第47話
地球側観測区画は、本部より少しだけ雑だった。
壁は白い。机もある。端末もある。
だが本部みたいに、何も残さないための整い方はしていない。人が長く座る前提の椅子で、飲みかけの紙カップが隅に寄せられていて、窓際には小さな観葉植物まで置いてあった。
主観測系の近くほど、こういうものが増えるのかもしれないと、ハザマは思った。
机の上には、地球側観測の一次資料が三つ並んでいた。
一つ目は、個人ブログの夢日記。
知らない街なのに、帰り道だけ知っている夢を何度も見る、と書いてある。
同じような記述が、別名義の投稿に七件あった。場所はばらばら。年齢も職業も揃っていない。
二つ目は、投稿小説の抜粋。
舞台は架空都市。だが地図の線が、管理局側で拾っている別系列都市の湾岸区画と妙に近い。作者は「夢で何度も見たので書いた」と書いている。
三つ目は、小学校の自由帳のコピーだった。
子どもが描いた街路図。色鉛筆の線は拙い。けれど、中央広場から伸びる通りの角度が、やはり管理局側の未公開観測図とずれていない。
偶然では片づけにくい。
だが、まだ証拠としては弱い。
嫌なのは、そういう段階だった。
ハザマは資料を閉じ、窓の外を見た。
地球の朝だった。普通のビルが並び、信号が変わり、人が歩いている。誰も、自分が主観測系の上にいる顔はしていない。
今日は現地を見る日だ。
地球側での身分は、文化観測の調査補助員になっていた。
便利だが、どうとでも見える肩書きだ。主観測系の近くでは、はっきりしすぎた身分のほうがむしろ浮くのだろう。
街へ出る。
空は曇っていなかった。
風も強くない。季節の変わり目らしい、少しだけ乾いた匂いがした。地上を歩く人は皆、自分の予定の中にいる。会社へ向かう者。学校へ向かう者。配送の車。コンビニ前で立ち話をする二人組。
危険なものは、まだ見えない。
駅前の書店に入る。
小説の棚の隅に、個人出版の小さな同人誌が何冊か並んでいた。その一冊に、目が止まる。
『帰れない街の歩き方』
タイトルだけなら珍しくない。
だがページを開くと、中には妙に具体的なことが書いてあった。
赤い信号がない交差点。
風だけで鳴る塔。
港の匂いがするのに海が見えない朝。
知らない街なのに、帰り道だけ知っている感じ。
ハザマは数ページ読んで閉じた。
地球の創作として読めば、それだけの文章だ。だが少し前までアデルのいた街や、もっと前に見た別系列の断片が、微かに混ざっている。
店員に訊く。
「これは、売れていますか」
二十代くらいの女店員が棚を見る。
「ああ、それですか。そんなに数は出てないですけど、最近こういうの多いですね」
「こういうの」
「夢で見た街の話です」
女は言った。
「うち、投稿コーナーあるんですけど、ここ一か月くらい、知らない場所なのに懐かしいってやつ、急に増えました」
「流行ですか」
「どうなんでしょう」
女は少し笑う。
「誰かの真似って感じでもないんですよね。みんな細部が妙に違うのに、気持ち悪いくらい似てるというか」
似てる。
その言葉が今は重い。
店を出る。
昼前のカフェに入った。注文カウンターの横で、大学生くらいの男が友人に話している。
「だから、駅は知らないんだって。駅名も見たことない。なのに、改札抜けたあとだけわかるんだよ。右行って、細い道抜けて、川沿い行くと帰れる感じがあるの」
友人が笑う。
「またその夢?」
「夢っていうか、もう二回見た」
別の席では、ノートパソコンを開いた女が何かを書いている。
画面の端に、タイトルだけが見えた。
午前三時十七分の既視感
ハザマはコーヒーを一口飲んだ。
地球の飲み物は、管理局のものより少し苦い。少なくとも、そう感じた。
真木から短い連絡が入る。
観測群追加。
同一語句の局地集中あり。
“帰り道だけ知っている”
“まだ起きていないのに間に合わなかった感じ”
この二つが増えてます。
ハザマは画面を閉じた。
アデルの言葉が少しだけ頭をよぎる。
間に合わないものを見る。
午後、夢記録の集まりがある小さな貸し部屋へ向かった。
地球側ではこういうものは、たいした秘密でもないらしい。怪談会、夢の共有会、創作相談会。名前は違っても、中身は近い。
会場は雑居ビルの三階だった。
畳敷きの部屋に、十人ほどが座っている。年齢はばらばらだ。高校生くらいの女の子、会社員、主婦、老人、スーツ姿の男。司会らしい女が穏やかに言う。
「今日は“知らない場所なのに、なぜか帰り方だけわかる夢”がテーマです」
部屋の空気が少しだけ変わった。
恥ずかしい話をする前のためらいと、でも自分だけじゃないと知って少し安心した感じが混ざっている。
一人目の男が話す。
「海の匂いがするんですけど、海は見えないんです。あと塔がある。音だけする」
二人目の女が言う。
「私は病院みたいな場所です。でも病院じゃなくて、なんか、もっと大きい施設で……誰かが順番を変えれば助かった感じだけ残ってる」
三人目の高校生が小さく言う。
「私は駅の夢です。電車じゃなくて、もっと長い箱が通るんですけど、誰かが“先に通して”って言ってて……それで、一回だけパンって音がして」
ハザマはそこで顔を上げた。
停戦線。
誤射。
補給便。
ここにいるはずのない断片が、地球側の夢の中に混じっている。
司会の女が気まずそうに笑う。
「最近、ちょっと怖い話に寄りますよね」
「でも、全部怖いわけじゃないんです」
主婦らしい女が言った。
「嫌なんですけど、懐かしいっていうか。自分に関係ある気がする」
「関係ないはずなのに」
スーツ姿の男が続ける。
「知ってる感じだけあるんですよね」
知ってる感じだけある。
ハザマは、その言い方がいちばん危ないと思った。
知らないものが漏れてくるだけなら、まだ外から来た異物だ。
だが「自分に関係ある」と感じ始めると、そこで受信は意味に変わる。
意味になったものは、残る。
残ったものは、地球側の現実のほうを少しずつ動かし始める。
会が終わったあと、司会の女に少し話を聞いた。
「増えていますか」
「増えてますね」
女は畳を片づけながら言った。
「前は、たまに変な夢を見る人が来るくらいだったんです。でも最近は、似たような夢を見た人が、別々に来る」
「流行ではなく」
「流行なら、もう少し雑に似ますよ」
女は苦笑した。
「これは、なんというか……同じ場所を、違う入口から見たみたいな感じなんです」
帰り道、駅前の大型ビジョンが突然一瞬だけ乱れた。
広告そのものはすぐ戻る。誰も足を止めない。
だがその乱れた一秒のあいだ、画面の端に、塔のようなものが映った気がした。
見間違いかもしれない。
それくらいの短さだった。
ただ、その直後、信号待ちをしていた中年の男が小さく言った。
「あ、またあの塔だ」
隣にいた若い女が振り向く。
「見えました?」
「一瞬だけ」
「私もです」
そこにいたのは、それだけの会話だった。
だが、それで十分すぎた。
部屋へ戻るころには、空は暗くなっていた。
机の上の端末に、真木から追加の資料が届いている。
創作断片と夢断片の一致率、さらに上昇。
地球側で意味づけされた記述が、逆に観測モデルへ影響している可能性あり。
受信だけではなく、返りが始まっています。
返り。
その言葉が嫌だった。
ハザマは窓の外を見る。
地球はいつも通りの顔をしている。車が走り、部屋に灯りがつき、誰かが帰っていく。
だがその下で、知らない街の帰り道だけを知っている人間が増えている。
ここはもう、外側ではない。
異世界の断片が地球へ漏れているだけではない。
地球がそれを読んで、意味づけて、どこかへ返し始めている。
案件の外では済まない。
管理局の資料室で読んで終わる話でもない。
アデルが言った。
あなたの後ろにも、もっと大きくて嫌な枝がある。
その言葉が、今日は少しだけ、地球のほうから聞こえた気がした。




