第55話
駅前を離れ、川沿いの道を歩く。
空はまだ朝になりきっていない。黒が少し薄くなった程度だ。
護岸のコンクリートは湿っていて、遠くで新聞配達のバイクの音がした。
真木が送ってきた場所は、旧観測塔だった。
今は閉鎖された水位観測施設。地球側の気象補助と水系予測に使われていた古い設備で、管理局の主観測系補助にも薄く噛んでいたらしい。
『そこ、いちばん古い枝の一つです』
耳の奥で真木が言う。
『干渉窓の土台に近い。正規処理と違法侵入が、どこで分かれてるか見るなら、たぶんそこが早い』
「土台ですか」
『ええ。世界の核じゃないです』
真木は言った。
『でも、観測の窓としてはかなり古い。だから逆に、後から増設されたものも見えやすいと思います』
塔は、川霧の向こうに立っていた。
細くて白い。
遠くから見ると、ずっと街に混ざっていたあの塔に少し似ていた。
近づくと、似ているだけだとわかる。
だが似ているだけで十分に嫌な予感がする。
入口のシャッターは半分だけ開いている。
中へ入る前に、ハザマは立ち止まった。
「真木さん」
『はい』
「向こうも気づいていますよね」
『気づいてます』
真木は言う。
『昨日の時点でかなり。今日は、たぶん待ってます』
「そうですか」
『嫌ですね』
小さく息がこぼれそうになって、止めた。
今の真木の言い方は少しだけ救いだった。
シャッターをくぐる。
中は古い機械の匂いがした。油と埃と、長く使われなかった部屋の冷たさ。
壁際に並ぶ計器は死んでいるが、奥の一台だけが淡く点いていた。
そこへ向かおうとしたとき、声がした。
「そこまでだ」
葛西だった。
暗がりから出てくる。
今日は画面越しではない。地球の湿った空気の中に、ちゃんと立っている。
「早いですね」
ハザマは言う。
「お前が遅いんだ」
葛西は言った。
「地球に残った時点でこうなると思っていた」
後ろに人はいない。
保全部隊も、武装した職員もいない。
そのことが逆に、本気を感じさせた。
「止めに来たんですね」
「止める」
葛西は短く言う。
「ここから先は、お前一人の倫理で踏み込んでいい規模じゃない」
ハザマは答えなかった。
葛西は続ける。
「現実側の予測補助はもう乱れ始めている。小さいが、もう小さいだけで済む段階じゃない。気象補助が遅れれば災害時の避難が遅れるだろう。感染予測が鈍れば医療が遅れるかもしれない。限られた資源配分が外れれば、知らない場所で、知らない人間が死ぬ」
「ええ」
「それでも行くのか」
「行きます」
葛西はわずかに目を細めた。
怒鳴りはしない。怒鳴っても変わらないとわかっている人間の顔だった。
「理由は」
「アナーキーだけを切っても足りないからです」
ハザマは言う。
「管理局の正規処理だけを残しても、同じことが別の名前で続く」
「続かないように、管理する」
葛西が返す。
「管理する側を残す限り、また触れます」
そこで葛西の沈黙が一度入る。
理解しない沈黙ではなく、理解したくない種類のものだった。
耳の奥に通信が開く。
榊だった。
『聞こえている』
短い声だった。
『続けろ』
葛西がわずかに顔を上げる。
「見ているのか」
『見ている』
「止めないのか」
『止めたいなら止める』
榊は言った。
『その代わり、何を残すべきかを見ないまま決めることになる』
葛西は舌打ちしなかった。
その代わり、目だけが少し冷たくなる。
「真木」
榊が言う。
『はい』
今度は真木が入る。
『旧観測塔の中枢、開けます。ハザマさん、右奥の制御卓です』
制御卓に近づく。
古いモニターが一枚。
その下に、新しい端末が増設されている。
『そこ、地球側観測の古い土台です』
真木が言う。
『自然漏れの受信。観測用の整形。そこまでは、元からある』
「その先ですか」
『ええ。そこから先が、後付けです』
ハザマが端末を起こす。
画面に、階層図が出た。
受信層
観測整形層
補助出力層
ここまでは、まだ静かだった。
自然漏れを拾い、人が扱える形へ整理し、現実側の補助へ出す。
管理局が言ってきた「観測インフラ」の顔そのものだった。
だが、その下に別の階層がぶら下がっている。
介入権限層
さらに分岐。
役職補正
参照切断
終了処理補助
その隣に、
侵入付与
人格再配置
違法保持
真木の声が低くなる。
『見ての通りです』
『観測の土台の下に、介入権限が増設されてる。管理局は上から三つを正規処理として使った。アナーキーは下の三つを違法侵入として使った』
「土台は残せるんですか」
ハザマが訊く。
真木は少しだけ黙った。
資料を見ている沈黙だった。
『可能性はあります』
『受信層と観測整形層だけなら、完全ではないけど残せるかもしれない。精度は落ちる。でも、窓そのものを全部潰すよりはましです』
葛西が鋭く言う。
「“かもしれない”で現実側の損失を許容するのか」
『逆です』
真木が返す。
『今は“介入権限まで残したまま、現実側だけ守れるかもしれない”のほうが成り立ってません』
葛西は制御卓の画面を見た。
はじめて、ほんの少しだけ迷いが顔に出た。
「つまり」
ハザマが言う。
「残す線と、焼く線がある」
『そうです』
真木が言った。
『自然に滲む線、観測の線、完全ではなくても予測に使える線は残る可能性がある。焼くのは、上から下の人格へ触る権限の線です』
そのとき、画面が一度だけ白く飛んだ。
制御卓の黒い枠に、白い朝が映る。
海は見えない。塔だけがある。
「こんにちは」
軽い声だった。
少し楽しそうで、それでいて底が冷たい。
「いい感じに進んでるね」
制御卓のガラス面に、輪郭が立つ。
顔は定まらない。
だが、ただのノイズではない。こちらを見ている。
葛西が低く言う。
「出るな」
「出てるよ」
相手はあっさり言った。
「だって面白いでしょう。ようやく“何を残すか”の話になったんだから」
ハザマは視線を逸らさなかった。
「あなたは何を残したいんですか」
「窓そのものかな」
相手は言う。
「管理局みたいに整えたまま残すんじゃなくて、もっと壊れやすいまま。誰でも触れて、誰でも未来をずらせる状態」
葛西が言う。
「つまり無責任な汚染だ」
「違うよ」
相手は笑う。
「責任を独占させないって話」
「同じです」
ハザマが言った。
「あなたたちも結局は、上から触る側をやめていない」
相手は少し黙った。
その沈黙が、否定よりも気持ち悪い。
「……だから君が欲しかったんだよ」
やがて言う。
「管理局の中で最初に、削除したあとに残るものを見た。数字に戻りきらなかった。だから君なら、こっちのほうを選ぶかもしれないと思った」
ハザマは答えなかった。
代わりに、制御卓の図を見た。
受信。観測整形。補助出力。
その下にぶら下がる介入権限。
「私は、どちらも残しません」
ハザマが言う。
葛西がすぐに言い返す。
「観測の線は残るかもしれないと今聞いたはずだ」
「ええ。だから残すなら、そこまでです」
ハザマは言った。
「自然に滲むもの、読むだけの線、完全ではなくても現実側の判断を助ける線。そこまでは残る可能性がある」
「介入権限だけを焼く、と?」
榊が訊く。
「はい」
相手の輪郭が、少しだけ楽しそうに揺れた。
「いいね」
「やっと管理局にも、こっちにも属さない答えになってきた」
「でも、それをやれば」
葛西が言う。
「現実側の精度は落ちる。死者も出るかもしれない。そこは消えない」
「ええ」
ハザマは答えた。
「消えません」
葛西は、そこで初めて少しだけ声を荒くした。
「なら、なぜだ!」
その問いは怒りというより、切実に近かった。
「なぜ、そこまでして介入権限を消したい」
窓の外で、空が少しだけ白んできていた。
朝はまだ遠い。
だが、夜だけでもない。
ハザマはすぐには答えなかった。
ここで言葉を誤れば、ただの綺麗事になる。
だが、黙ったままでは葛西にも届かない。
「現実のためでも」
ハザマは言った。
「自由のためでも、上から誰かの人生を書き換えていい理由にはならないからです」
部屋が静かになった。
榊は何も言わない。
葛西は目を逸らさない。
アナーキー側の輪郭は、少しだけ笑っている。
「次で終わりだね」
相手は言った。
「君が何を焼くか、ちゃんと見せてよ」
ノイズが走る。
輪郭が崩れる。
白い朝の色が消え、制御卓は元の画面に戻った。
真木が言う。
『ハザマさん』
「はい」
『焼くなら、あなたの認証が要ります』
真木の声は平らだった。
『特務官権限と、残留照合。その両方を持ってるのが、今はあなただけなので』
「ええ」
『つまり、窓の介入権限を焼くなら、自分の帰還認証と存在保証も一緒に焼けます』
葛西が目を閉じる。
わかっていたが、聞きたくない事実を聞いた顔だった。
榊が短く訊く。
『実行可能性は』
『あります』
真木が言う。
『でも一回です。失敗したら、介入権限だけ残る可能性もある』
「成功すれば」
『管理局もアナーキーも、下位世界の人格へ直接触る権限を失います』
『自然漏れと観測補助は劣化しながら残る可能性が高いです。現実側の精度は落ちる。でもゼロにはならないかもしれない』
かもしれない。
その不確実さは残る。
だが、今はそこまでしか取れない。
葛西が、ようやく言う。
「私は止める」
声は低いままだった。
「最後まで止める。だが、今はもう、何を止めるのかが前よりはっきりした」
「ええ」
「お前は、管理局のためにもアナーキーのためにも、窓を残さないつもりだ」
「そうです」
榊が回線の向こうで小さく息を吐く。
『次で決めろ』
『どこまで失うかも含めて』
回線が落ちる。
真木だけが最後に残る。
『……嫌ですね』
「ええ」
『でも、もうかなり見えました』
『残す線も、焼く線も』
ハザマは窓の外を見る。
地球の朝が少しだけ近づいていた。




