第33話
真木が持ってきた比較資料は、紙にすると驚くほど薄かった。
乙女ゲーム『銀花のラストノート』の該当場面抜粋。
現地観測ログ。
エリシアの発言記録。
たったそれだけだ。だが、並べると十分だった。
礼拝堂裏の小会議室で、ハザマはその三枚を見比べる。
「第三章・聖堂ルート中盤」
真木が端末越しに言う。
「ゲーム側の記述は、“主人公が落とした栞を聖職者が拾う。栞の端は少し折れていた”まで」
「祭礼の階段で踏まれた、は書かれていない」
「書かれてない」
「香の匂いも」
「ない」
「階段の石が冷たいことも」
「もちろんない」
ハザマは紙を閉じる。
「なのに彼女は知っていた」
「ゲームを知ってるんじゃなくて、その場面に触れてる」
真木は言う。
「文字としてじゃなく、傷つき方として」
「……」
「こっちの仮説でほぼ固いと思う。地球側で受信されたのは“作品”じゃなく、こっちの人生断片。で、それを乙女ゲームの形に整形して流通させた」
榊が低く言った。
「自然発生の漏れか、意図的な注入か」
「後者の匂いが強い」
真木が答える。
「侵入痕が雑すぎる。既知の違法転生パターンに近いけど、整ってない。変に急いでる」
「アナーキー・コードか」
葛西が言う。
「断定はまだ」
真木はすぐ返した。
「でも、偶然でこんな綺麗な“物語化”は嫌すぎる」
榊は資料を机へ置いた。
「処理候補は」
「人格削除は過剰」
真木が言う。
「案件の核は人格じゃない。参照の仕方」
「つまり」
「“この世界を原作として読む回路”だけを断つ」
葛西の沈黙は、制度上それが面倒だという意味だった。
「危ういな」
「危うい」
真木も認める。
「でも一番まし」
「成功率は」
「高くはない。けど、ゼロでもない」
「失敗時の損失は」
「前世側輪郭の大幅減衰。地球への帰属感喪失。原作参照の消失。最悪、自己同一性の一時的混濁」
「……」
「でも、人格そのものの破断は避けられる可能性が高い」
ハザマはそこで初めて口を開いた。
「本人にはまだ伝えていない」
「伝えろ」
榊が言う。
「選ばせる必要がある」
「選択に見せかけるな」
葛西が言った。
「現場圧で誘導したら承認しない」
「承知しています」
回線が切れる。
白い会議室に、紙の擦れる音だけが残った。
ハザマは資料をまとめる。
人を消す資料ではない。
だが、人が人を読む方法を切る資料ではある。
*
エリシアは、呼ばれた場所が前と同じ小応接室だとわかった瞬間、少しだけ顔をしかめた。
「またここなんだ」
「はい」
「白くて嫌」
今日はもう、令嬢の口調を作ろうともしなかった。
椅子に座る前から疲れている。
昨日までなら背筋で誤魔化せたものが、今日はもう誤魔化せていない。
ハザマは机の上に紙を二枚置いた。
「比較資料です」
「何の」
「ゲームと現実の」
「……最悪」
それでも彼女は受け取る。
数行読んで、すぐに視線が止まった。
「これ」
「あなたが知っていた細部です」
「書いてない」
「ええ」
「私、じゃあ、何を覚えてたの」
声が細い。
問いかけというより、ほとんど独り言だった。
「作品ではなく、作品化された断片」
ハザマが言う。
「そう見るほうが自然です」
「自然って」
エリシアは笑いそうになって、できなかった。
「それのどこが自然なんだよ」
沈黙。
「……私さ」
彼女は紙から目を離せないまま言う。
「ゲームやってたつもりだったんだよ。好きだったし、何回もやったし、すごいハマってたし」
「ええ」
「でも実際は、誰かの人生を攻略本みたいに読んでたってこと?」
「可能性は高い」
「最悪じゃん」
その一言が、部屋の真ん中に落ちた。
「私、助けてたつもりだった」
エリシアは続ける。
「でも最初から、人としてじゃなくて、“ここで傷つく子”“ここで庇う人”“ここで落ちる私”って見てた」
「……」
「それで先回りして、いいことした気になってた」
「善意まで全部偽物とは言いません」
「でも出発点は最悪だよ」
ハザマは否定しない。
エリシアは資料を机へ置いた。
手が少し震えている。
「で」
彼女は言う。
「そこまでわかったなら、次は何?」
ハザマは答える。
「処理候補があります」
「削除?」
「違います」
「じゃあ」
「あなたの人格そのものではなく、この世界を“原作”として読む参照だけを断つ」
エリシアは数秒、意味を測り損ねた。
「……何それ」
「あなたをエリシアとして残したまま、朝倉真琴のゲーム参照と、この世界との接続を切る」
「それって、前世の記憶を消すのと何が違うの」
「全部は消えません」
「全部は、って」
「かなり薄れる可能性はあります」
「かなりって、どのくらい」
「地球の手触り。帰りたい場所の輪郭。『銀花のラストノート』としてこの世界を読む感覚。そこは失う可能性が高い」
「……」
エリシアは目を伏せた。
「じゃあ、私、何になるの」
「エリシア・ヴァレスト」
「そうじゃなくて」
彼女は顔を上げる。
「私さ、もう朝倉真琴のことだって完璧には覚えてないんだよ。それでもまだ、“帰りたい”って思うからギリギリ立ってるのに」
「……」
「そこまで薄くなったら、何に向かって寂しがればいいの」
ハザマは少しだけ間を置いた。
「わかりません」
「残酷」
「はい」
「ほんとにさ」
エリシアは笑って、すぐにやめる。
「そういうとこだけ、びっくりするくらい正直だね」
窓の外で、学院の鐘が鳴る。
その音が止んでから、エリシアは小さく言った。
「でも、今のままも無理だ」
「そうですか」
「うん。だって、リュシエンヌ見たら、まだ最初に“主人公”って思うし」
「……」
「ルシアン見ても、先に“攻略対象”が来る」
「ええ」
「それで優しくするとか、選んでることとか、もう気持ち悪い」
言葉が荒い。
でも、その荒さのぶんだけ本音だった。
「ねえ」
と彼女は言う。
「私の転生、やっぱり変なんだよね」
ハザマは頷く。
「既知の違法侵入痕に近い。ですが完全一致ではない」
「アナーキー・コードってやつ?」
「その可能性はあります」
「……そう」
エリシアはそれを聞いて、なぜか少しだけ静かになった。
「じゃあさ」
彼女は机の木目を見たまま言う。
「私、最初から何かのために押し込まれたのかもね」
「……」
「“ここで必要です”って、そういう意味だったのかも」
それは諦めではなく、疲れた理解に近かった。
「必要、ね」
エリシアは続ける。
「誰にとってだろうね」
「少なくとも、あなた自身ではない」
「だよね」
そこで、また扉が控えめに叩かれた。
「エリシア様?」
リュシエンヌの声だ。
エリシアの肩がわずかに揺れる。
「今度は何も言わなくていい」
ハザマが言う。
エリシアは少しだけ頷いた。
「……ごめん、いま出られない」
扉越しにそう返すと、少ししてリュシエンヌが言った。
「じゃあ、これだけ置いていきますね。喉、痛くなってるかもしれないから」
足音が去っていく。
扉の前には、たぶん蜂蜜入りの小瓶か何かが置かれたのだろう。
エリシアはそれを取りに行かない。
代わりに、椅子の背へ身体を預けて目を閉じた。
「……こういうのが一番つらい」
と彼女は言う。
「私が勝手に主人公って呼んでた子のほうが、ちゃんと人として優しいの」
ハザマはその言葉を受け止めるだけにした。
「時間は多くありません」
やがて彼は言う。
「学院内での違和感は広がっています。王家側も、教会側も、あなたの先読みを“便利”では済ませなくなっている」
「わかってる」
「処理判断も近い」
「……」
「あなたが選べるうちに選んだほうがいい」
エリシアは長く黙る。
それから、机の上の資料へもう一度目を落とした。
ゲームに書かれていない細部。
でも自分が知っていた痛み。
たぶんそれは、誰かの人生だった。
「次」
と彼女は言う。
「その処理、ちゃんと全部説明して。何が残って、何がなくなるのか」
「はい」
「それ聞いてから決める」
「承知しました」
「……でも」
彼女はそこで少しだけ笑った。
弱い、もう仮面では支えきれない笑いだった。
「たぶん、どっち選んでも痛いね」
「ええ」
「最悪」
ハザマは答えない。
最悪なのは事実だった。




