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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第7章 悪役令嬢抹消

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第32話

礼拝堂西側の小応接室は、白すぎた。


 壁も、机も、窓枠も、何もかもが清潔で、ここでは人の動揺すら形式に従って起きるべきだと言われているようだった。

 机の端に置かれた煮出しの茶は、ぬるくて味が薄い。ハザマは一口だけ飲み、すぐにカップを置いた。まずい。だが、まずさが一定なら、思考は乱れにくい。


 扉が、控えめに二度叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのはエリシアだった。


 侯爵令嬢としての身なりに乱れはない。髪も手袋も、胸元の飾りも整っている。

 だが昨日の慈善会で一度均衡を崩した者の目で見れば、今日はすぐにわかった。肩の線が少し固い。笑顔を作るまでに半拍の遅れがある。指先だけが、やけに揃いすぎている。


「文書の確認と伺いました」

「半分は」

 ハザマが答える。

「残り半分は、あなたに聞きたいことがあります」


 エリシアはすぐには座らなかった。

 この男は礼拝堂付きの文書係の顔をしているくせに、問いの置き方があまりにも真っ直ぐだ。


「わたくしは、何か問題を起こしましたか」

「局所的には、ほとんど逆です」

「局所的」


 その語を小さく繰り返してから、彼女はようやく椅子へ座る。


「便利な言葉ですのね」

「よく言われます」


 エリシアは一瞬だけ眉を動かした。

 軽口の形をしているのに、空気が軽くならない。こういう人間は、だいたい嫌なところまで見てくる。


 ハザマは机の上へ薄い紙束を広げる。

 慈善会運営表。席次案。寄進記録。礼拝堂の補修願い。

 全部、学院と礼拝堂の運営に必要な事務書類に見える。実際、その通りだ。だが並べれば、別の意味も立ち上がる。


「昨日、あなたは第三曲と第四曲の繋ぎを変えました」

「左端の子が止まりそうでしたから」

「給仕も止めた」

「滑りそうでした」

「配り物の順も変えた」

「そのほうが穏やかに終わると思いました」


 答えは淀みない。

 淀みなさすぎる。


「あなたは、何が起きるかを知っていたように見えます」

 ハザマが言う。


 エリシアは視線を落とす。

 そこで初めて、令嬢の顔から少しだけ、人間の疲れた顔が覗いた。


「見えていたわけではありません」

「では」

「そうなりそうだと、わかっただけです」

「なぜ」

「……」


 沈黙が落ちる。


 自分でも、この問いを避けてきたのだろう。

 未来予知ではない。推理でもない。勘というには細かすぎる。

 だからずっと、“流れ”とか“予感”とか、そういう曖昧な言葉で包んできた。


 ハザマは別の紙を出す。


「『銀花のラストノート』」

 と彼は言った。


 エリシアの指先が止まる。


「……どこでその名前を」

「あなたの前の知識について聞いています」

「……」

「乙女ゲームですね」

「はい」

「前世でやり込んだ」

「はい」

「攻略対象は四名。王子、近衛騎士、聖職者、隣国公子」

「そうです」

「主人公はリュシエンヌ」

「はい」

「あなたは悪役令嬢」

「……そう、だった」


 “だった”。


 もう、その役割へきれいに自分を戻せない言い方だった。


「確認します」

 ハザマが言う。

「昨日の第三曲のあと、左端の子が止まる場面。ゲームに書かれていましたか」

「……」

「給仕がどこで滑るかは」

「そこまで細かくは」

「リュシエンヌの栞が祭礼の階段で踏まれたことは」

「……」


 返せない。


 エリシアは返せないまま、自分の沈黙に追い詰められていく。

 この男はどうして、間違ってるところだけを、こんなに正確に踏んでくるのか。


「ゲームには、そこまで全部の細部は出ません」

 エリシアがようやく言う。

「でも、示唆とか、空気とか、行間とか」

「行間で、あの傷のつき方まで?」

「……」


 その一語で、彼女の呼吸が止まりかける。


 階段の乾いた冷たさ。紙の端の潰れ方。息を呑む一拍。

 ゲーム画面のテキストに、そんなものは出ない。

 なのに、なぜか自分は知っていた。


「あなたは」

 ハザマの声は低い。

「物語を知っているのではなく、誰かがどう傷つくかを知りすぎている」

「違う」


 すぐに出た否定は、でも鋭くない。


「私は、ただ、破滅したくなかっただけ」

 そこで、口調が少し落ちる。

「嫌われたくなかったし、ああなるのが嫌だっただけ」


「それは知っています」

「知ってるなら」

「それと、知識の質は別です」


 エリシアは唇を噛む。


 破滅したくなかった。

 それは本当だ。

 死んで、わけもわからないままここへ来て、悪役令嬢としてまた壊れるのが嫌だった。だから高慢さを捨てた。先に謝った。先に助けた。

 善意は本物だ。

 でも、この男が見ているのはいまそこじゃない。


「昨日、あなたは言いかけました」

 ハザマが言う。

「『あなたは、そういう役じゃ――』」

「……」

「続きは」


 部屋の白さが冷える。


「答えたくない」

「なぜ」

「答えたら、たぶん最悪だから」


 もう令嬢の口調ではなかった。

 剥がれたことに、エリシア自身も半分しか気づいていない。


「リュシエンヌを、あなたは最初に何として認識しましたか」

「……」

「人としてではなく」


 しばらく沈黙が続く。

 やがてエリシアは目を閉じた。


「主人公」

 と、小さく言った。

「最初は」


「ルシアンは」

「攻略対象」

「侍女は」

「離反の可能性がある人」

「あなた自身は」

「悪役令嬢」


 一つずつ口にするたび、整えていた表情が崩れていく。


 これは秘密の告白なんかじゃない。

 ただ、自分が最初に世界をどう読んだかを並べているだけだ。

 なのに、その並び方そのものが、もう人間への見方として歪だったとわかってしまう。


「でも」

 エリシアが反論する。

「それでも、ちゃんと優しくしようとした」

 さらに崩れる。

「本当に。ちゃんと助けたかった」


「ええ」

 ハザマは頷く。

「それも本当でしょう」

「だったら何が」

「出発点が違う」


 静かな一言だった。


「あなたの善意は本物です」

 ハザマは続ける。

「だが最初に見ていたのは、人ではなく位置だ」

「……」

「誰がどこで傷つくか。誰がどこで庇うか。誰がどこで嫌われるか。あなたはそこから読んでいる」

「違う」

「全部は」

「違う……はず」

「はず」


 エリシアは顔を上げる。


 怒りではない。

 泣いてもいない。

 ただ、自分が立っていた床の素材が、思っていたものと違ったと気づき始めた顔だった。


「……私、この人たちのこと、大事に思ってる」

 もう完全に地の声だ。

「それも本当なの」

「そうでしょう」

「だったら」

「その本当と、最初の誤読は両立します」


 平板な声だった。

 平板なのに、逃がさない。


「最初に誤読していたからといって、後の好意まで全部偽物になるわけではない」

「……」

「ですが、最初に誤読していたこと自体は消えません」


 エリシアの指が、膝の布を強く掴む。


 優しくしようとしていた。

 それは本当。

 でも、その優しさの出発点が“この人そのもの”じゃなくて“この人が担う役”だった。


 主人公。攻略対象。離反イベント要員。

 自分は、この世界の人たちをそんなふうに読んでいた。


 そのとき、扉の向こうで軽いノックがした。


「エリシア様?」


 リュシエンヌの声だ。

 優しくて、明るくて、少し心配そうで。

 その声を聞いた瞬間、エリシアの顔が崩れそうになる。


「……出られない」

 と彼女は小さく言う。


「なぜ」

「いま会ったら」

「何です」

「この子のこと、また最初に“主人公”って見ちゃう気がする」


 そこまで言って、自分で息を呑む。

 もう否定できないところまで来ていた。


 リュシエンヌがもう一度、扉越しに声をかける。


「体調、悪いですか?」

「……ちょっと」

 エリシアは返した。令嬢の声を作ろうとして失敗している。

「ごめん。あとで」


 扉の向こうで一拍の沈黙。


「わかりました。無理しないでくださいね」


 足音が遠ざかる。

 問い詰めない優しさ。

 それが、いまのエリシアには刺さりすぎた。


「……きつい」

 と彼女は言う。

「もう、無理」


 その声は侯爵令嬢ではない。

 ただの若い女の声だった。

 帰れなくなった者の声。


「ねえ」

 彼女はハザマを見る。

「そこまでわかってるなら、帰せるの?」


 あまりにもまっすぐだった。


「地球に」

 と彼女は続ける。

「帰れるなら帰りたい。もう悪役令嬢とか転生者とか、そういうのじゃないとこに戻りたい」

「……」

「できるの? あんた」


 ハザマは即答しなかった。


「帰還ではなく撤退です」

 やがて彼は言う。

「いまのあなたが望んでいるのは」

「そんなのわかってるよ」


 エリシアは机を見たまま言う。


「帰りたいっていうか、最初からやり直したいんだよ。朝倉真琴のままで。何も知らないままで。誰かを主人公とか攻略対象とかで見なくて済むところに」

「それは難しい」

「……そう」


 少し笑って、すぐ笑えなくなる。


「でも、あんたなら何か知ってると思った」

「なぜ」

「だって、私のこと、そこまで見抜いてるから」


 ハザマは少しだけ間を置いた。


「一つ確認します」

「何」

「あなたの侵入時の記憶に、不自然な接続感はありませんか」

「接続?」

「通常の違法転生でも、もっと整った挿入痕が出ることが多い。あなたの痕は荒い」

「……」


 エリシアの表情が止まる。


「ある」

 今度は即答だった。

「ずっと変だと思ってた」

「説明を」

「死んだあと、気づいたらここにいた――じゃないの」

 彼女は額に手を当てる。

「一回、落ちた感じがあって、そのあと無理やり引っかけられたみたいな」

「引っかけられた」

「うん。なんとなく押し込まれたっていうか……」

 彼女は眉を寄せる。

「ちゃんと“始まった”感じがしないの。よくわかんないけど」


 ハザマは黙って聞く。


「あと、声」

「声」

「男か女かわからない。人の声っていうより、メッセージみたいな」

「内容は」

 エリシアはしばらく黙った。


「……“ここで必要です”」

 と彼女は言った。

「それだけ、なんか残ってる。はっきりじゃないけど」

「ほかには」

「“起動”とか、“再配置”とか。そういう感じの、意味だけ」

「……」


 ハザマの内側で、線が一本つながりかける。


 転生は基本的に異常侵入だ。

 だがその中でも、エリシアの痕は既知の違法転生パターンと完全には一致しない。

 雑な再配置痕。命令文めいた残響。

 アナーキー・コード系の作為を思わせるが、まだ断定には早い。


「なんとなく、神さまだと思ってた」

 エリシアが聞く。

「やっぱり、おかしい?」

「既知の違法侵入痕に近い」

 ハザマは答える。

「ただし、完全一致ではありません」

「じゃあ、私って」

「まだ決めません」

「決めないで済む段階?」

「ぎりぎり」


 エリシアは目を閉じた。


「……最悪」

「同意します」


 部屋が静かになる。


 善意は本物だった。

 だが、善意を支えていた読み方は歪んでいた。

 しかも、その歪み自体が、誰かに押し込まれたものかもしれない。


 自分のものだと思っていた前提が、実は最初から誰かの作為を含んでいた。

 それは罪悪感より、もっと深い孤独を生む。


「次は」

 ハザマが言う。

「あなたが何を失う可能性があるのか、正確に伝えます」

「失う」

「あなたがこの世界を読む方法です」

「……」


 エリシアは机の白い面を見つめる。


 ここで初めて、彼女は自分の善意が壊れたのではなく、その善意が乗っていた読み方そのものが失われるかもしれないと知った。


 それは、ただの罰よりずっと怖かった。

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