第20話
場所を移したのは、夜半前だった。
市場裏や水路沿いを避け、労働者街から少し離れた石蔵の二階。管理局の簡易観測点として昔に押さえた場所らしく、扉の蝶番も窓の留め具も、見かけよりしっかりしている。部屋は狭い。寝台一つ、机一つ、椅子二つ。石壁は厚く、外の音は少し遅れて入る。
レオンは部屋へ入った瞬間に顔をしかめた。
「監獄みたいだな」
「そう見えるなら、外のほうが危険だということです」
「励まし方が下手すぎる」
「励ましていません」
「知ってるよ」
ハザマは窓際に立ち、端末を開く。
レオンには黒い板にしか見えないそれに、地図と時刻と、死亡経路の優先順位が静かに並んでいる。
南門前の階段。市場裏の路地。水路沿いの板橋。染色工房の炉。倉庫街の荷揚げ機。
全部、今夜は切った。残る危険は、レオン本人が自分から動くことと、現象が外から寄せてくることの二つだけだ。
「おまえ、寝ないのか」
レオンが椅子へ腰を下ろしながら言う。
「必要なら」
「必要だろ、これ」
「私は交代できます」
「交代?」
「本部側の観測補助と接続しています」
「気持ち悪い言い方だな」
「今日はよく言いますね」
「今日はっていうか毎日思ってる」
レオンは紙を取り出し、机の上へ置いた。
炭で書いた断片。黒い帯、白い筋、光。妙な三文字。
自分のものではないみたいな紙だ。だが、自分の手でしか書けない紙でもある。
「……これ、返さなくてよかったのか」
「返しました」
「そうじゃなくて」
「持っていてくださいと言いました」
「何のために」
「あなたが、自分の異常を外から言われるだけで済ませないためです」
その答えに、レオンは少しだけ黙る。
救いではない。
配慮とも言いにくい。
だが、全部を取り上げるつもりではないのだとだけは伝わる。
「おまえ」
レオンがぼそりと言う。
「たまに変なところで人間っぽいな」
「気のせいです」
「それも毎回言うな」
部屋は静かだった。
遠くで鍛冶の音がして、さらに遠くで酔った声がする。
夜の街はまだ死んでいない。だが、寝台の縁に座るレオンにとっては、その生きている気配が逆に重い。
死なないと決めた。
決めたが、だからといって眠れるわけではない。
むしろ、今夜死ななかったとき何が起きるのかがわからないぶん、いつもより落ち着かない。
「なあ」
しばらくして、レオンが言う。
「俺が本当に朝まで死ななかったら、どうなる」
「観測します」
「そうじゃなくて」
「わかりません」
「またそれか」
「わからないので」
レオンは舌打ちしようとして、途中でやめた。
「……おまえが思ってることを言えよ」
「思っていることは複数あります」
「一番嫌なのからでいい」
「現象が維持できなくなり、消える可能性」
「消える?」
「あなたの戻りが止まる」
「それはまだいい」
「次」
「……」
「現象があなたから剥がれず、周辺へにじむ可能性」
「それがミレナか」
「はい」
「次」
「現象が、あなたの死亡を外から作りに来る可能性」
「最低だな」
「同意します」
「え」
「最低です」
レオンはそこで少しだけ顔を上げた。
この男は、こういうところで急に肯定する。しかも本当にそう思っている顔で。
「……今のは、ちょっと普通の会話だったな」
「残念でした」
「それ気に入ってるだろ」
「否定しません」
ほんの少しだけ空気が緩む。
その緩みが、逆に怖かった。こんな状況で人と喋っている感じがすること自体、もう正常ではない気がする。
真夜中を回る頃、最初のズレが来た。
窓の外、通りの向こうで、同じ男が二度あくびをした。
それだけなら珍しくもない。
だが、一度目と二度目の動きが、妙に一致しすぎていた。首の傾き、肩の上がり方、手の振り方。まるで同じ瞬間を薄く重ねたみたいに。
ハザマの端末が短く鳴る。
《局所反復ノイズ検知》
《非対象領域に微小遅延》
「今の、見たか」
レオンが言う。
「はい」
「何だ」
「街の側が少し揺れています」
「もっとわかるように言え」
「あなた一人に押し込めていた反復が、少し外へ滲み始めています」
レオンは窓の外を見る。
通りの男はもう普通に歩いている。あくびも、二度目だったこと自体を知らないだろう。
「……俺が死ななかったからか」
「可能性は高い」
「じゃあ死んだほうがましだったのか」
「まだそこまでは言いません」
「言えよ」
「まだ、です」
同じ言い回しなのに、今は腹立たしさより疲れのほうが勝った。
レオンは顔を覆う。
「全部まだだな」
「はい」
「最低だ」
「同意します」
そのあと、今度は階下で音がした。
ぎし、と木が鳴る。
誰かが石蔵の扉に体重をかけている。
ハザマは端末を閉じる。
視線だけでレオンへ「動くな」と伝え、自分は扉と窓の中間へ立つ。
レオンはもう、その視線の意味が少しわかるようになっていた。
「保全側か」
レオンが小声で言う。
「断定しません」
だが、扉の向こうから返ってきた声で、答えはほぼ出た。
「開ける必要はない」
男とも女ともつかない、抑えた声。
壁越しに近い。昨日の声とも少し違う。
複数いるのか、声色を変えているのか、それともその両方か。
「今夜はまだ、こちらも壊したくない」
ハザマは返す。
「なら帰れ」
「それでは、そちらが先に折る」
「折る前に止める」
「同じだ」
その一言に、レオンの胃が冷える。
止める。折る。保つ。残す。
どちらも結局、自分を何かの単位で扱っている。
その違いが、本人にとってはあまり救いにならない。
「レオン」
扉の向こうが、初めて名前を呼んだ。
「今夜を越えても、朝は一つじゃ済まない」
レオンの呼吸が止まる。
「何の話だ」
「おまえはもう、一人分の朝に収まらない」
「……」
「だから残す価値がある」
「価値で呼ぶな!」
レオンが立ち上がる。椅子が倒れる。
その音にかぶせるように、外の声が少し笑ったように聞こえた。
「ようやく怒ったな」
ハザマは扉へ近づかない。
近づけば相手の手の内へ入る。
今は対話の継続より、生存確保が先だ。
「今夜ここで死なせるつもりはない」
ハザマが言う。
「知っている」
外の声が返す。
「だから試している」
その瞬間、レオンの背後、部屋の隅で何かが落ちた。
木箱の上に置かれていた空の瓶だ。
揺れもなく、触れてもいないのに、唐突に転がり落ちて砕けた。
レオンが跳ねる。
ハザマはすぐ振り返る。
端末には新しい警告。
《局所位相ずれ》
《対象周辺で未採用経路の混線》
床に散った瓶の破片。
本来なら落ちなかったかもしれない瓶。
倒さなかった手。
そういう小さな「なかったはず」の線が、今夜は部屋の中にまで滲んでいる。
「……どうなってんだ」
レオンが掠れた声で言う。
「混ざってきている」
「何が」
「あなたが死んだ朝と、死ななかった朝の端が」
レオンは砕けた瓶を見つめる。
自分が一人分の異常でなくなっている実感が、こういうどうでもいい破片の形で来るのがたまらなく嫌だった。
扉の向こうの声が、少しだけ低くなる。
「見ただろう」
「黙れ」
ハザマが言う。
「止めるなら急いだほうがいい。朝が広がる前に」
その言葉を最後に、気配は引いた。
今度は本当に遠ざかった。追えないほどではない。だが、追うべきではない類いの引き方だった。
部屋に残るのは、砕けた瓶と、レオンの荒い呼吸と、端末の小さな警告音だけ。
ハザマはゆっくりしゃがみ、破片の一つを拾い上げた。
切っ先のように鋭い。
もしレオンがさっき一歩違う位置に立っていたら、頸動脈へ届いたかもしれない。
「……今のも、俺の死の経路か」
レオンが言う。
「その可能性があります」
「この部屋に閉じ込めても?」
「ええ」
「じゃあもう、どこにも安全な場所なんかないじゃないか」
「あります」
ハザマが言う。
「どこだよ」
「現象を止めたあとです」
レオンは一瞬、何も言えなかった。
きれいごとではない。
慰めでもない。
ただ、順番としてそうだと言っているだけだ。
それが、この男のいちばん腹立たしいところで、いちばん信じてしまいそうなところでもあった。
窓の外が、少しだけ白み始める。
まだ朝ではない。
だが夜ももう深くはない。
ハザマは拾った破片を机に置き、端末へ短く記録した。
――対象未死亡のまま、周辺ノイズ増大。
――未採用経路の混線、室内物体へ及ぶ。
――朝の共有化前段階の可能性。
そこまで打って、送信は保留した。
榊へ上げるべきだ。葛西にも回すべきだ。
だが、もう少しだけ観測したい。
その判断が正しいのか、単なる遅延なのか、まだわからない。
レオンは寝台の縁へ座り込み、顔を上げずに言った。
「おい」
「何ですか」
「俺、今夜を越えたらどうなる」
「観測します」
「……本当に嫌な奴だな」
「よく言われます」
「でも、さっきの瓶で死んでたら」
「止められませんでした」
「そうかよ」
その一言だけで、レオンは少し黙る。
死ななかった。
でも死は、もう部屋の中にまで来ている。
朝まで生きることが、そのまま事態の改善を意味しない。
その不快な真実が、ゆっくり部屋に満ちていった。
窓の外で、最初の鳥が鳴く。
レオンもハザマも、その音に少しだけ顔を上げた。
まだ朝ではない。
だが夜も、もう深くはない。
そのとき、石蔵の下の通りを、酔いの抜けきらない荷担ぎの男がふらつきながら通った。
ただ通り過ぎるだけのはずだった。
なのに男は、誰に言うでもなく、寝言みたいな声で呟いた。
「……落ちなかったんだな」
レオンの喉が止まる。
ハザマの端末が、遅れて短く鳴る。
《非対象一名》
《未発生事象への言及を検知》
男は自分で何を言ったのかもわからないまま、首を掻いて歩き去る。
通りには何も起きていない。
まだ誰も落ちていない。
それでも、明らかに一つ、朝の順番だけが先に漏れた。
ハザマは表示を見たまま動かない。
レオンは寝台の縁を強く握る。
死ななかった。
なのに朝は、もう自分一人の中に収まっていない。




