第54話
夜の街は静かだった。
車は走っている。人も歩いている。コンビニの灯りは白い。
何も壊れていない。何も叫んでいない。
だが、それがいちばん嫌だった。
壊れていない顔のまま、少しずつ違うものに触れている。
地球は今、そういう段階に入っている。
古い補助室の机に置いた端末が、短く震えた。
真木からだった。
起きてますか。
起きてるなら回線開いてください。
嫌な意味で進展があります。
ハザマはすぐに繋いだ。
「起きています」
『でしょうね』
真木の声が返る。
『あんまり寝られる流れじゃなかったので』
「何がありました」
真木は少しだけ間を置いた。
資料を見ながら話すときの間だった。
『地球側の予測補助、もう少し具体的に乱れ始めてます』
『今のところは小さいです。でも、小さいまま放っておける感じじゃない』
壁のない部屋に、真木の声だけが広がる。
『気象補助の誤差が、三地域で同時に増えました。感染予測の枝も二本、急に外れた。物流はまだ致命傷じゃないけど、配分優先度が微妙に狂ってる』
『要するに、葛西さんの言ってた“現実側の死人が増える”が、もう脅しじゃなくなってきました』
ハザマは窓の外を見たまま言う。
「そうですか」
『はい。そうです』
真木は言った。
『だから困ってるんですよ。窓を残せば人格に触る権限が残る。窓を焼けば現実側の予測が鈍る。その両方が、もう机上の話じゃない』
部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。
「榊さんは」
『黙ってます』
真木が言う。
『あの人、ほんとにまずいときほど長く黙るので』
「葛西さんは」
『かなり本気で止める気です。たぶん今日中に正式命令が来ます』
予想通りだった。
『あともう一つ』
真木が続ける。
『地球側の異常が、さっきまでより一段だけ“揃い”始めてます』
「揃う」
『別々の人が、別々に見てた断片が、少しずつ同じ形になってきてる』
『塔。帰り道。海の見えない港。そういうのが、微妙に揃い始めた。向こうが、認識をまとめに来てる感じです』
ハザマは端末を持ったまま立ち上がった。
「今から接点へ戻ります」
『ええ。ただ、その前に一つだけ』
真木の声が少し低くなる。
『今日はもう、アナーキーだけの話じゃありません。管理局も止めに来ます。そこ、先に頭に置いておいてください』
「わかっています」
『本当に?』
「ええ」
『ならいいです』
真木は小さく息を吐いた。
『正直、もう“何を守るか”じゃなくて、“誰に触る権限を残さないか”の話に見えてるので』
その言い方は、昨日より少しだけ先へ進んでいた。
「私もそう思います」
通信が切れたあと、部屋はまた静かになった。
だが、静かなままでいさせてはくれなかった。
端末がもう一度震える。
今度は葛西だった。
画面を開く。
映った顔は予想通り硬い。
「特務官ハザマ」
葛西は言った。
「正式命令だ。地球側での独自行動を停止しろ。接点から離れ、本部帰還の準備に入れ」
「拒否します」
葛西は表情を変えなかった。
だが、言い返すまでの間がほんの少しだけ伸びた。
「早いな」
「遅いです」
ハザマは言った。
「もう、そこを通り過ぎています」
「通り過ぎていようが、いまさら通達する」
葛西は低く言う。
「現実側の補助系が乱れている。干渉窓の維持は優先事項だ。お前一人の倫理で壊していい規模じゃない」
「壊すとはまだ言っていません」
「だが残すとも言っていない」
それは、正しかった。
葛西は続ける。
「聞け。異世界群は現実世界の玩具じゃない。政策、感染、気象、資源。多くの人間が、知らないままその恩恵の上に立っている。お前が今やろうとしているのは、その床を抜くことだ」
床。
その言い方はわかりやすかった。
「わかっています」
ハザマは言った。
「わかっていない」
葛西は切って捨てた。
「わかっているなら、“人格に触るのは悪い”だけでは済まないと知っているはずだ。現実側の人間もまた守らなければならない。お前は何を優先する」
窓の外で、朝の気配が少しだけ増していた。
遠くのビルのガラスに空が映る。まだ青くはない。ただ黒が薄くなっている。
「どちらかだけは選べません」
ハザマは言った。
「甘いな」
葛西が言う。
「最終的には必ず選ぶ。守るか、切るかだ」
「いいえ」
「何が違う」
「守る対象ではなく」
ハザマは言った。
「残す権限の話です」
そこで、葛西の沈黙が一度入った。
理解しない沈黙ではなかった。
理解したくない種類の沈黙だった。
「……つまり」
葛西が言う。
「お前は、管理局にもその権限を残すべきではないと、そこまで考え始めているのか」
「考え始めています」
画面の向こうで、葛西はゆっくり息を吐いた。
怒鳴らなかった。
怒鳴れないとわかった顔だった。
「なら、私はお前を止める」
葛西が言う。
「制度のためだけじゃない。現実側の損失が見えているからだ」
「ええ」
「その上で言う」
葛西はわずかに身を乗り出した。
「お前がその窓を焼けば、助からない人間が出る。お前はその責任を、自分の綺麗さで引き受けた気になるな」
通信が切れた。
最後の一言だけが、少し残った。
綺麗さ。
葛西はハザマの決断を、まだそこへ置いている。
だが、もう違う。
部屋を出る。
雑居ビルの階段を下りる途中、壁に貼られたテナント案内の文字が一瞬だけ変わった。
三階 港の朝
次の瞬間には元へ戻る。
外へ出ると、朝の一歩手前の空気だった。
人はまだ少ない。新聞配達のバイク、清掃車、始発を待つような顔の人たち。
誰も、この世界が自分を必要としている顔はしていない。
誰も、この世界から切られかけている顔もしていない。
それなのに、上から誰かが順番を変え、役職を置き、未来を読み、不要な偏差を切ってきた。
管理局は安定のために。
アナーキーは攪乱のために。
動機は違う。
触っていることは同じだ。
駅前へ出たところで、信号が変わる。
歩道の向こうの大型ビジョンが、ニュースの見出しを流していた。
沿岸部の避難判断に遅れの可能性
物流調整に一部誤差
複数地域で予測補助の再計算
小さい。
だが、もう小さいままの話ではない。
ビジョンの文字が一瞬だけ乱れた。
その中から、また白い朝が滲む。
今度は画面の中だけではなく、交差点の向こう側の空気そのものが少し変わった。
海の匂い。
海は見えない。
塔だけがある。
「早いね」
人の流れの中に、その声が混ざる。
振り向くと、歩道橋の下に立つ一人の輪郭が見えた。
昨日より、少しだけはっきりしている。
まだ顔は定まらない。
だが、人の形としてそこにいる。
「管理局から止められた?」
相手は言う。
「当然だよね。君がそこまで来たなら、次に困るのはあっちなんだから」
ハザマは足を止めた。
「また勧誘ですか」
「勧誘というか、確認かな」
相手は肩をすくめる気配を見せた。
「君、もう管理局の理屈だけじゃ立てない。だったら、いっそこっちに来るほうが自然じゃない?」
「自然ではありません」
「どうして」
「あなたたちも同じ窓で触っている」
相手は笑う。
「うん。そこは否定しない」
「こっちは自由のために壊す。あっちは安定のために整える。違いはそれだけだよ」
「違いはそれだけではない」
ハザマは言う。
「あなたたちは、壊すこと自体を正当化し始めている」
「管理局は?」
相手が訊く。
「整えること自体を正当化してない?」
言葉が少しだけ刺さる。
刺さるから、切れない。
「だから、どちらにも残せません」
ハザマは言った。
相手の輪郭が、少しだけ揺れる。
楽しそうな沈黙だった。
「いいね」
「やっとそこまで来た」
人の流れは止まらない。
誰も二人を見ていない。
見えていないのかもしれないし、見えていても日常のノイズとして流しているのかもしれない。
「じゃあ次は、答えだ」
相手は言う。
「この世界は、誰を必要としてないのか。誰を残さないのか。君が決める」
「あなたが決めるんじゃないんですか」
「決めないよ」
軽く答えた。
「だって君のほうが、今はその窓に近い」
風が吹く。
白い朝の匂いが薄れる。
輪郭も少しずつ街の空気へ戻っていく。
「ハザマ」
消えかけながら、相手が言う。
「君を待ってたんだ。管理局を壊すためじゃない。管理局だけじゃ足りないって、君ならちゃんとわかるから」
それだけ言って、輪郭は消えた。
交差点の信号がまた変わる。
ビジョンのニュースは普通に戻っている。
人も車も、同じ速度で流れていく。
耳の奥で通信が開いた。
真木だった。
『見えてました。かなり』
開口一番、それだけ言った。
「そうですか」
『はい。で、かなり嫌でした』
真木は言う。
『でも、これでだいぶはっきりしました。管理局は干渉窓を残したい。アナーキーは窓を握ったまま管理を壊したい。ハザマさんは、どっちにも残したくない』
「ええ」
『だったら次は、本当に選ぶだけです』
選ぶ。
その言い方は正しい。
敵を倒すとか、謎を解くとか、そういう段階ではもうない。
「真木さん」
『はい』
「榊さんは」
『今は黙ってます』
真木が答えた。
『でも、たぶん最後に一回だけ訊くと思います。現実世界の損失も含めて、それでもやるのか、って』
「葛西さんは」
『止めに来るでしょうね』
少し間があった。
『本気で。たぶん制度のためだけじゃなく、現実側の人を減らしたくないから』
それもわかっていた。
ハザマは交差点を渡る。
朝が少しずつ近づいてくる。
この世界は、誰か一人を必要としてはいない。
だがそのことと、誰かが勝手に利用していいことは、同じではない。
そして、その言葉が次に返る相手は、もう一人ではない。
管理する側。
壊す側。
触る側。
この世界は、たぶん、そのどれも必要としていない。
そこまで考えたところで、ハザマは立ち止まらなかった。
次に向かう場所は、もう決まっていた。




