第45話
夜の南庁舎は、昼より広く見えた。
人が減ったぶん、廊下の奥行きがそのまま出る。
灯りは落とされ、足音だけがよく響く。昼のあいだ何度も開いた扉も、今はほとんど閉じたままだ。
ハザマは、庁舎のいちばん奥にある小さな調整室の前で止まった。
中に灯りがある。
扉は少しだけ開いていた。
覗くつもりはなかったが、目に入ってしまった。
机の上には、街ひとつ分では済まない地図が広がっていた。
南区や北区だけではない。停戦線の外側、北東の沿岸、観測堤、補給港、山側の送電路、避難所の位置、潮位計の並び、監視塔の交代時刻。細い紙片が何本も置かれ、いくつかの線が赤鉛筆で引かれている。
アデルは、その前に一人で座っていた。
昼に見たときより、さらに顔色が悪い。
左手で額を押さえ、右手で紙に短い文字を書き足している。書いては止まり、止まっては別の紙を引き寄せる。そのたびに、何かを思い出すような、思い出せなくなるのを恐れるような間があった。
「まだ起きていたんですね」
ハザマが声をかけると、アデルはびくりと肩を揺らした。
振り向くまでに一拍あった。
「ええ」
彼は言った。
「今日は、あまり早く寝る気になれなくて」
机の上の紙を、隠しはしなかった。
隠しても仕方がないと知っている人間の動きだった。
「かなり先まで見ていますね」
ハザマが言う。
「先、というほどでも」
アデルは紙の端を揃えた。
「二日先です。三日目はもう、形が崩れます」
ハザマは机に近づいた。
北東沿岸の観測堤。
潮位計更新、明夜。
停戦線の補給艇、未明通過。
監視灯交換、予定遅れ。
その横に小さく、重なると嫌 と書いてある。
「これは」
「北東の観測堤です」
アデルは紙に目を落としたまま答えた。
「明日の夜、潮位計の更新があります。その数時間後に、停戦線沿いを北側の補給艇が通る。そこまでは通常です」
「その先が悪い」
「ええ」
彼は頷いた。
「監視灯の交換が、まだ終わっていない。暗い堤に補給艇の灯が重なると、見張りが一度だけ誤認しやすい。誤認だけなら、まだ持つかもしれません」
「まだ、ですか」
「誤認のあとに、潮位の再計測が遅れる」
アデルは言った。
「再計測が遅れると、下流の水門を閉める時刻が少しずれる。ずれたまま夜明けを迎えると、避難所の仮設電源が先に湿気を食います。そこへ補給停滞が重なると、今度は停戦線の話では済まない」
机の上の線が、一気につながる。
誤射。
補給停滞。
水門遅延。
避難所停電。
そのすべてが、今はまだ起きていない。
「防げるんですか」
「たぶん」
アデルは答えた。
「観測堤の灯だけ今夜中に替えれば、かなり違う。補給艇の窓を四十分ずらせれば、さらに違う」
「もう手は打っているんですね」
「半分だけ」
彼は苦く笑った。
「今夜、北東へ書面を飛ばすつもりでした。灯の交換は通ると思います。補給艇の窓は、朝までかかるかもしれない」
その言い方は静かだった。
だが、静かすぎた。
やはり、これが失われるのだ。
町の窓口を少し滑らかに回す手際ではない。
まだ火がついていない場所の火種を見つけて、届くうちに手を打つ力 が。
アデルがようやくハザマを見る。
「今日は、その話で来たんでしょう」
ハザマは否定しなかった。
「ええ」
「いつですか」
「今夜です」
短い沈黙があった。
アデルは目を閉じない。
逃げもしない。
ただ、机の上の紙の一枚に指を置いたまま、動かなくなる。
「人格ではないんですよね」
「ええ」
「私の外側だけ」
「そうです」
「それで、二日先が届かなくなる」
「はい」
風が、少しだけ開いた窓を鳴らした。
アデルは笑わなかった。
怒りもしない。
むしろ、そのどちらもまだ来ていない静けさのほうが、ハザマにはつらかった。
「少しだけ待てませんか」
アデルが言った。
「明朝、北東の灯を替える指示を通してからなら」
「待てません」
「補給艇の窓だけでも」
「同じです」
アデルの指先が、紙の上でわずかに震えた。
「同じ、ですか」
彼は繰り返した。
「一度延ばせば、また次が来る」
ハザマは言った。
「明日の北東が終わっても、その次の枝が見える。あなたはそこでも止まれない」
「止まれませんよ」
アデルは顔を上げる。
「見えるのに、どう止まるんです」
まだ怒鳴ってはいなかった。
だが、声の中の張り方が変わっていた。
「今の話は、町の窓口じゃありません」
彼は続けた。
「並ぶ順番でも、謝る順番でもない。停戦線の誤認と避難所の停電です。明日の夜に、まだ火もついていない場所の話をしているんです」
「わかっています」
「なら、どうして」
「その火を、ずっとあなた一人に見させるわけにはいかない」
「見させるわけにはいかない?」
アデルが立ち上がる。椅子の脚が床を擦った。
「見させるわけにはいかないから、奪うんですか」
そこから先は、早かった。
「あなたは見ていないでしょう」
アデルの声が一段高くなる。
「まだ起きていない火は、起きていないから切っていい。そう思えるんでしょう。届かなかった火は、あとで数に戻る。表の上に戻る。必要な損傷になる」
「そうは言っていません」
「言っているのと同じです!」
今度は、はっきり怒鳴った。
小さな部屋の空気が揺れる。
「停戦線が二時間だけ燃えたことがあります」
アデルは言う。
「二時間なら短い、と言う人もいました。でもその二時間で、橋が落ち、搬送が詰まり、病室の灯が切れた。あとで出た数字は、綺麗でしたよ。綺麗に並んだ。何人。何件。何分遅れ。何区画停止。全部、数に戻った」
机の上の紙を、彼は片手で押さえた。
皺が寄る。
「私は、それを戻る前に見てしまうんです」
アデルは喉の奥を鳴らすように言った。
「まだ間に合う形で。まだ届く形で。だから、放っておけない。放っておいたあとで“仕方なかった”と聞くくらいなら、嫌われてもやる。依存されてもやる。痩せさせるとわかっていても、やるしかないんですよ」
ハザマは動かなかった。
動けなかった。
「明日の夜もそうです」
アデルは続ける。
「観測堤の灯を替えれば済むかもしれない。補給艇を四十分ずらせば、何も起きないかもしれない。たったそれだけで、避難所の電源まで守れるかもしれない」
そこで声が少し崩れた。
「なのに、今ここで切るんですか」
「切ります」
答えた瞬間、アデルの顔から色が抜けた。
「……そうですか」
その一言が、逆に危なかった。
もう怒りを通り過ぎて、別のところへ落ち始めている。
アデルは一歩、二歩と後ろへ下がる。
机の端に腰がぶつかり、それでも構わず立ったままだ。
「あなたの後ろにも、火種があります」
彼は唐突に言った。
「静かじゃない。町ひとつじゃない。停戦線でもない。もっと大きい」
ハザマの胸の奥で、何かがわずかに硬くなる。
「気をつけたほうがいい」
アデルは息を継いだ。
「あなたは次で、間に合わないものを見る。たぶん私より多い。なのに今、ここで私から遠い火を見る手を奪う」
それは予言というより、呪いに近かった。
だが呪っているのは相手ではなく、見えてしまうことそのものに思えた。
「私は」
アデルの声が途切れる。
「私は、また聞くことになるんです。あとで。何人。何件。何分遅れ。そうやって、まだ届いたはずのものが数に戻る音を」
そこまで言って、彼はついに耐えきれなくなった。
「嫌なんです!」
叫びは、怒りだけではなかった。
恐怖だった。
もうすぐ見えなくなることへの、むき出しの恐怖だ。
「また見送るのが!」
アデルは机に手をつく。
「近い火だけじゃない。遠い火もです。明日の夜かもしれない、明後日の朝かもしれない、その手前で届いたかもしれないものを、もう選べないのが嫌なんですよ!」
呼吸が崩れる。
声も、もう整わない。
「あなたは切れるんでしょう」
彼は顔を歪めたまま言った。
「線を引ける。必要だって言える。じゃあ私の代わりに、明日の北東も見てくださいよ。停戦線の先も、避難所の先も、あなたの次の場所も。全部見て、それでも切るなら、まだ……」
そこで言葉が止まる。
全部見て、それでも切るなら。
その先に続くはずだった言葉は、もう出てこなかった。
ハザマは、端末を取り出した。
真木から送られてきた切断窓は、今この瞬間しかなかった。
逃せば、また別の枝が伸びる。
わかっている。
それでも、指が一瞬だけ遅れる。
アデルの荒い呼吸。
机の上の北東沿岸の地図。
まだ届くかもしれない火。
自分の後ろにあるという、静かではないもの。
全部が、同時にそこにあった。
端末が二度目の通知を鳴らす。
窓が閉じる。
ハザマは認証片を重ねた。
青い光が一度だけ、机の端をなぞる。
それで終わりだった。
何かが壊れる音はしない。
空が割れることもない。
ただ、部屋の中にあった薄い張りつめ方だけが、急に消えた。
アデルが、息を止めた。
目の焦点が遠くへ行き、それから戻らないまま揺れる。
何かを掴もうとして掴めない人間の顔だった。
「……あ」
短い音が漏れる。
それは、怒りでも否定でもなかった。
もっと裸の、喪失の音だった。
「北東の灯が」
アデルは呟く。
「……位置が、さっきまで」
言葉が続かない。
彼はその場に膝をつき、両手で顔を覆った。
泣き声を堪えようとして、堪えきれない。肩が小さく震え続ける。
静かな人間が最後まで静かなまま壊れることもある。
だがアデルは違った。
抑えていた恐怖が、怒りも理屈も追い越して、全部そのまま出ていた。
「見えない」
彼は顔を覆ったまま言う。
「……もう、遠いほうが見えない」
その言い方が、ハザマに残った。
近いものではない。
遠いほうだ。
やがてアデルは、泣きながらも、机の端に手を伸ばした。
北東沿岸の紙を引き寄せる。指が少し震えている。
「灯の交換だけでも」
彼は声を崩したまま言う。
「今夜中に。補給艇は……四十分、いや三十分でもずらせば……」
それは奇跡の正答ではない。
もう、そうではない。
経験と勘と、まだ残っている地形の読みから出た、人間の推測だった。
ハザマは紙を押さえた。
「書いてください」
アデルは一度だけこちらを見る。
泣いて赤くなった目で。
「私は、あなたを許しません」
「はい」
「でも」
彼は紙に目を落とした。
「わかってしまうのが、一番腹が立つ」
細い鉛筆の音が、部屋に戻る。
灯交換。補給艇遅延。監視灯手順変更。
今できるだけの、普通の人間の対策だ。
翌朝、南庁舎の掲示板から
事前提言反映済み
の一文が消えていた。
代わりに、少し乱れた文字でこう書き足されていた。
北東観測堤 灯交換優先
補給艇通行窓 三〇分後ろ倒し
各窓口責任者、仮決めのうえ午後再確認
前より遅い。
前より粗い。
前より、揉めるだろう。
それでも人は並んでいた。
自分の順番を、自分の言葉で確かめるために。
北東沿岸では、夜のあいだに監視灯が交換され、補給艇の通行も少しだけ遅れたらしい。
大きな火は、今のところついていない。
だがそれがアデルのいた昨日と同じ精度で防がれたのかは、もうわからない。
庁舎の奥で、アデルは机に向かっていた。
昨日までのように、街の向こうの枝を置いてはいない。
ただ、目の前の書類に目を通し、ときどき止まり、また自分の頭で考えている。顔は疲れ切っていた。だが、消えてはいなかった。
ハザマは少しだけその姿を見る。
完全な救済ではない。
完全な破壊でもない。
切ったあとに残るものは、今回もあった。
怒鳴り声。泣き声。許さないという言葉。
そして、見えなくなったあとでも考えるしかない、人間の残り方。
それを置いたまま、ハザマは庁舎を離れた。




