端末を開けば、そこだけ管理局の薄い白へ切り替わる。
ハザマはレオンの記述と、保全側から差し込まれた紙片を順にスキャンした。
送信先は限定。真木のみ。
数秒で返ってきたのは、短い三行だった。
《嫌な感じ、増した》
《三文字、対象の自発筆記に見える》
《紙片裏の転写痕と癖が近い》
すぐに追加が来る。
《“主系列”は現行運用だと浮く》
《でも古い層管理資料には近縁語がある》
《つまり、内を知ってる外か、外へ漏れた内》
ハザマはその文面を眺めたあと、榊と葛西を会議回線へ追加した。
数秒遅れて、二人の映像が立ち上がる。
榊は本部の監督室。葛西は無機質な監査室。背景だけで、立場の温度が違う。
「追加報告です」
ハザマは紙片の内容を簡潔に読む。
「“保全対象への過接近を控えろ。未確定人格の崩壊は主系列の損失になる”」
「……ずいぶん後出しだな」
葛西が言った。
責める声ではない。責める必要すらないという声だ。
「現地接触後に確度が上がったためです」
「最初の時点で共有できた」
「ノイズの可能性もありました」
「だから監査は早期共有を求める」
真木が横から口を挟む。
「責任論はあとでいい。こっちはいま解析の途中」
彼女は補助画面を操作し、紙の裏面の極薄い転写痕を拡大した。
「見て。レオンの書いた三文字と、紙片の転写、筆圧の沈み方が少し似てる。完全一致じゃない。でも、“同じものをどこかで見た手”の癖がある」
「対象本人と保全側が同じ記号系を共有している可能性か」
榊が問う。
「その言い方なら、いまは“可能性あり”」
真木が答える。
「あと、“主系列”って言い方。これ、現場運用の人間はあまり使わない」
葛西が眼鏡の位置を直した。
「では何だ」
「古い。少なくとも今の標準書式ではない。層管理がまだ雑だった頃の言い回しに近い」
「内部資料の漏洩か」
「あるいは、それを真似た外部」
ハザマはそこまで聞いて言う。
「役人ふうの男も現地規格と微妙にずれていました。輪と携行片に異物感がある」
「接触したのか」
葛西が即座に問う。
「対象とは接触しています」
「対象以外は」
「視認のみ」
「追跡は」
「限定的に」
「拡張判断だな」
「必要でした」
葛西は何かを言いかけ、榊が先に口を開いた。
「その男の所属より先に、いまは対象の状態だ」
画面が切り替わる。
レオンの観測帯。死亡時刻。復帰時刻。周辺残留。
真木がひとつの波形を拡大する。
「ここがさっきから悪い」
「何が」
ハザマが聞く。
「未採用の死の残り方」
真木は淡々と言う。
「工藤案件の“空白への参照”と少し似てる。でもこっちは、死ぬたびにごく薄く増える」
「蓄積か」
榊が言う。
「たぶん。レオン本人に戻ってるんじゃなくて、朝のほうが少しずつ削れてる」
「……」
「次に死ねば、本人だけじゃ済まない可能性が出てきた」
中継室が静かになる。
「どういう意味だ」
葛西が問う。
真木は一瞬だけ言葉を選んだ。
「いままでは“レオンだけが持ち越す”前提だった。でも残留帯の広がり方が悪い。次の反復で、周辺の誰かが部分的な持ち越しや既視感を持つかもしれない」
「局所リプレイの共有化?」
ハザマが言う。
「そこまで綺麗じゃない。もっと半端で、気持ち悪い形」
「だが主観測系へのノイズは上がる」
榊が静かにまとめる。
「はい」
真木がうなずく。
「一人分の異常でなくなる」
葛西が端末へ何かを打ち込み、即座に表示させる。
「では処理優先だ」
「短絡するな」
榊が止める。
「ここで終了処理をかけて、残留帯がどう弾けるか読めていない」
「放置もできない」
「だから確保だ」
その一言で、空気が変わる。
ハザマは何も言わない。
葛西だけが眉を寄せた。
「生存確保を優先?」
「そうだ」
榊は平坦に答える。
「対象の次回死亡を防ぐ。保全側の接触経路も探る。その上で処理判断だ」
「住人接触は増える」
「だが広域ノイズ化よりはましだ」
葛西の視線が、まっすぐハザマへ向く。
「特務官ハザマ。対象の死亡を防止しつつ、追加接触を継続。現場判断の自由幅は狭める。情報共有の遅延はこれ以上認めない」
「了解です」
「本当に?」
「はい」
「少しも不満そうに見えないな」
「あります」
「珍しい」
「業務上の不満は業務で処理します」
真木が小さく笑った。
「その台詞、ちょっと好き」
榊はそのやりとりを切って落とすように言う。
「ハザマ」
「はい」
「対象が今夜また死ぬ経路を絞れ」
「はい」
「それと、保全側が“未確定人格”と言った意味を拾え」
「了解です」
「工藤案件の残留とは混ぜるな」
「……努力します」
「努力では困る」
「では、混ぜないよう処理します」
その一拍の遅れを、葛西は見逃さない。
だが今は突っ込まない。案件のほうが先に動いている。
会議回線が切れる直前、真木だけが個別に短文を送ってきた。
《三文字、断定はしない》
《でも“レオン”の音へ寄りすぎ》
《現地名が後付けの可能性、少しある》
ハザマは表示を見て、すぐには消さなかった。
後付け。
保全対象。
残しただけ。
点の並び方が、少し嫌になってくる。
*
そのころレオンは、市場裏の石段にひとり座っていた。
夜の市場は昼より静かだ。
静かなぶん、残飯の匂いと濡れた麻袋の匂いが強い。昼の喧騒が剥がれたあとに残るのは、売れ残りと疲労と、明日のために見ないふりをするものばかりだ。
レオンは自分の紙を折り直していた。
黒い帯。白い線。妙な三文字。
見返すたびに自分のものではない感じがするのに、他人のものとも言い切れない。
――おまえにしたのではない。残しただけだ。
あの声が頭から離れない。
残した。
何を。
誰を。
今の自分をか。
死ぬ前の自分をか。
それとも、どこかで終わるはずだった何かを、ここへ無理やり留めているだけなのか。
石段の下、水路の黒を見ていると、ふと、同じ朝を使う前の自分の輪郭が思い出せなくなる。借金はあった。仕事は重かった。ミレナの顔も、マルクの咳も、知っている。なのに、その全部を一回きりの流れとして生きていた感じだけが、少し薄い。
自分は本当に、最初からレオン・グラーツだったのか。
そこまで考えたとき、背後から足音がした。
振り向かなくてもわかる。
ハザマだ。
「またおまえか」
「はい」
「今夜はここかよ」
「死亡経路の近くなので」
「言い方」
ハザマはレオンの二段上の石段に立つ。座らない。
レオンはそれに気づいて、少しだけ嫌になる。この男は、自分と同じ高さへ来ることを意識的に避けている。距離の取り方が、いつも正確すぎる。
「おまえ、誰に報告した」
レオンが言う。
「必要な相手に」
「必要じゃない相手は?」
「まだ」
「まだ、って便利だな」
「便利ではありません」
レオンは紙を握る。
「俺をどうするつもりだ」
「今夜は死なせません」
「それで明日になったら」
「明日も必要なら止めます」
「ずっと?」
「止まるまで」
レオンはそこで、笑うでも怒るでもなく、ただ疲れた顔になった。
「……最悪だな」
「よく言われます」
「今日は二回目だぞ」
「記録しますか」
「するな」
そこで、通りの向こうからまた一つ、乾いた金属音がした。
ハザマの視線が走る。
レオンも同時に立ち上がる。
今夜、もう動き始めている。
保全側か、別の追手か、それともレオン自身の次の死か。
ハザマは低く言った。
「今夜から、あなたの一回分をこちらが管理します」
「気持ち悪いこと言うな」
「言い方の問題ではありません」
「大ありだよ」
それでもレオンは逃げなかった。
逃げてもどうせ、もう自分ひとりの朝ではないと知ってしまったからだ。




