第51話
報告室を出たあと、真木はまっすぐ解析室へ戻らなかった。
廊下を二つ曲がり、保守用の細い通路へ入る。
夜の本部は静かだが、静かすぎる場所にはたいてい、人に聞かせたくない話がある。
「こっちです」
真木が言った。
「表の解析室だと、記録が残りすぎるので」
小さな補助室だった。
端末が二台。壁面投影が一面。紙のカップが一つ。片方の椅子には、誰も座っていないのに少しだけ体温が残っていそうな乱れがあった。
真木は端末を開き、何枚かの図を壁へ出した。
最初に出たのは、地球と無数の系列世界を結ぶ細い線の束だった。
「さっきの話、少し補います」
真木が言う。
「四人いる場だと、どうしても言い切れないところがあるので」
ハザマは黙って頷いた。
「まず前提です」
真木は図の中心を指した。
「異世界群は、管理局にとって観測資産です。現実世界の政策、経済、気象、感染症、人口動態。そういう意思決定を補正するための、巨大な予測インフラです」
「ええ」
「ただ、向こうで起きたことがそのまま使えるわけじゃない」
真木は続けた。
「生の漏れは、夢とか、怪談とか、妙にリアルな創作みたいな形でしか来ない。断片のままだと、現実の意思決定には使えません」
壁面の図が切り替わる。
夢。予感。デジャヴ。創作断片。
それらが一度、細い窓へ集められている。
「だから干渉窓を作った」
ハザマが言う。
「そうです」
真木は頷いた。
「拾う。分ける。似たものを寄せる。人間が読める形へ整える。最初はそこまでだったはずです」
「最初は」
「はい」
真木は少しだけ嫌そうに笑った。
「だいたい、窓ってそうなんですよ。覗くために作ると、そのうち手を入れたくなる」
次の図では、窓の先に別の線が増えていた。
案件識別。汚染判定。参照切断。役職補正。削除処理補助。
「観測と処理が、同じ線の上に乗った」
ハザマが言う。
「乗りました」
真木は言った。
「向こうの世界で何かを“見る”ために作った窓が、そのまま“触る”窓にもなった。管理局は正規処理のために。アナーキーは違法侵入のために」
そこで真木は少しだけ間を置いた。
「要するに」
彼は言う。
「今の問題は、アナーキーが勝手に入ってきたことだけじゃないんです。そもそも、入って触れる窓が最初からあった」
補助室の空気が少しだけ重くなる。
ハザマは壁の図を見ていた。
ここまで来ると、処理と侵入の境目は、善悪ではなく申請様式の違いに見えてくる。
「さらに深い運用層に入るには?」
ハザマが訊く。
真木は端末を切り替えた。
三つの項目が出る。
正規認証
地球側の窓接点
残留照合
「この三つです」
真木が言う。
「正規認証は本部側にある。地球側の窓接点は、あなたが見つけた地下キャッシュ。で、最後の残留照合だけが、普通は足りない」
「私にはある」
「あります」
真木はあっさり言った。
「正直、あんまり嬉しくない形で」
ハザマは小さく息を吐いた。
「つまり、私を鍵にする」
「たぶん」
真木は言う。
「あなたの残留は、ただの汚れじゃない。窓の向こうに、まだ“お前を知っている何か”がある形です。そこが通行条件になる可能性が高い」
その言い方は軽くなかった。
だが、事務的すぎもしなかった。
「それは、職員一人を汚染のまま鍵に使うということになりますね」
補助室の入口から、葛西の声がした。
振り向く。
扉は半分開いていて、葛西がそこに立っていた。入ってくる足音を、二人とも聞き逃していたらしい。
「盗み聞きの趣味があったんですか」
真木が言う。
「管理上必要な確認だ」
葛西は入ってきた。
「今の話を、そのまま進める気か」
真木は答えず、端末を閉じなかった。
消していない、という態度だった。
「進めるも何も」
真木が言う。
「そこへ行かないと、この話の本体に届かないでしょう」
「届いた結果、何を失う」
葛西が言う。
「干渉窓のさらに下にある運用層に、正規処理権限が接続しているなら、そこを壊せば現実世界の観測精度も落ちる。異世界群は遊びじゃない。地球側の意思決定を支えているインフラだ」
「わかっています」
ハザマが言う。
「本当に?」
葛西は視線を向けた。
「気象予測が遅れれば避難が遅れる。感染予測が鈍れば医療が遅れる。資源配分が鈍れば現実側で死人が出る。その代償を、あなたは“向こうの人格に触れたくないから”で支払わせるのか」
言い方は冷たい。
だが内容そのものは冷たくなかった。
現実側で実際に困る人間がいる、という話だからだ。
ハザマは少しだけ黙った。
その沈黙のあいだに、真木が口を挟んだ。
「だから嫌なんですよ」
真木が言う。
「アナーキーだけなら、まだわかりやすかった。こっちは現実を守る、向こうは壊す、で済んだ。でも今は、現実を守るために下の世界へ触る窓と、現実を壊すために下の世界へ触る窓が、同じ干渉窓にぶら下がってる」
「同じではない」
葛西が言う。
「同じです」
真木は返した。
「目的は違う。申請も違う。でも“他人の人生に外から触れる”って一点では、かなり近い」
葛西の眉がわずかに動く。
「それを認めれば、管理局の正規処理そのものが否定される」
「されるかもしれませんね」
真木は言った。
「だから最悪なんです」
そこで扉がもう一度開いた。
榊だった。入ってくるなり、室内の空気を一度で読んだ顔をする。
「続けろ」
榊は言った。
「止めるなら私が止める」
葛西は不満を隠さない。
だが、榊がいる以上、ここで怒鳴っても意味がないとわかっている。
「確認したいことがあります」
榊はハザマを見る。
「はい」
「お前は今、アナーキーだけの違法侵入を止める話をしていないな」
問いは平らだった。
でも、その下にあるものは平らではない。
ハザマはすぐには答えなかった。
「……そうです」
やがて言った。
「たぶん、もうそこだけでは済みません」
補助室が少しだけ静かになる。
「どこまで行く」
榊が訊く。
「まだ決めていません」
ハザマは答えた。
「ただ、干渉窓のさらに下にある運用層が、正規処理と違法侵入の両方を支えているなら、そこを見ずに判断はできません」
「見た結果、正規処理のほうも切るべきだと出たらどうする」
葛西が言う。
その問いは、まだ少し早い。
だが、早いからこそ鋭かった。
ハザマは返答を急がなかった。
壁の図を見る。
地球。
異世界群。
干渉窓。
その下に伸びる細い線。
「わかりません」
ハザマは言った。
「今はまだ」
葛西は小さく息を吐いた。
失望でも、軽蔑でもない。足場の悪さを確認した人間の息だった。
「なら、なおさら進めるべきじゃない」
「でも見なければ、もっとわからないままです」
ハザマが言う。
「それはそうです」
榊が短く言った。
葛西が振り向く。
榊は続ける。
「現実の損失を考えれば、干渉窓の正規利用を簡単には捨てられない。そこは私も同じだ」
榊は言う。
「だが、アナーキーの汚染だけを除去して元に戻れる段階かと言えば、もう違う」
「……」
「正規処理と違法侵入が、どこで接続してしまうのか。そこを見ないと、守るべきものも決められない」
それは、許可ではない。
だが足を止める命令でもなかった。
真木が端末をもう一度開いた。
「運用層に触る条件、もう少し絞れてます」
壁に出たのは、地球側地下キャッシュの断片と、ハザマの残留照合ログだった。
「正式な通行鍵だけだと深いところまでは届きません」
真木が言う。
「向こう側から見て“まだ消えていないもの”が必要です。だから、ハザマさんの残留が鍵になる可能性が高い」
「本人が行くしかない」
榊が言う。
「そうなります」
「却下だ」
葛西が言う。
「汚染された職員を鍵にして、正規処理の下層へ降ろすなど論外だ」
「じゃあ別の鍵、ありますか」
真木が訊く。
葛西は答えなかった。
ないのだろう。
「現実側のインフラを守りたいなら」
真木は少しだけ口調を落とした。
「どのみち、干渉窓の下で何が起きてるか見ないと無理です。アナーキーはそこを使ってる。管理局も昔から手をかけてる。蓋だけ閉めても、下で繋がってたら終わりですよ」
榊が言う。
「今日はここで止める。次は準備だ」
「準備」
ハザマが繰り返す。
「そうだ」
榊は言う。
「お前が降りる前提で考える。ただし正式な任務にはしない。手続きを通せば、途中で邪魔が入る」
「責任は」
「私が持つ」
榊は短く言った。
「表向きはな」
葛西が冷たい視線を向ける。
「その判断も記録に残します」
「残せ」
そのやりとりは、前より少しだけはっきりしていた。
補助室を出るとき、真木が後ろから声をかけた。
「ハザマさん」
「はい」
「嫌な話ですけど」
真木は言う。
「たぶん次で、管理局が何を守ってきたかと、何を踏んできたか、両方見えると思います」
「そうでしょうね」
「そこまで見たら、もう“ただ案件を処理する側”には戻れなくなるかもしれません」
ハザマは少しだけ考えた。
それから言う。
「もう、だいぶ戻りにくいです」
真木が小さく笑った。
「ですよね」
本部の白い廊下を歩く。
ここはまだ、何も残さない顔をしている。
だがその下では、現実世界の意思決定と、異世界の人生と、干渉窓と、そのさらに下の運用層が、もう一つの話として繋がっている。
その先で、誰がどこまで触っていいのかという問いを、もう少し具体的な形で見なければならない。




