第21話
「……落ちなかったんだな」
石蔵の下を通った荷担ぎの男は、自分が何を言ったのかもわからない顔で、そのまま夜の通りを歩き去った。
レオンは窓際に立ったまま動けない。
ハザマの端末だけが、遅れて短く鳴る。
《非対象一名》
《未発生事象への言及を検知》
まだ起きていない朝が、もう他人の口から漏れた。
それがどんな理屈より早く、現象の段階を変えていた。
「……俺の中だけじゃない」
レオンが言う。
声は掠れていた。
「はい」
ハザマが答える。
「そう判断します」
その言い方が嫌で、レオンは顔をしかめる。
だがいまはもう、言い方の悪さに噛みつく余裕より先に、自分の死が他人の朝へ混ざり始めている実感のほうが重い。
「今からどうする」
「朝を待ちます」
「待って、それで?」
「広がり方を見ます」
「おまえ、それ本気で言ってるのか」
「本気です」
「……最低だな」
「同意します」
ハザマは窓から視線を外さない。
それがなおさら腹立たしい。自分の異常が他人へ滲んでいるのに、この男はその滲み方まで見ようとしている。
だがレオンも、完全には否定できない。
ここで目を逸らせば、何がどこまで壊れるのか、余計にわからなくなるだけだ。
*
夜が明ける少し前から、街は微妙に変だった。
最初は音だった。
遠くの鍛冶の槌音が、ほんの一拍だけ二重に聞こえる。
鳥の鳴き方が、一声ぶんだけ揃いすぎる。
起き出した人々の足音が、同じ石を二度踏んだみたいに薄く重なる。
石蔵を出て、ハザマとレオンは水路沿いを歩いた。
夜のうちに決めた通り、危険経路は避ける。だが避けるだけで済む段階なのか、もう怪しい。
最初のはっきりした兆候は、南門前の階段だった。
荷担ぎの若い男が、上から木箱を抱えて降りてくる。
本来なら、四段目で足を滑らせる角度だ。
レオンはそれを知っている。ハザマも知っている。
だが、その瞬間、若い男は自分から不意に止まり、何もない段差を見下ろして舌打ちした。
「……ここ、危ねえな」
言ってから、自分で不思議そうな顔をする。
まだ滑っていない。
箱も重いままだ。
なのに彼の身体だけが、先に落ちたことのある足つきをしていた。
ハザマの端末がまた鳴る。
《非対象一名》
《局所既視感帯 増加》
レオンは思わず男の顔を見た。
知らない。会ったこともない。
それでも、男がまだ経験していないはずの転落の手前で止まったのは、自分の朝のどこかが漏れたからだと、もうわかってしまう。
「……やめろよ」
レオンが小さく言う。
誰に向けたのか、自分でもわからない。
現象か、自分か、それともこの街の朝か。
次は市場裏だった。
ミレナが桶を抱えて立ち尽くしている。
昼の配給前でもないのに、足元の石をじっと見ている。
レオンが名を呼ぶより早く、彼女はこぼすように言った。
「白い線がある気がする」
レオンの背中が冷えた。
「……何だって」
「何でもない」
ミレナはすぐに否定した。
だが、顔色が悪い。桶を抱える腕も少し震えている。
「変なの。石なのに、白い筋が見える感じがして。すぐ消えたけど」
その言葉を聞いた瞬間、ハザマの視線がレオンへ向く。
黒い道。
白い線。
現地にない断片。
いま漏れているのは、レオンがこの街で死んだ朝だけではない。
レオン自身の外側にある記憶片まで、朝の共有化に混ざり始めている。
真木へ短い送信を飛ばす。
返信は異様に早かった。
《来たか》
《予想より早い》
《共有化帯に対象の外部断片が混入》
《最悪》
ハザマは足を止める。
レオンがそれを見て、顔を強張らせる。
「何だ」
「悪いです」
「何が」
「あなたの朝だけではなくなっています」
レオンは意味がわかったのか、わからないまま嫌な想像に触れたのか、しばらく黙った。
ミレナは二人の顔を見比べるが、彼女に見えているのは断片だけだ。全部はまだつながっていない。
「……私、何か言った?」
ミレナが不安そうに聞く。
「別に」
レオンが即座に返す。
「何も考えるな」
「それが一番無理なんだけど」
その返しに、レオンは何も言えなくなる。
そうだ。考えるなで済むなら、最初から誰もこんな顔はしない。
ハザマは静かに言う。
「帰宅を勧めます」
「またその人」
ミレナが言う。
「あなた、誰なの」
「説明が長くなります」
「じゃあ短く」
「いまは帰ったほうがいいです」
ミレナは納得しない。
しないが、桶を抱えたままその場を離れた。歩き出す直前、小さく首を振っていた。頭の中の白い線を追い払うみたいに。
レオンはその背中を見ながら、低く言う。
「……俺が死ななかったからだな」
「可能性は高い」
「またそれか」
「断定前です」
「もう断定でいいだろ、こんなの」
その声には、怒りより先に疲れがあった。
ハザマは答えない。
答えないまま、別の表示を確認する。
榊と葛西にも速報は送った。
数秒後、榊からだけ返ってきた。
《継続観測はここまで》
《対象を固定しろ》
《朝帯の広がりをこれ以上許すな》
葛西からは一行だけ。
《遅い》
それだけ。
もっともだ、とハザマは思う。
もっともだが、ここまで見なければ、どこから壊れ始めるのかはわからなかった。
「戻ります」
ハザマが言う。
「どこへ」
「石蔵です」
「閉じ込めるのか」
「固定します」
「言い方」
「正確です」
レオンは笑わなかった。
いまはもう、言葉の悪さへ反応する余裕が少ない。
石蔵へ戻る途中。
こんな時間だってのに、通りの端で子どもがしゃがみ込んでいた。
煤で汚れた石に、指で何かをなぞっている。
黒い帯。
その真ん中を切る二本の白い筋。
レオンの足が止まる。
「……おい」
子どもは顔を上げる。
何を書いたのかわかっていない顔だ。
「何してるの」
とレオンが聞くと、子どもは肩をすくめる。
「知らない。線が見えたから」
その無邪気さが、いちばん悪かった。
ハザマの端末が、今度は警告音ではなく、低い連続音を鳴らす。
《局所既視感帯》
《非対象二名目》
《外部断片の視覚転写を確認》
ここで、もう理屈の余地はほとんどなくなる。
レオンは子どもの描いた線を見下ろし、何も言えなかった。
自分の中にだけ閉じ込められていたはずの、ここにない風景が、街の石へ染み始めている。
「……帰れ」
絞り出すように言う。
子どもは不思議そうにしながらも、走って去る。石に残った白くもない線だけが、その場に残る。
レオンはしばらく動かなかった。
ハザマが隣で言う。
「ここから先は、あなた一人の意思では制御できません」
「知ってる」
「なら」
「知ってるって言ってるだろ!」
その声には、ようやく本物の怒りが混じった。
怒りの相手はハザマではない。
自分でも、現象でも、残したと言った誰かでも、全部でもある。
「俺は、誰も巻き込みたくてやってたわけじゃない」
「はい」
「最初は死にたくなかっただけだ」
「そうでしょう」
「途中から知りたくなった」
「はい」
「でも、こんなのは」
「はい」
ハザマは短く返す。
短く返しながら、その全部を否定しない。
「……止めるしかないな」
レオンが言う。
ハザマはその言葉を聞いて、初めて少しだけ目を細めた。
「処理判断はまだ私では」
「おまえの言い方じゃなくていい」
レオンは石に残った線を見たまま言う。
「俺がそう思ったって話だ」
それは、案件の進行にとっては小さなことかもしれない。
だが、ハザマには小さくなかった。
対象本人が、初めて“自分が止まるべき側かもしれない”と口にしたのだ。
石蔵へ戻る途中、ハザマは端末へ短く打つ。
――対象本人、停止の必要を自発的に認識。
――周辺住人二名に既視感および外部断片視覚転写。
――朝帯の共有化、初期段階から次段階へ移行。
送信先は、榊と真木。
葛西は一拍遅らせた。
それが良い判断かどうかは、まだわからない。




