第46話
本部へ戻ったあとも、アデルの声だけが少し遅れて残った。
怒鳴り声というより、裂けた声だった。
遠い火が見えなくなることを恐れる、人間の声だった。
自動扉が閉まる。
均一な照明。磨かれた床。何も残さないための場所。
そのはずなのに、今日は少しだけ、足音が響きすぎる気がした。
第三報告室には、もう榊と葛西がいた。
真木は壁際の端末を開いていて、机の上には紙のカップが二つ並んでいる。片方は空で、もう片方はまだ熱があるらしく、口から薄く湯気が立っていた。
「戻りました」
榊が頷く。
「座れ」
ハザマは席に着いた。
葛西は腕を組んだまま、こちらの顔を一度だけ見た。
「文明水準異常加速案件、事後報告」
榊が言う。
「対象アデル・クレイン。人格削除は行わず、接続のみ切断。文明の急崩壊はなし。予測不確実性は上昇。ここまでは報告書で見た。現場感を聞く」
「接続の切断は妥当でした」
ハザマは言った。
「人格を消すより損傷は小さい。ただし、即時の救済能力は失われています」
「失われるのは当然だろう」
葛西が言う。
「そこに同情を入れるなら、最初から処理などできない」
「同情ではありません」
ハザマは答えた。
「事実です。彼は現地の町をうまく回していたのではなく、広域の災厄枝を先に折っていました。停戦線の誤射から局地戦へ燃える枝も、その一つです」
葛西は表情を変えなかった。
だが真木だけが、少しだけこちらを見る。
「その上で切った」
榊が確認する。
「はい」
「後悔は」
「あります」
ハザマは言った。
「ですが、判断自体は変えません」
短い沈黙があった。
榊は否定もしなかった。
葛西は机の上の端末を一度だけ叩き、画面を閉じる。
「私は反対記録を残します」
葛西は言う。
「人格削除を避け、接続切断で済ませる判断が続けば、いずれ現場官の情緒が制度を侵食する」
「残してください」
ハザマは言った。
「必要だと思います」
葛西は、その返答だけは少し意外そうに聞いた。
だが何も返さない。
榊が真木へ視線を向ける。
「解析を」
「はい」
壁面に資料が開く。
最初に出たのは、アデル案件の観測図ではなかった。
もっと古いログだ。村の広場。産業都市の朝帯。侯爵令嬢の学園。停戦線沿いの広域調整。
ユウト。
レオン。
エリシア。
アデル。
「並べると、ようやく見えます」
真木が言った。
「今まで個別案件として扱ってきましたが、これらはたぶん、別々の事故ではありません」
画面の右側に、短い整理語が並ぶ。
ユウト=物語役職の強制付与型
レオン=保持・再起動・局所リプレイ型
エリシア=物語認識型侵入
アデル=文明解法型侵入
「全部、方向が違う」
榊が言う。
「違います」
真木は頷く。
「だからこそ、単純な転生実験ではない。アナーキー・コードの派生系統が、何通りかの“効率のいい汚し方”を試していると見たほうが自然です」
葛西が眉をわずかに寄せる。
「効率のいい汚し方」
「ええ」
真木は言う。
「派手に壊せば、検出も早い。勇者に無敵の力を与える、世界を一夜で吹き飛ばす、その手の雑な侵入は、むしろ管理しやすい。今回の系統は逆です。少ない介入で、歓迎される形で、長く深く進路をずらす」
壁面の資料が切り替わる。
ユウト案件の村の存続率変動。
レオン案件で生じた朝帯共有の波及可能性。
エリシア案件における人間関係再編の偏り。
アデル案件における医療、物流、停戦、補給の進路変化。
「全部、壊しているようには見えません」
真木は続ける。
「むしろ良くなっている。助かっている。うまく回っている。だから切る側が悪に見える。そこまで含めて実験でしょう」
「目的は」
榊が訊く。
「世界の即時崩壊ではありません」
真木が言った。
「管理局の予測精度を腐らせることです。その世界が自分で選んだように見える形で進路をずらし、あとから予測全体を汚す。アナーキー・コードは、最近そこに寄っている」
ハザマは壁面を見ていた。
アデルは停戦線の誤射を止めた。
エリシアは破滅を避けようとして、人間関係を変えた。
ユウトは勇者として人を救った。
どれも、その場だけ見れば善にも見える。
「強い個を送り込んで壊すのではなく」
ハザマが言う。
「世界が自分で進んだように見せかけて、あとから歪みだけ残す」
「そうです」
真木が答える。
「しかも今の段階だと、対象は異世界だけじゃない」
部屋の空気が少しだけ変わる。
真木が次の資料を開く。
今度は地球側だった。
小説投稿サイトの断片。
匿名掲示板の怪談。
地方紙の小さな投書。
夢日記のまとめ。
まだ起きていない事故を思わせる短いメモ。
似たような場面を、違う場所の人間が同時に見ている記録。
「増えています」
真木が言う。
「自然漏れそのものは前からある。でも、ここ数期で急に密度が変わった。創作、夢、デジャヴ、予言めいた断片、怪談。全部に異世界側の人生や未来枝が混ざり始めている」
「自然漏れの増加では説明がつかない?」
榊。
「つきません」
真木は言った。
「今は“似る”じゃない。噛み合いすぎる。まだ起きていない事故に先回りした認識があり、その認識がまた観測側へ逆流している」
「逆流」
葛西が低く繰り返す。
「地球側が受信して終わりじゃないんです」
真木は資料を拡大した。
「意味づけされる。語られる。読まれる。そうすると今度は、その認識自体が向こうへ返る。予測モデルのズレが増えてるのは、そのせいだと見ています」
壁面に、二つの線が映る。
一つはシミュレーション世界から地球への漏れ。
もう一つは、地球の認識からシミュレーション側への薄い返り。
ハザマは、その形を見ていた。
地球は外ではない。
読む側であり、同時に読まれる側でもある。
「つまり」
榊が言う。
「アナーキーは、異世界だけでなく主観測系そのものを汚し始めている」
「はい」
真木が答える。
「今までは案件処理で済んだ。でももう、その段階じゃない」
葛西が口を開く。
「地球側への観測権を広げるべきです。自然漏れの記録、創作断片、夢群、都市伝説群、全部まとめて再格上げしたほうがいい」
「観測だけで済むと思いますか」
榊がハザマを見る。
問いではある。
だが答えは、もう半分決まっている種類の問いだった。
ハザマは少しだけ視線を落とす。
アデルが最後に言った。
あなたの後ろにも、もっと大きくて嫌な枝がある。
あの言葉が、妙に地球側資料の上へ重なった。
「済まないと思います」
ハザマは言った。
「自然漏れが増えた、で終わる段階は過ぎています。原因を見に行くべきです」
「地球へ出るのか」
葛西が言う。
「はい」
「調査名目で」
「ええ」
「思っている以上に、ハイリスクだぞ」
その言葉に、ハザマは答えなかった。
リスクという言葉が、今は少し遠い。
真木が新しい資料を一つだけ壁面に出す。
短いテキストだった。地球側の創作断片らしい。
知らない街なのに、帰り道だけ知っている夢を見た。
目が覚めたあと、その街がどこにもないのがいちばん気持ち悪かった。
誰が書いたかも、大したことではない。
重要なのは、こういうものが今、増えていることだ。
「主観測系である以上、地球側の認識は基盤です」
真木が言った。
「そこを汚されたら、予測も案件処理も全部遅れます。たぶん、相手はそこまで来てる」
榊は少しだけ考えた。
そして言う。
「ハザマ」
「はい」
「地球側観測へ出ろ。原因を見つけろ。今回は案件一件じゃない。本丸の匂いがする」
「了解しました」
葛西は何も言わなかった。
だがその沈黙は、承認ではなかった。止められないと判断した沈黙だった。
会議が終わり、人が立ち上がる。
真木が机の上のまだ温いカップを一つ押してきた。
「持っていきますか」
「いえ」
「でしょうね」
真木は少しだけ笑う。
「でも、たぶん向こうでも冷める暇はないです」
報告室を出る。
廊下の照明は変わらない。
本部は、いつも通り何も残さない場所の顔をしていた。
だが今、残っているのはアデルの泣き声だけではない。
地球側の妙に現実と噛み合いすぎる断片。
まだ起きていないはずの出来事を、先に読んでしまう認識。
そして、その向こうにいるはずのアナーキー・コード。
次は案件処理では済まない。
地球、つまり主観測系そのものへ近づく。
そう考えたとき、胸の奥で何かが小さく沈んだ。
それが恐れかどうかは、まだよくわからなかった。




