第35話
本部の自動扉が閉まる音は、いつも少し遅れて聞こえる。
ハザマは通行認証を抜け、その遅れを背中で聞いた。
照明は均一だった。床も壁も、汚れを想定していない材質でできている。ここではたいていのことが、最初から拭き取られる前提で設計されていた。
クレンジング部門第三報告室。
時刻は標準系で〇七時一四分。
エリシア・ヴァレスト案件、事後報告。
席はもう埋まっていた。榊が端末を開いたままこちらを見る。葛西は腕を組み、真木は紙のカップを机に置いたところだった。珍しく、まだ飲んでいない。
「定刻だな」
榊が言った。
「はい」
ハザマは座らず、報告端末に認証を通した。
自分のIDが画面隅に表示される。数値列。所属。権限。処理履歴。どれも問題なし。そう表示されている。
「対象、侯爵令嬢エリシア・ヴァレスト」
ハザマは言った。
「処理目的は人格削除ではなく、参照切断。実施内容は、外部由来の物語認識フレームの剥離。結果、対象人格の継続を確認。周辺人間関係は局所的揺れを伴うが、基底系列への致命的損傷はなし」
「致命的、ね」
葛西が口を挟んだ。
「その言い方だと、致命的でない損傷はあるように聞こえる」
「あります」
ハザマは答えた。
「喪失感の残留。説明不能な好意の残り。対象本人の自己輪郭の減衰。いずれも観測済みです」
葛西は薄く目を細めた。
嫌味を言いたい顔ではなかった。むしろ、その程度で済ませるなと言いたい顔だった。
「人格を残したまま、読み方だけを断つ」
葛西は机の上で指を組む。
「前例として美しくない。人を消さないから安全、という話でもない」
「安全とは報告していません」
ハザマは言った。
「ただ、削除コストと系列歪曲の比較では、今回のほうが小さい」
「小さい損傷を選ぶ判断が、現場官の裁量で積み上がる」
葛西は視線を動かさない。
「それを制度と呼べるのか」
そこで榊が口を開いた。
「制度は、例外の発生を前提に運用するものだ。例外が嫌なら、観測対象を減らすしかない」
「減らせるなら苦労しませんよ」
真木がぼそりと言って、ようやくカップを持った。
「しかも今回、問題は対象一名で閉じてない」
榊が顎で続きを促す。
真木は端末を操作し、壁面にログ断片を投影した。
文字列。
不完全な命令文。
再配置。起動。ここで必要です。
既知の違法転生案件に似ているが、似ているだけで一致しない痕跡。
「侵入経路が雑なんです」
真木が言う。
「いや、雑というと違うな。粗い。縫い目が違う。普通の汚染データなら、死者パケットの横取りと属性付与でもう少し綺麗に入る。今回は先に受け皿があった形跡がある」
「受け皿」
榊が反復する。
「対象の認識です。本人は“原作”を知っていたと思っていた。でも、あれは単なる知識じゃない。もっと感触が近い。既読感じゃなく、既視感に近い」
真木はログを拡大した。
「こっちの人生断片が、地球側で創作物として受信され、その認識が侵入足場になった可能性が高い」
報告室が一瞬だけ静かになった。
本部では珍しくない沈黙だった。
誰も感情で止まらない。
計算が一回、内部で回るだけだ。
葛西が先に言った。
「証明は」
「まだ弱いです」
真木は即答した。
「でも、弱いから無視できる段階は過ぎました。漏れそのものは以前から観測されてる。夢、予感、妙に具体的な創作、説明のつかない既視感。雑音として切ってきた。でも兵器化されてるなら話が変わる」
兵器化。
その言葉だけが、部屋の空気に遅れて残った。
ハザマは真木のカップを見た。
表面のコーヒーが少し揺れている。手元は安定しているのに、空調の風でかすかに波が立っていた。
エリシアは、最後まで人を人として見ようとした。
だが最初に見ていたのは、役割だった。
主人公。攻略対象。悪役令嬢。
順番が逆だった。
それでも彼女の善意は、本物だった。
その事実だけが、処理後もきれいに切れなかった。
「ハザマ」
榊の声で視線を戻す。
「現場感としてどう見る」
少しだけ間が空いた。
葛西がその間を記録するような目で見ていた。
「対象は、既知の転生者と違いました」
ハザマは言った。
「侵入者である前に、読者だった。少なくとも本人はそう認識していた。自分の行為を改変ではなく、破滅回避だと理解していた。処理に対する抵抗も、延命ではなく離脱願望に近かった」
「帰還願望か」
葛西。
「逃避です」
ハザマは訂正した。
「地球へ帰りたい、という表現を使っていましたが、場所への執着というより、役割から降りたい願いに見えた」
真木が小さく頷いた。
榊は画面を閉じた。
「つまり」
榊は言う。
「今回切ったのは人格ではない。世界の読み方だ」
「はい」
「その結果、好意や喪失感だけが残った」
「はい」
「厄介だな」
その言い方は、感想ではなく分類だった。
だが少しだけ、人間の声にも聞こえた。
葛西が椅子に背を預ける。
「私は反対記録を残す。参照切断は、今後の標準処理にしていい類型じゃない。人を残すから穏当、ではない。何を残して何を剥ぐか、その線引きを現場感覚に寄せすぎる」
「妥当です」
榊が言った。
「反対記録は残せ。ただし案件としては承認する。今回は全削除のほうが歪みが大きかった」
葛西は眉一つ動かさず「了解」とだけ返した。
決着は、それで終わった。
管理局では、たいていそうだった。
深く揉めたように見えても、記録形式に変換された瞬間に終わる。
だが終わらないものもある。
真木が端末を切り替えた。
「あと一件。これは正式ブリーフ前の予備断片です」
壁面に別のログが出る。
異世界座標。
文明段階指標。
逸脱率グラフ。
数値の立ち上がり方が異様だった。なだらかな発展ではない。どこか一つの知性が、数十年分をまとめて前倒ししたような伸び方をしている。
「医療、エネルギー、通信、戦争抑止」
真木が読み上げる。
「複数領域で同時加速。局所英雄じゃなく、文明改変寄りです」
葛西が低く言った。
「また善意か」
「たぶん」
真木が答える。
「しかも今度は、人間関係を良くした、じゃ済まない規模です」
ハザマはグラフを見る。
綺麗すぎる伸びだった。
人が苦しみながら作る発展の形ではなく、答えを知っている者が先回りして置いた形に見える。
榊が立ち上がった。
「今日はここまでだ。正式資料は後で回す。ハザマ、休め」
「はい」
そう返したが、休める感じはしなかった。
報告室を出る前に、真木が自分のカップを持ち上げた。
「飲みますか」
「いや」
「冷めてますけど」
「だからだ」
真木は少しだけ笑った。
「そういう日もありますね」
報告室を出る。
廊下の照明は変わらない。
床も壁も同じままだ。
本部は、何も残さないための場所だ。
だが、残る。
消したはずの役割の輪郭。
切ったはずの参照の痕。
説明できない好意。
説明できない喪失。
そして、自分の中で少しずつ鈍っていく、正しい処理の手触り。
端末に新着通知が入る。
予備案件ブリーフ、閲覧権限付与。
件名だけが表示されていた。
文明水準異常加速案件/暫定分類未定
ハザマは数秒だけ、それを見た。
それから画面を閉じる。
閉じたあとも、件名だけは視界のどこかに残っていた。




