第41話
南庁舎に着いたとき、朝の光はまだ浅かった。
停戦線に近いせいか、街の中心部より空気が少し乾いている。入口脇の壁には昨日と同じ日程表が出ていて、その下にだけ新しい表示が増えていた。
外部助言者 来訪予定 〇八時三〇分
もう待っている人がいた。
調停の再確認に来たらしい北側の男。書類を抱えた南側の女。行政の若い職員が二人。皆、ひどく緊張しているわけではない。ただ、少しだけ落ち着かない顔で時刻表示を見ていた。
ハザマは庁舎の壁際に立ち、その様子を眺めた。
人は、暴君を待つようには待っていない。
救いを待つようにも見えない。
もっと実務的な顔だった。雨が降る前に屋根の修理人を待つような、そういう顔だ。
八時二十七分。
庁舎の前に、小さな移送車が一台だけ止まった。
護衛はいない。旗もない。
降りてきたのは、三十代半ばくらいの男だった。背は高くない。灰色の外套を着て、肩から古い端末鞄を提げている。髪はきちんと整っているが、整えた直後の感じではない。寝不足なのだろう。目の下に薄い影があった。
預言者にも、凄腕の助言者にすら見えなかった。
男は庁舎の前で立ち止まり、先に待っていた北側の男へ軽く頭を下げた。
「朝早くから、すみません。昨日の続きですね」
「いえ、その……助かりました」
男は言い淀む。
感謝しているのに、相手をどう扱えばいいか決めかねている顔だった。
男はそれ以上そこに重みを置かなかった。
「書類だけ先に見せてください。中で読みます」
声も普通だった。
よく通るが、押しつける感じがない。
そのまま庁舎に入ろうとしたところで、入口脇の受付が慌ただしくなった。
若い女職員が、手にした端末を見て困った顔をしている。隣には子どもを抱いた女が一人いた。子どもの顔色が悪い。
「どうしました」
男が足を止める。
「南棟の簡易病室です」
女職員が答える。
「搬送の優先が朝の更新に乗っていません。午後便に回されると、病状が悪化します」
「書式を変えてください」
男は端末を受け取り、画面を一度だけ見た。
「病室搬送じゃなくて、保管庫直送に。病室で受けると順番に埋もれます。薬剤棟の責任者名義を借りてください」
「それで通りますか」
「通ります。今ならまだ」
男は静かに返した。
「あと八分あります」
女職員はすぐ動いた。
抱かれていた子どもが咳をし、その母親は男に何か言おうとして、結局うまく言葉にならなかった。
「礼は結構です」
男は困ったように言った。
「間に合ってからにしてください」
それからようやく、ハザマのほうを見た。
一瞬だけ視線が止まる。
「見学の方ですね」
男は言った。
「珍しいところで会います」
調停官から話は通っていたらしい。
「ええ」
ハザマは軽く会釈した。
「今日はこちらに来られると聞いたので」
「そうですか」
男は少しだけ笑った。
「がっかりされるかもしれません。大したことはしていないので」
そのまま奥の小部屋へ通される。
庁舎の裏側にある、窓の小さな応接室だった。壁は薄く、外の足音が少し聞こえる。机の上には温い湯と紙の資料が置かれていた。
男は外套を脱ぎ、椅子に腰を下ろした。
「アデル・クレインです。名前は、そう呼ばれているという程度のものですが」
「ハザマです」
「本名ではなさそうですね」
「お互いさまかもしれません」
アデルはそこで小さく笑った。
鋭く探る笑いではなかった。もうそういうやり取りに慣れている人間の笑いだった。
「それで」
アデルは湯気の薄い湯を一口だけ飲んだ。
「見て、どう思われました」
「助かっている人が多いように見えました」
「そうですね」
彼は頷いた。
「多いです」
「そして、少し待ちすぎている人もいます」
その言葉に、アデルの指がわずかに止まる。
紙の縁を押さえていた手が、一瞬だけ力を失った。
「昨日の港ですか」
「ええ。今日の入口も」
ハザマは言った。
「皆、自分で考えてはいる。ですが最後のひと押しを、自分たちの外に置き始めている」
「そう見えますか」
「見えます」
アデルはしばらく黙っていた。
反論を探している沈黙ではない。反論がないと知っている人の沈黙だった。
「その通りです」
やがて彼は言った。
「少しずつ、そうなっています」
ハザマは黙って先を待った。
「ただ」
アデルは続ける。
「前はもっとひどかった。誰も待たなかったんです。待てないから。今は待てる。待っても全部を失わないと、一応は知っている。それで生き延びる人が増えました」
「代わりに、自分で決める力が少しずつ弱っていく」
「ええ」
あっさり認めた。
ハザマはそこで少しだけ拍子を外された。
もっと自分を正当化するのかと思っていた。
だがこの男は、そこを隠す気がないらしかった。
「気にならないんですか」
「気になります」
アデルは即答した。
「毎回」
窓の外で誰かが走る音がした。
庁舎は朝から忙しい。
「やめようと思ったことは」
「あります」
アデルは湯呑みを机に戻した。
「何度も」
「それでも続ける」
「見えてしまうので」
その言い方は、ひどく静かだった。
力の誇示ではなく、疲労に近い。
「全部ではありません」
彼は続けた。
「全部は見えません。ただ、大きく外す道筋だけが先に見えることがある。誰を先に動かすと崩れるか、どこを後回しにすると間に合わないか、そういうのだけです」
「それで十分、多い」
「多すぎますよ」
アデルは笑わなかった。
「少し見えるだけでも、十分すぎるくらいに」
そこで庁舎の扉が軽く叩かれ、さっきの女職員が顔を出した。
「南棟、通りました。九分後に受け取れます」
「よかった」
アデルは言った。
「ありがとうございます」
女職員が去ると、部屋はまた静かになった。
「感謝されますね」
ハザマが言う。
「されます」
アデルは少しだけ視線を落とした。
「ありがたいとも思います。そういう気持ちがないと言えば嘘になります」
「ですが、表には立たない」
「立つと壊れるからです」
彼は迷わず言った。
「今でもぎりぎりです。誰か一人の顔で正しさを受け取り始めると、人は自分で考えなくなる。だから、できるだけ分散します。名前も出さない。会う人も絞る。神様ごっこは、長持ちしませんから」
「謙虚なんですね」
「違います」
アデルは首を振った。
「怖いだけです。祭り上げられるのも、依存されるのも、そのあと崩れるのも」
その言葉は、ずいぶん正直だった。
ハザマは彼の手元を見た。
指先に薄い傷がいくつかある。機械整備の傷にも見えるし、ただ眠れない夜に紙をめくりすぎた手にも見えた。
「助けられなかったことが、何度かあったんですね」
ハザマは言った。
アデルはすぐには答えなかった。
窓の外の光が少し動く。彼はそれを見ているようで、見ていなかった。
「何度か、では済みません」
やがて彼は言う。
「見えていたのに間に合わなかったこともあります。片方を助ければ、もう片方が落ちるとわかっていて、結局どちらにも半端な手を出したこともあります」
言葉がそこで少しだけ途切れる。
「一度」
彼は続けた。
「近い人間だけ先に逃がせば、被害はずっと小さかった場面がありました。でも、それができなかった。自分の手が届くところだけ助けて、その外で減っていく人数を見送るのに、耐えられなかったんです」
部屋の空気が少し重くなる。
「結果は」
「両方、中途半端でした」
アデルは淡く笑った。
「よくある失敗です。全員救いたくて、誰も救いたくなくて、誰も切れなくて、結局失う」
ハザマは何も言わなかった。
それは責めるための告白ではなかった。
言い訳でもない。
ただ、自分が向いていないことを知りながら、それでもこの位置から降りられない人間の声だった。
「あなたは」
アデルが初めてまっすぐこちらを見る。
「切れる人ですか」
唐突ではなかった。
ここまでの話の流れとして、自然な問いだった。
「そうあるべき仕事をしています」
ハザマは言った。
「そうですか」
「ですが、最近は少し鈍っています」
自分でも、なぜそれを言ったのかはわからなかった。
名乗っていないことを、少し言いすぎたかもしれない。
アデルは驚かなかった。
ただ、少しだけ疲れた顔で頷いた。
「羨ましいと思っていました」
彼は言う。
「切れる人のことを。必要なところで線を引ける人のことを」
「買いかぶりです」
「かもしれません」
アデルは机の上の書類へ目を戻す。
「でも、見えると切れなくなるんです。見えないから切れる、ではなくて、見えるからこそ無理になることがある」
ハザマはその言葉を、そのまま飲み込めなかった。
見えないから切れるわけではない。
見えていても切るしかないと、自分はずっとそういう側にいたはずだった。
だが最近、そのはずの手が少しずつ鈍っている。
似ている。
だが同じではない。
その違いがまだ言葉にならないまま、扉がまた叩かれた。
調停官が顔を出す。
「北側と南側の代表、入りました。準備できます」
「すぐ行きます」
アデルは立ち上がり、それからハザマのほうを見る。
「見ますか」
「ええ」
「では、一つだけ」
アデルは外套を羽織りながら言った。
「私は答えを配っているつもりはありません。外しにくい譲り方を置いているだけです」
「その置き方で、未来の幅が変わります」
「変わります」
彼は否定しなかった。
「だから困っているんです」
その困り方が、本物に見えた。
会議室へ向かう廊下を歩きながら、ハザマはその横顔を見た。
派手さはない。支配者の顔でもない。
ただ、眠れていない人間の顔だった。
庁舎の先では、今日も誰かが譲り方を探している。
アデルはそのために呼ばれている。
呼ばれるだけの理由も、たしかにある。
だがこの穏やかさが長く続けば続くほど、人は少しずつ、自分で何かを切る痛みから遠ざかるのかもしれなかった。
会議室の扉が開く。
中には、昨日と似たようで少し違う顔が並んでいた。生き延びるために譲ることを覚えた人々の顔だ。
アデルはその卓へ向かう。
ハザマは一歩だけ後ろで立ち止まった。
処理対象。
その言葉は、まだ使える。
だが、その言葉だけで済ませるには、目の前の人間は少し生身すぎた。
ハザマは無言のまま、会議室へ入った。




