第42話
南庁舎の朝は、忙しいわりに静かだった。
廊下を走る足音はある。端末の通知音も鳴る。だが、怒鳴る声はあまりない。昨日も思ったが、この庁舎は人を落ち着かせる順番が、建物の中にまでしみ込んでいるようだった。
アデルは応接室へ戻るなり、机の上に積まれた三つの束を見た。
北側の配水再確認。南棟の保温搬送。港湾冷却網の次期点検。
どれも急ぎに見える。
普通なら、上から順に片づけるか、声の大きいものから触る。
だがアデルは一枚ずつめくって、少しだけ考え、それから束そのものの順を入れ替えた。
「これが先です」
彼は港湾の点検票を上に置いた。
「南棟の搬送は、そのあとで間に合います。配水再確認は昼でもまだ崩れません」
そばにいた若い書記が目を丸くする。
「でも港は、明日でも」
「明日だと遅いです」
アデルは静かに言った。
「今日の午後、東塔の流量が少し上がります。そこで一度見ないと、夜に保冷が落ちる」
「通知は出ていませんが」
「まだ出ていないだけです」
書記は言い返しかけて、やめた。
代わりに点検票を抱えて出ていく。
ハザマはその背中を見送り、アデルに目を戻した。
「皆、すぐ動くんですね」
「外れなかった回数の分だけ、動きます」
アデルは紙の端を揃えながら言った。
「良いこととも、あまり良くないこととも言えます」
次に彼は、配水再確認の束から一枚だけ抜いた。
「これは今、出さないでください」
調停官が受け取る。
「北側への補足文ですか」
「ええ。今日はだめです」
アデルは言った。
「言っていることは正しいんですが、文面が少し硬い。今朝は通りません」
「そこまで見ますか」
「見たくはないんですが」
アデルは苦く笑った。
「通らないものを先に出すと、そのあと面倒なので」
紙を一枚捨てる。
ただそれだけのことなのに、庁舎の中で起こる小さな摩擦が、ひとつ減ったのがわかる気がした。
昼前まで、ハザマはアデルのそばでそれを見ていた。
この会議を先に。
その二人は廊下で会わせないほうがいい。
その案は悪くないが、今日は保留。
その順番だと一人だけ遅れるから、全体が荒れる。
今日の南棟は眠れていない人間が多いから、説明は短いほうがいい。
どれも派手ではない。
奇跡でもない。
だが外れない。
正確というより、嫌な枝だけを先に折っていくという表現がしっくりくる。
昼を少し回ったころ、庁舎の裏口から出た。
南区の居住区へ向かうらしい。途中、アデルは売店で薄いパンを二つ買った。片方をハザマに差し出す。
「食べますか」
「いただきます」
「まずかったらすみません。今日は当たりの日ではないので」
「そういう日もあるんですか」
「ありますよ」
アデルは歩きながら言う。
「食事は、あまり当たりません」
少しだけ力の抜ける冗談だった。
だが疲れた人間が無理に明るくした感じではなく、普段からそうやって息をつないでいるのだとわかる軽さだった。
居住区の入口で、警備端末の前に人が溜まっていた。
今日は再配分の告知日らしい。仮設区画の縮小に合わせて、住戸の割り当てを動かすらしい。
列の前には、若い職員が一人で立っている。顔が強張っていた。
人々の声はまだ荒れていないが、もう少しで荒れる。その直前の薄い熱があった。
アデルは列を見るなり足を止めた。
「この順番、逆ですね」
職員が振り向く。
「え」
「家族単位の告知を先にしたんですか」
「その予定でした。混乱が少ないので」
「今日はだめです」
アデルはすぐに言った。
「単身者を先にしてください。家族単位を先に通すと、後ろが長く残る。残った人たちが、自分だけ切られた感じになります」
「でも説明が増えます」
「増えても、そのほうが短いです」
アデルは列の奥を見る。
「それと、三列目の左端にいる二人は今、同じ窓口へ入れないほうがいい。片方を西の相談卓へ回してください」
職員は戸惑った。
「知り合いなんですか」
「知りません」
アデルは言った。
「でも今日はやめてください」
その言い方には、妙な断定があった。
強い口調ではない。なのに、従わないとまずいと感じさせる何かがあった。
職員が配置を変え、人の流れを組み替える。
列の前半が少し揺れ、ざわめきが起きる。だが荒れはしない。
それから五分もしないうちに、さっき別の窓口へ回された男が、遠くで誰かに怒鳴りかけた。
怒鳴り返したのは、元の列の近くにいた別の男だった。二人のあいだにすぐ警備員が入り、騒ぎはそれだけで終わる。
もし同じ窓口の前でぶつかっていたら、もっと大きくなっていた。
誰にでもわかる。
若い職員が青い顔でアデルを見る。
「……どうして」
「今日は、そういう日だっただけです」
その答えは説明になっていない。
だが説明できるなら、とっくに職員側が自分でやっていたはずでもあった。
少し離れたベンチに腰を下ろす。
居住区の外れは風が通る。空調塔の低い音が、遠くで鳴り続けていた。
「全部は見えないと言っていましたね」
ハザマが言う。
「ええ」
「今のも、その一つですか」
アデルはすぐには答えなかった。
パンの袋を折り畳み、指先で細く丸める。
「順番の悪さは、目につきます」
やがて彼は言った。
「うまくいく形より、崩れる形のほうが先に見えることが多いんです。たぶん、そのせいです」
「便利ですね」
「便利です」
アデルは頷いた。
「それで助かることも多いので」
「ですが」
「ですが、気分はよくないですよ」
彼は空を見る。
「助かる形が見えるというより、不幸の形を先に見せられる感じなので」
その言葉のあとに、少し長い間があった。
ハザマは急がせなかった。
アデルは視線を落とし、靴のつま先に付いた乾いた泥を見ていた。
「昔、一つの橋で失敗しました」
彼はぽつりと言った。
「避難の順番を、間違えたんです」
ハザマは黙って聞く。
「北側の学校を先に出せば、人は助かったかもしれません。ですが、配給車列を残すとその先で飢える区画が出ると思った。だから両方を通そうとした」
アデルは淡々としていた。
「橋の上で詰まりました。車列も、人も」
「……どちらも」
「半分ずつ落としました」
彼は言う。
「近い人間だけ先に行かせることも、できたんです。でもそれをやれば、その外側にいた数を、自分で見送ることになる。たぶん、そこで切ればよかった。切れませんでした」
風が少し強くなり、ベンチ脇の細い旗が鳴った。
「今も、切れないんですか」
「前よりはましです」
アデルは笑おうとして、少し失敗した。
「でも、あまり変わっていません。見えてしまうと、どうしても」
そこで居住区の奥から短い警報が鳴った。
高い音ではなく、抑えた警告音だ。人が一斉に走り出すほどではないが、気づく人は気づく。
アデルが立ち上がる。
「西棟ですね」
「わかるんですか」
「さっきの割り当てで、一つ空いたはずなので」
彼はもう歩き出していた。
「たぶん保冷庫です。行きましょう」
西棟の裏手では、小さな搬送車が止まりかけていた。荷台の警告灯が赤い。冷却装置の一つが落ちたらしい。中には小児用の薬剤箱が積まれている。
職員が二人、どう動かすか迷っていた。
西棟の保冷庫は今、再配分の荷で半分埋まっている。
「荷を全部入れないでください」
アデルがすぐに言う。
「手前の二箱だけ先に。残りは北通路の簡易庫へ回して、ここの住戸割り当てを十分止める」
「でも住戸割り当ての列が」
「列はあとで戻せます。薬は戻りません」
職員が動く。
西棟の入口で待たされていた人々がざわつく。だが、さっき列を荒らしかけた二人はもう別の場所に散っていて、声を大きくする者がいない。十分だけ止めた割り当て窓口の前で、年配の女が「ああ、薬なら先でいい」と言う。隣の男も頷く。
薬剤箱は無事に移された。
西棟の保冷温度はぎりぎりで持ち、簡易庫へ回したぶんも破損は出なかった。
大きな事故ではない。
新聞にも載らないだろう。
だがあの場で手順を一つ誤れば、数人分では済まなかったかもしれない。
アデルは確認が終わると、ようやく息を吐いた。
その顔には達成感より、ひどく小さな安堵だけがあった。
「今のようなことが、毎日あるんですか」
ハザマが訊いた。
「毎日はありません」
アデルは額にかかった髪を払う。
「でも、ない日でも、ない日のために順番を見ます」
「この人を切れば、確かに救われなくなるものがある」
気づけば、そう口にしていた。
アデルは一瞬だけこちらを見た。
だが問い返さなかった。
「そうかもしれません」
彼は静かに言った。
「逆に、私がいるせいで失われていくものもあります」
ハザマは答えなかった。
その両方が、もう目の前にあった。
救われるもの。
失われるもの。
人格を消すのか。
能力を切るのか。
この世界とどこかをつないでいる、その接続だけを断つのか。
西棟の壁に夕方の光がのびていた。
列に並んでいた人々は、もうまた自分の順番を待っている。薬剤箱は奥へ運ばれ、さっき助かったことを知る者はほとんどいない。
知られないまま助かる。
この街は、そういう救いでできていた。
ハザマはその光景を見ながら、次に切るべきものが何なのか、まだ言葉にできずにいた。




