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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第9章 正しい世界へ導く者

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第41話

 南庁舎に着いたとき、朝の光はまだ浅かった。


 停戦線に近いせいか、街の中心部より空気が少し乾いている。入口脇の壁には昨日と同じ日程表が出ていて、その下にだけ新しい表示が増えていた。


 外部助言者 来訪予定 〇八時三〇分


 もう待っている人がいた。

 調停の再確認に来たらしい北側の男。書類を抱えた南側の女。行政の若い職員が二人。皆、ひどく緊張しているわけではない。ただ、少しだけ落ち着かない顔で時刻表示を見ていた。


 ハザマは庁舎の壁際に立ち、その様子を眺めた。


 人は、暴君を待つようには待っていない。

 救いを待つようにも見えない。

 もっと実務的な顔だった。雨が降る前に屋根の修理人を待つような、そういう顔だ。


 八時二十七分。

 庁舎の前に、小さな移送車が一台だけ止まった。


 護衛はいない。旗もない。

 降りてきたのは、三十代半ばくらいの男だった。背は高くない。灰色の外套を着て、肩から古い端末鞄を提げている。髪はきちんと整っているが、整えた直後の感じではない。寝不足なのだろう。目の下に薄い影があった。


 預言者にも、凄腕の助言者にすら見えなかった。


 男は庁舎の前で立ち止まり、先に待っていた北側の男へ軽く頭を下げた。

「朝早くから、すみません。昨日の続きですね」


「いえ、その……助かりました」

 男は言い淀む。

 感謝しているのに、相手をどう扱えばいいか決めかねている顔だった。


 男はそれ以上そこに重みを置かなかった。

「書類だけ先に見せてください。中で読みます」


 声も普通だった。

 よく通るが、押しつける感じがない。


 そのまま庁舎に入ろうとしたところで、入口脇の受付が慌ただしくなった。

 若い女職員が、手にした端末を見て困った顔をしている。隣には子どもを抱いた女が一人いた。子どもの顔色が悪い。


「どうしました」

 男が足を止める。


「南棟の簡易病室です」

 女職員が答える。

「搬送の優先が朝の更新に乗っていません。午後便に回されると、病状が悪化します」


「書式を変えてください」

 男は端末を受け取り、画面を一度だけ見た。

「病室搬送じゃなくて、保管庫直送に。病室で受けると順番に埋もれます。薬剤棟の責任者名義を借りてください」


「それで通りますか」


「通ります。今ならまだ」

 男は静かに返した。

「あと八分あります」


 女職員はすぐ動いた。

 抱かれていた子どもが咳をし、その母親は男に何か言おうとして、結局うまく言葉にならなかった。


「礼は結構です」

 男は困ったように言った。

「間に合ってからにしてください」


 それからようやく、ハザマのほうを見た。

 一瞬だけ視線が止まる。


「見学の方ですね」

 男は言った。

「珍しいところで会います」


 調停官から話は通っていたらしい。


「ええ」

 ハザマは軽く会釈した。

「今日はこちらに来られると聞いたので」


「そうですか」

 男は少しだけ笑った。

「がっかりされるかもしれません。大したことはしていないので」


 そのまま奥の小部屋へ通される。

 庁舎の裏側にある、窓の小さな応接室だった。壁は薄く、外の足音が少し聞こえる。机の上には温い湯と紙の資料が置かれていた。


 男は外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。

「アデル・クレインです。名前は、そう呼ばれているという程度のものですが」


「ハザマです」


「本名ではなさそうですね」


「お互いさまかもしれません」


 アデルはそこで小さく笑った。

 鋭く探る笑いではなかった。もうそういうやり取りに慣れている人間の笑いだった。


「それで」

 アデルは湯気の薄い湯を一口だけ飲んだ。

「見て、どう思われました」


「助かっている人が多いように見えました」


「そうですね」

 彼は頷いた。

「多いです」


「そして、少し待ちすぎている人もいます」


 その言葉に、アデルの指がわずかに止まる。

 紙の縁を押さえていた手が、一瞬だけ力を失った。


「昨日の港ですか」


「ええ。今日の入口も」

 ハザマは言った。

「皆、自分で考えてはいる。ですが最後のひと押しを、自分たちの外に置き始めている」


「そう見えますか」


「見えます」


 アデルはしばらく黙っていた。

 反論を探している沈黙ではない。反論がないと知っている人の沈黙だった。


「その通りです」

 やがて彼は言った。

「少しずつ、そうなっています」


 ハザマは黙って先を待った。


「ただ」

 アデルは続ける。

「前はもっとひどかった。誰も待たなかったんです。待てないから。今は待てる。待っても全部を失わないと、一応は知っている。それで生き延びる人が増えました」


「代わりに、自分で決める力が少しずつ弱っていく」


「ええ」


 あっさり認めた。


 ハザマはそこで少しだけ拍子を外された。

 もっと自分を正当化するのかと思っていた。

 だがこの男は、そこを隠す気がないらしかった。


「気にならないんですか」


「気になります」

 アデルは即答した。

「毎回」


 窓の外で誰かが走る音がした。

 庁舎は朝から忙しい。


「やめようと思ったことは」


「あります」

 アデルは湯呑みを机に戻した。

「何度も」


「それでも続ける」


「見えてしまうので」


 その言い方は、ひどく静かだった。

 力の誇示ではなく、疲労に近い。


「全部ではありません」

 彼は続けた。

「全部は見えません。ただ、大きく外す道筋だけが先に見えることがある。誰を先に動かすと崩れるか、どこを後回しにすると間に合わないか、そういうのだけです」


「それで十分、多い」


「多すぎますよ」

 アデルは笑わなかった。

「少し見えるだけでも、十分すぎるくらいに」


 そこで庁舎の扉が軽く叩かれ、さっきの女職員が顔を出した。

「南棟、通りました。九分後に受け取れます」


「よかった」

 アデルは言った。

「ありがとうございます」


 女職員が去ると、部屋はまた静かになった。


「感謝されますね」

 ハザマが言う。


「されます」

 アデルは少しだけ視線を落とした。

「ありがたいとも思います。そういう気持ちがないと言えば嘘になります」


「ですが、表には立たない」


「立つと壊れるからです」

 彼は迷わず言った。

「今でもぎりぎりです。誰か一人の顔で正しさを受け取り始めると、人は自分で考えなくなる。だから、できるだけ分散します。名前も出さない。会う人も絞る。神様ごっこは、長持ちしませんから」


「謙虚なんですね」


「違います」

 アデルは首を振った。

「怖いだけです。祭り上げられるのも、依存されるのも、そのあと崩れるのも」


 その言葉は、ずいぶん正直だった。


 ハザマは彼の手元を見た。

 指先に薄い傷がいくつかある。機械整備の傷にも見えるし、ただ眠れない夜に紙をめくりすぎた手にも見えた。


「助けられなかったことが、何度かあったんですね」

 ハザマは言った。


 アデルはすぐには答えなかった。

 窓の外の光が少し動く。彼はそれを見ているようで、見ていなかった。


「何度か、では済みません」

 やがて彼は言う。

「見えていたのに間に合わなかったこともあります。片方を助ければ、もう片方が落ちるとわかっていて、結局どちらにも半端な手を出したこともあります」


 言葉がそこで少しだけ途切れる。


「一度」

 彼は続けた。

「近い人間だけ先に逃がせば、被害はずっと小さかった場面がありました。でも、それができなかった。自分の手が届くところだけ助けて、その外で減っていく人数を見送るのに、耐えられなかったんです」


 部屋の空気が少し重くなる。


「結果は」


「両方、中途半端でした」

 アデルは淡く笑った。

「よくある失敗です。全員救いたくて、誰も救いたくなくて、誰も切れなくて、結局失う」


 ハザマは何も言わなかった。


 それは責めるための告白ではなかった。

 言い訳でもない。

 ただ、自分が向いていないことを知りながら、それでもこの位置から降りられない人間の声だった。


「あなたは」

 アデルが初めてまっすぐこちらを見る。

「切れる人ですか」


 唐突ではなかった。

 ここまでの話の流れとして、自然な問いだった。


「そうあるべき仕事をしています」

 ハザマは言った。


「そうですか」


「ですが、最近は少し鈍っています」


 自分でも、なぜそれを言ったのかはわからなかった。

 名乗っていないことを、少し言いすぎたかもしれない。


 アデルは驚かなかった。

 ただ、少しだけ疲れた顔で頷いた。


「羨ましいと思っていました」

 彼は言う。

「切れる人のことを。必要なところで線を引ける人のことを」


「買いかぶりです」


「かもしれません」

 アデルは机の上の書類へ目を戻す。

「でも、見えると切れなくなるんです。見えないから切れる、ではなくて、見えるからこそ無理になることがある」


 ハザマはその言葉を、そのまま飲み込めなかった。


 見えないから切れるわけではない。

 見えていても切るしかないと、自分はずっとそういう側にいたはずだった。

 だが最近、そのはずの手が少しずつ鈍っている。


 似ている。

 だが同じではない。


 その違いがまだ言葉にならないまま、扉がまた叩かれた。


 調停官が顔を出す。

「北側と南側の代表、入りました。準備できます」


「すぐ行きます」

 アデルは立ち上がり、それからハザマのほうを見る。

「見ますか」


「ええ」


「では、一つだけ」

 アデルは外套を羽織りながら言った。

「私は答えを配っているつもりはありません。外しにくい譲り方を置いているだけです」


「その置き方で、未来の幅が変わります」


「変わります」

 彼は否定しなかった。

「だから困っているんです」


 その困り方が、本物に見えた。


 会議室へ向かう廊下を歩きながら、ハザマはその横顔を見た。

 派手さはない。支配者の顔でもない。

 ただ、眠れていない人間の顔だった。


 庁舎の先では、今日も誰かが譲り方を探している。

 アデルはそのために呼ばれている。

 呼ばれるだけの理由も、たしかにある。


 だがこの穏やかさが長く続けば続くほど、人は少しずつ、自分で何かを切る痛みから遠ざかるのかもしれなかった。


 会議室の扉が開く。

 中には、昨日と似たようで少し違う顔が並んでいた。生き延びるために譲ることを覚えた人々の顔だ。


 アデルはその卓へ向かう。

 ハザマは一歩だけ後ろで立ち止まった。


 処理対象。

 その言葉は、まだ使える。

 だが、その言葉だけで済ませるには、目の前の人間は少し生身すぎた。


 ハザマは無言のまま、会議室へ入った。

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