第40話
午後の光は、停戦線の上で少し白かった。
南区からさらに外れた調停庁舎は、昔は検問所だったらしい。
厚い壁と低い天井だけが、その名残を残している。今は銃座のかわりに受付端末が並び、かつて遮蔽物だったコンクリートの張り出しには、花の鉢がいくつか置かれていた。手入れは悪くない。ここで長く待つ人間が、少しでも苛立たないようにしているのだろう。
庁舎の前には二つの列ができていた。
一方は北側から来た水利組合の代表たち。もう一方は南側の居住区再建委員会。争っている顔ではない。疲れた顔だった。争う気力を使い果たしたあとの、仕事としてここへ来ている顔だ。
ハザマは事前に用意された身分を通し、見学席に通された。
調停官の女は四十代くらいで、濃い色の髪をきちんとまとめている。笑わないが、不機嫌にも見えない。机の上には紙の資料と端末、それにまだ半分ほど残った薄い茶色の飲み物が置かれていた。
「見学、ですか」
女は記録票に目を通した。
「こんな場所を見ても、たぶん面白くはないですよ」
「そのほうが助かります」
ハザマは言った。
「面白い場所は、だいたい後始末が増えるので」
女はそこで初めて少しだけ口元をゆるめた。
「それはそうですね」
中に通される。
会議室は思ったより小さい。
丸い卓が一つあるだけで、誰かを見下ろすための高い席はない。北側の代表が三人、南側が三人。調停官が一人。書記が二人。全員の前に水の入った細いグラスが置かれていた。
議題は単純だった。
川沿いの再開発にあわせて、北側農地へ送る水量を少し減らし、その分を南側の新しい浄化設備へ回すかどうか。単純だが、そのぶん厄介でもある。水はいつでも、正しい分け方を一つには決めにくい。
最初に話し始めたのは北側の男だった。
日に焼けた手をしている。声は大きくない。
「減らされると困ります」
男は言った。
「今年はようやく土が戻ってきたところです。次の季節がまずいと、また三年前の配給に戻る」
南側の女がすぐに返す。
「こちらも困るんです。浄化設備を先に回せば、居住区の苦しみが減ります。去年の秋に亡くした子の数を、もう一度並べたくはありません」
どちらも正しい。
それが最初からわかる話し合いは、たいてい長引く。
調停官は急がせなかった。
北側の必要量、南側の病歴、予測される乾期の長さ、代替路の有無。順番に確認していく。途中で誰かが声を荒げそうになるたび、書記の若い男が次の資料を滑らせ、言葉が少しだけ冷える。
だが会議が本当に動き始めたのは、壁面端末の表示が切り替わってからだった。
外部提言 更新待ち
それが出た瞬間、卓の上に流れていた言葉が、わずかに止まる。
誰も露骨には見ない。
だが見ないふりをしているのが、むしろわかる。
北側の男が指先でグラスを回した。
「……更新は、何時です」
書記が答える。
「十五分後の予定です」
南側の女は何も言わなかったが、椅子に預けていた背を少しだけ戻した。
さっきまで自分の言葉で押していた人間が、そこから先の半歩を、見えない誰かに預ける姿だった。
ハザマはその沈黙を見ていた。
誰も思考を放棄しているわけではない。
考えてはいる。数字も事情も持っている。
ただ、最後の決め手だけを、自分たちの外に置き始めている。
調停官が、端末から目を上げずに言った。
「先に、提言が来ない前提でも一度整えます。北側、最低で譲れる線は」
「本音で言えばゼロです」
男は答えた。
「でもそう言えば、次の乾期にまた撃ち合いになる」
「南側は」
「浄化設備を遅らせれば、病気が減りません」
女は言った。
「ただ、全部を今すぐとは言いません。立ち上げだけでも先にほしい」
調停官は頷き、紙に何か書いた。
その横顔は疲れていた。慣れてもいた。
「昔は、こういう場面でどうしていたんですか」
休憩に入ったとき、ハザマは小さく訊いた。
「昔ですか」
調停官は紙コップを手に取った。中身は冷めているらしい。少し顔をしかめてから、一口だけ飲む。
「昔は、だいたいどちらかが席を蹴りました」
「今は違う」
「違いますね」
彼女は壁の表示を見た。
「今はみんな、最後まで座る。座っていれば、前より悪い結果にはなりにくいと知っているから」
「その“前より悪い結果になりにくい”を支えているのが、提言ですか」
調停官はすぐには答えなかった。
紙コップの縁に指を添えたまま、少しだけ考える。
「そうです」
やがて彼女は言った。
「正確には、提言そのものというより、提言がある社会、です。誰かが先に大きく外す選択肢を断ってくれる。だから人は、全部を失う怖さから少し離れて話せます」
「それは良いことのようにも聞こえます」
「良いことですよ」
調停官は言う。
「実際、死ぬ人は減りました」
「ただ」
「ただ」
彼女は少しだけ笑った。
「最近、ときどき思うんです。ここに来る人たちは、相手を説得しに来ているのか、答えを聞きに来ているのか、どっちなんだろうって」
その言い方は軽かった。
だが軽く言える話ではなかった。
更新時刻になった。
壁面が一度暗くなり、数行の提言が表示される。
北側配水を一八%減。南側浄化設備へ暫定転用。
ただし北側乾地には港湾冷却余剰水を三日後より転送。
南側は病棟優先で生活用再配分を一週間延期。
室内が静かになる。
北側の男が最初に息を吐いた。
「……港から回すのか」
南側の女も表示を見たまま言う。
「生活用を遅らせるなら、こっちも飲めます」
調停官は端末を閉じない。
「異論はありますか」
すぐには出ない。
異論がないのではなく、
異論を差し出す相手が、もうこの場の六人ではなくなっている。
ハザマはそれを、嫌だとはまだ言えなかった。
実際、その提言はうまかった。北も南も完全には救わないが、どちらも崩さない。前のように片方を勝たせて片方を憎ませる答えではない。
正しい。
多分、かなり正しい。
だからこそ、厄介だった。
会議が終わったあと、北側の男は廊下で南側の女に声をかけた。
「一週間後、そっちの生活用が動いたら、うちの若いのを浄化設備の設置に回す」
女は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷く。
「助かります。こっちも次の配水で余ったら、北に戻すので」
人は譲っていた。
命令されたからではなく、譲れる形が見えたからだ。
その形を、自分たちだけで見つけたのかどうかは、曖昧だった。
庁舎を出ると、風が少し強くなっていた。
鉢植えの葉が揺れ、入口横の薄い旗が小さく鳴る。さっきまで会議をしていた人々は、もうそれぞれの方向へ散っている。背中には安堵がある。敗北の形ではない。
調停官が見送りに出てきた。
「どうでした」
「穏やかでした」
ハザマは言った。
「穏やかすぎるくらいに」
「それを目指してきたので」
彼女は少し笑う。
「でも、たまに怖くはなりますよ。昔は、うまくいかないのが人間だと思っていたので」
「今は」
「今は、うまくいきすぎる日がある」
彼女は空を見る。
「助かっているのに、そう思うのは贅沢かもしれませんけどね」
「贅沢ではないと思います」
調停官は、その返事を少し意外そうに聞いた。
それから声を落とす。
「あなた、見学の人にしては、静かすぎますね」
「そうでしょうか」
「ええ」
彼女は言った。
「普通はもっと感心するか、もっと疑うか、どちらかです」
ハザマは答えなかった。
庁舎の前を離れ、停戦線に沿った古い歩道を歩く。
途中で、小さな掲示板が目に入った。次回の合同調停日程。その下に、手書きで短い追記がある。
外部助言者 明朝南庁舎来訪予定
初めてだった。
噂や表示ではなく、時間を持った記述。
ハザマは立ち止まり、その文字を見た。
会うべき相手だと、ようやく思った。
処理対象だからではない。
この街の穏やかさの中心にいるなら、その人間が何を見て、何を切り捨てられずにここまで来たのか、自分の目で確かめる必要があった。
風がまた吹く。
遠くで輸送塔の低い音が鳴る。街は今日も静かだった。
静かで、よくできていて、少しだけ誰かに支えられすぎている。
ハザマは歩き出した。
明朝、南庁舎へ向かうために。




