第53話
ハザマはゆっくりと目を開けて、独り言のように言った。
「真木さん」
『はい』
「本部と話したい」
通信の向こうで、真木が少し黙った。
『話したい、ですか』
「ええ」
真木は小さく息を吐いた。
『わかりました。場所、送ります。表向きは閉鎖中の観測補助室です。昔、主観測系の現地観測員が使ってた部屋らしいです。人目が少ない』
端末に地図が届く。
駅から少し離れた古い雑居ビルの上階だった。
*
部屋は狭かった。
机が一つ。椅子が二つ。窓が一つ。
窓の外には、夜の街。
ここから見えるのは特別な地球ではない。どこにでもある光の並びだった。
机の上には古い端末が置かれていた。
管理局のものに似ている。だが少しだけ作りが雑で、現場で長く使われた機械の顔をしていた。
『そこ、本部の正規回線は通しません』
真木が言う。
『榊さんが回してくれた旧系統です。かなり古い。だから逆に、葛西さんの監査にも引っかかりにくい』
「榊さんは、どこまで知っています」
『止めてない、くらいまでです』
真木が言った。
『あの人、許可するときより、止めないときのほうが多いので』
端末が起動する。
画面に現れたのは、さっき見たものの抜粋だった。
観測補助
案件識別
偏差補正
役職補正
参照切断
終了処理補助
その下に、
侵入付与
人格再配置
記憶定着
感情増幅
違法保持
同じ棚。
違う権限名。
その事実だけで、もう十分に嫌だった。
『今から、二人追加します』
真木が言う。
「ここへですか」
『ええ。顔だけです』
画面が二つ増える。
榊。葛西。
葛西は、最初から表情が硬かった。
榊は相変わらず短く、何も言わずこちらを見る。
「見たものを話せ」
榊が言う。
ハザマは、さっき見たものをできるだけ短く話した。
正規処理と違法侵入が、名前を変えた同一実装に近かったこと。
現実世界の気象・感染・物流・資源配分の補助が、同じ干渉窓を通っていたこと。
そして管理局とアナーキーが、下層では完全に切れていないこと。
葛西は途中で一度も口を挟まなかった。
全部聞いてから言う気らしい。
「確認する」
話が終わったあと、葛西が言う。
「異世界群は、現実世界の意思決定を支える観測インフラだ。地球は主観測系。干渉窓は、その観測補助に使われてきた。そこまではいいな」
「はい」
「そしてアナーキー・コードは、その窓を流用して、夢や創作や既視感を増幅し、現実側の認識そのものを汚している」
「ええ」
「なら優先順位は明確だ」
葛西は言った。
「アナーキーを切る。汚染経路を閉じる。正規の観測補助系は維持する。現実世界の判断補助を止めるわけにはいかない」
予想通りの答えだった。
だが、今はその答えが前ほどまっすぐには見えない。
「できません」
ハザマは言う。
葛西の眉がわずかに動いた。
「理由は」
「切れていないからです」
ハザマは答えた。
「アナーキーの侵入系だけを落としても、同じ接続点が残る。名前を変えれば、また別の正規処理として触れることができる」
「正規処理は違法侵入ではない」
「形式の話ではありません」
葛西が言い返す前に、真木が口を挟んだ。
『管理局は、異世界群を使って現実の未来を読む』
真木は言う。
『そのために干渉窓を作った。自然漏れを拾って、人間が読める形に直して、予測に使う。そこまでは管理の理屈としてわかる』
画面に簡単な図が出る。
異世界群。干渉窓。現実世界の補助出力。
『でも、その窓に“触る権限”がぶら下がった』
真木は続けた。
『役職補正、参照切断、終了処理。管理局はそれを正規処理として使ってきた。アナーキーは同じ窓口を使って、侵入付与や人格再配置に使った。違うのは目的と名札だけです』
「名札ではない」
葛西が低く言う。
「現実側の死者を減らすための処理と、世界線を壊すための侵入を同列にするな」
『同列とは言ってません』
真木は言った。
『でも、どっちも“下の人格に上から触ってる”って話はしてます』
沈黙が落ちた。
窓の外で、遠くのビジョンが切り替わる。
ガラスに映ったその光の中に、一瞬だけ塔が混ざった。
ハザマは、その塔を見たまま言う。
「管理局は、現実世界のために異世界群を使ってきた」
自分の声が、少しだけ遠かった。
「それはわかっています。だから簡単に壊せないのもわかる」
「なら話は終わりだ」
葛西が言う。
「終わりません」
言ったあとで、部屋が少しだけ静かになった。
葛西より先に、榊がこちらを見た。
「続けろ」
榊が言う。
「現実世界の被害を減らすために、下の世界の人格へ触る」
ハザマは言う。
「それを正規処理と呼んで続けるなら、アナーキーの侵入と、根のところで何が違うのかが、もう名前でしか説明できません」
「違う」
葛西が言う。
「こちらは現実側を守るためだ」
「向こうもそう言います」
ハザマは答えた。
「管理から外れた未来を守るためだと」
その瞬間、部屋の照明が一度だけ暗くなった。
端末画面にノイズが走る。
榊の映像が乱れ、葛西の顔が薄くなる。
画面の真ん中に、白い朝の色だけが残った。海は見えない。塔だけがある。
そして、声。
「いいね」
軽い。
少し楽しそうで、それでいて底が冷たい。
「ようやく、その話になった」
ノイズの向こうに、輪郭が立つ。
顔ははっきりしない。肩の線も曖昧だ。ただ、ただの音声ではない。こっちを見ている気配だけは前よりずっと近い。
葛西が低く言う。
「またお前か」
相手は答えず、ハザマのほうを見る。
「見えたでしょう」
やわらかく言った。
「君たちの“正規”と、こっちの“違法”が、同じ鍵穴だったって」
ハザマは黙っていた。
「観測は支配の下書きだよ」
相手は続ける。
「君たちは最初、覗くだけのつもりで窓を作った。未来を読むため、現実を守るため、ってね。でも、覗ける窓ってさ、そのうち必ず触る窓になるんだ」
少しだけ笑う気配がした。
「で、今さら困ってる」
真木の声が割り込む。
『混線、深いです。切りますか』
「待ってください」
ハザマは言う。
相手の輪郭が、わずかに揺れる。
「いいね。そこ」
「君、もう管理局の特務官としてはだいぶ壊れてる」
葛西の表情が硬くなる。
「黙れ」
「黙らないよ」
相手はあっさり言った。
「だって事実でしょう。勇者を切って、死なない男を止めきれなくて、悪役令嬢は人格じゃなく読み方を断って、文明を救う預言者まで生かした。君、ずっと“ちゃんと処理する側”から落ち続けてたじゃないか」
その言い方は軽い。
だが、一つ一つが正確だった。
ハザマは初めて口を開く。
「だから、こちらへ来いと?」
相手は少し黙った。
その沈黙が、逆に肯定みたいだった。
「仲間になれ、ってほど安い話じゃない」
やがて言う。
「ただ、もう君は管理局の論理だけじゃ立てない。だったら次は、どっちの側でその窓を見るのか、決めるしかないでしょう」
真木が小さく息を呑む。
葛西は机の端を強く叩いた。
「ふざけるな」
「管理局の特務官に何を言っている」
「特務官?」
相手は少しだけ笑った。
「まだそう見えるんだ。優しいね」
その一言で、葛西の顔色が変わる。
だがハザマは、相手から目を逸らさなかった。
「あなたたちも同じ窓で触っている」
ハザマは言う。
「役職を押しつけ、人格を再配置し、世界線をずらしている。自由のためじゃない。支配の向きを変えているだけです」
相手はまた少し黙る。
「……そこまで来たなら、半分はもうこちら側だよ」
「違います」
「何が」
「管理局に戻れないことと、あなたたちと同じになることは、同じではありません」
輪郭が、今度ははっきりと笑った気がした。
「いいね」
「その答えは好きだ」
軽い声のまま、少しだけ温度が落ちる。
「じゃあ次は、君がどこにも属さないまま、その窓をどうするのか見せてよ」
そこまで言って、相手は少し首を傾ける。
「でも、もう“正規”って言葉だけじゃ戻れないでしょう、ハザマ」
その言い方は、挑発というより確認だった。
ハザマはすぐには答えなかった。
答えなかったこと自体が、ほとんど答えになっていた。
真木の声が硬く入る。
『混線、限界です。切ってください』
輪郭が最後にもう一度だけ言う。
「君を待ってたんだよ」
その一言だけが、妙に静かだった。
次の瞬間、ノイズが走る。
白い朝の色が崩れ、画面は元の映像に戻った。
真木が小さく息を吐く。
『……感じ悪いですね』
「ええ」
『でも、立場はかなり整理できました』
榊が短く言う。
「ハザマ。今夜はもう動くな。地球に残れ」
「はい」
「葛西」
「反対は維持します」
葛西が言う。
「だが、ここまで見た以上、次は私も止め方を変える」
「そうしろ」
映像が一つずつ落ちる。
最後に真木だけが残った。
『次で決めることになります』
真木が言う。
『管理局のために残すのか、アナーキーごと閉じるのか、もっと別の形にするのか』
「ええ」
『戻れなくなるかもしれません』
「もう、そこは過ぎました」
真木は少しだけ笑った。
『ですよね』
回線が切れる。
部屋には、机と椅子と窓だけが残った。
窓の外には、普通の地球の夜。誰も、自分が観測インフラの基準面を歩いている顔はしていない。
この世界は、誰か一人を必要としてはいない。
だがそのことと、誰かが勝手に管理していいことも、壊していいことも、同じではない。
そう思いながら、ハザマは窓の外を見ていた。




