第19話
紙片の文面は、短いくせに扱いが面倒だった。
――保全対象への過接近を控えろ。
――未確定人格の崩壊は主系列の損失になる。
ハザマはその二行を、現地中継室の薄い灯りの下で再読した。
保全対象。未確定人格。主系列。
どれも意味は通る。通るのに、今の管理局の運用語としては少し古く、少しずれている。内を知る外か、外へ漏れた内か。どちらにしても、雑な脅し文句では済まない。
しかも問題は文面だけではなかった。
レオンが書いた三文字と、紙片の裏に残っていた極薄い転写痕の癖が近い。偶然と切るには嫌な近さ。
真木は「私は嫌」とだけ返してきた。
榊は処理より確保を選んだ。
葛西は共有遅延を咎めつつ、現場判断の幅を狭めた。
その結果として、今夜の方針は一つに絞られた。
レオンを、朝まで死なせない。
*
レオンは、その説明を受けたとき、少し黙ってから言った。
「おまえ、さらっと気持ち悪いこと言うよな」
「業務です」
「便利な言葉だな、それ」
夜のヴァルカは冷えていた。
工房の火はまだ生きているが、路地の石は昼よりよほど冷たくなる。水路は黒く、橋板は湿り、滑る。昼ならただの労働の街だが、夜になると、死ぬ場所だけが先に目立つ。
ハザマは地図をひらき、レオンへ見せないまま言った。
「今夜、あなたが死ぬ可能性の高い経路を洗いました」
「経路って言い方やめろ」
「五つあります」
「……五つもあるのか」
「あなたの証言と、前回までの観測を重ねた結果です」
「前回まで、ね」
レオンは自嘲ぎみに笑う。
自分の死が、もう“何回目かの前回”として整理されていることに、いちいち腹を立てるだけ無駄だと、少しずつ学び始めていた。
「水路沿いの板橋」
ハザマが指を動かす。
「市場裏の路地」
「倉庫街の荷揚げ機」
「染色工房の炉」
「南門前の階段」
レオンはその並びを聞いて、ひとつひとつ思い出す。
落ちた。刺された。潰れた。焼けた。首を折った。
数えたくなくてやめたはずなのに、場所だけは身体のほうがよく覚えている。
「……全部通らなきゃいいだけか」
「理屈としては」
「理屈としては、ね」
ハザマは答えない。
その沈黙が、簡単では済まないことをもう言っている。
最初の異変は、南門前の階段で起きた。
本来なら通らないはずの場所だった。
ハザマが意図的に遠回りを選び、レオンも従っていた。なのに、階段の上から荷担ぎの男が足を滑らせ、積み荷ごと転がり落ちてきたのだ。運悪くでは済まない角度で、まっすぐレオンの位置へ。
ハザマはレオンの肩を引いた。
木箱の角が石に砕け、欠片が二人の靴元へ散る。
「……いまの、何だ」
レオンが言う。
「事故です」
「おまえ、そう思ってないだろ」
「現時点では事故です」
荷担ぎの男は青ざめながら謝る。
彼に悪意はない。
だが、悪意がない事故ほど、いまは信用しづらかった。
次は染色工房の裏だった。
工房の外炉の火が、何の前触れもなく吹き返した。風向きは悪くない。薪も湿っていたはずだ。なのに、一瞬だけ炎が横に走り、レオンの外套の裾を舐めかける。
ハザマが手で払う。
布は焦げたが、燃え移るほどではない。
「……街のほうが殺しに来てるみたいだな」
レオンが低く言う。
「あなたの死が“戻り”の条件なら、現象側が維持しようとしている可能性はあります」
「それ、慰め?」
「説明です」
「最低だな」
「よく言われます」
レオンは舌打ちし、次の瞬間には息を吐く。
怒っている余裕が、もうあまりない。
自分の死を避けるためにこの男と一緒にいる。その事実だけで、かなり嫌だ。
市場裏へ入る前、レオンは足を止めた。
「……ここだ」
昼にミレナとすれ違い、借金取りと揉め、何度か刺された場所。石壁の高さまで、もう目が覚えてしまっている。
ハザマは通りを一瞥した。
「通る必要はありません」
「知ってる」
「なら」
「……でも、通らないと、その先に何がいるかも見えない」
ハザマはレオンを見る。
もう、こういう言い方をするようになっている。死ななければ済む、ではなく、死の先にあったものを見に行きたいから危険地帯を捨てきれない。
「今夜は見ない」
「何で決める」
「生存確保が先です」
「おまえはいつもそうだ」
「はい」
「それで何人分の朝を切った」
「数えていません」
その返答に、レオンは一瞬だけ本気で言葉を失った。
数えていない。
悪びれもなく。
そこがこの男のいちばん嫌なところで、いちばん信じてしまいそうなところでもある。
「……数えろよ」
レオンが言う。
ハザマは少しだけ間を置いてから答えた。
「数えると、遅くなります」
「そういうことじゃない」
「そういうことです」
会話はそこで切れた。
切れたまま、二人は市場裏を避けるように迂回する。
そして、その先でミレナに会った。
夜なのに、まだ桶を抱えている。
工房の水替えが長引いたのだろう。顔には疲れが出ている。だがレオンを見ると、ほっとしたような、妙な顔をした。
「よかった」
彼女が言う。
「今日、落ちなかったんだ」
レオンもハザマも、その一言で止まった。
「……何だって?」
レオンが言う。
ミレナ自身も、言った瞬間に顔をしかめる。
「いや、違う。今の……」
「何でそう思った」
「わからない」
桶を抱える腕がわずかに震える。
「昼から変なの。あんたを見たとき、何回か同じこと言った気がして。でも、そんなわけないでしょ」
「……」
「水路で、落ちるの見た気がしたの。なのに今日のあんたは落ちてない」
ハザマの端末が、袖の内側で短く警告を鳴らした。
《周辺住人一名》
《局所既視感帯を検知》
《非対象への軽微な持ち越し兆候》
来た、とハザマは思う。
一人分の異常ではなくなり始めている。
「ミレナ」
レオンが言う。
「今の、誰かに言ったか」
「言うわけないでしょ。自分でも変だもの」
「他にも、何か」
「……朝、桶を落とすって先に知ってた気がした」
彼女はそこで本当に怯えた顔をした。
自分の中に、自分のものではない“先”が入り込んだ気配を、人はこういう顔で受け取るのかと、ハザマは一瞬だけ思う。
「帰ってください」
ハザマが言った。
ミレナが初めて彼をまともに見る。
昼にレオンと一緒にいるところを、見たような見ていないような気がする顔だった。
「あなた……」
「帰宅を推奨します」
「誰なの」
「通りすがりです」
「絶対違うでしょ」
「そうでしょうね」
ミレナは意味がわからない顔をしたが、それ以上は何も言えなかった。桶を抱えたまま、一度レオンを見てから去っていく。
その背中を見送り、レオンが低く言う。
「……広がってるのか」
「はい」
「俺のせいで」
「現象のせいです」
「言い換えるな」
「言い換えていません」
レオンは水路の黒を見る。
自分の死が、自分だけで閉じていない。
未採用の朝が、他人の中へも薄く染み始めている。
その実感が来た瞬間、今までの死の重さが少し変わった。
自分が痛いだけでは済まない。
誰かの一回目に、二回目の影が落ちる。
「……今夜、死んだらまずいな」
レオンが言う。
ハザマは短くうなずく。
「はい」
「おまえが初めて人間っぽい肯定した気がする」
「記録から外しておきます」
レオンは笑わなかった。
もうそれどころではない。
そのとき、水路の向こうで、またあの乾いた金属音がした。
輪。
あるいは、輪に似た何か。
ハザマは即座にレオンの前へ半歩出る。
守るためというより、現象の中心を無駄に動かさないための位置だ。だが、その差をいまここで説明しても意味はない。
暗がりの中から、声だけが来た。
「広がる前に折るか」
男とも女ともつかない、低い声。
「それとも、保持したまま観測するか」
保全側だ。
だが今夜の言い方は、前より冷たい。
「姿を見せろ」
ハザマが言う。
「必要がない」
声が返る。
「おまえも、本当はわかっているはずだ。こいつは残したほうが価値がある」
「価値の話はしていない」
「してるさ。おまえらも、いつだって」
その瞬間、レオンの背中が寒くなる。
価値。
止める側も、残す側も、自分をそういう単位で見ている。
それが事実だとしても、事実のまま聞かされるとひどく気持ちが悪い。
「レオン」
ハザマが名を呼ぶ。
「今夜は死なないでください」
「命令か」
「依頼です」
「その差、いま重要か?」
「私には」
短い沈黙。
レオンは自分の手を見る。
痛みを覚えている手。
紙を書く手。
死ねば明日に飛ぶかもしれない手。
でも今は、その先にミレナの曖昧な既視感がつながっている。
「……わかった」
そう言うと、外の気配が少しだけ動いた。
不満とも、観測完了ともつかない気配だった。
「今夜は、か」
声が言う。
「なら次は、もっと広い朝で会おう」
足音は残さず、気配だけが遠のく。
ハザマは追わない。
追えばレオンが動く。レオンが動けばまた死の経路が開く。
水路の黒が揺れる。
街はまだ働くように冷えている。
ハザマの端末には、短く新しい表示が出ていた。
《局所持ち越し兆候 一名確認》
《波及開始の可能性》
《対象の次回死亡を厳重監視》
レオンはその画面を見ない。
見なくても、自分の異常がいま初めて、街へ触れ始めたとわかっていた。




