第29話
午後の慈善会準備室は、善意と見栄がよく似た匂いをしていた。
寄進先の候補表、席次案、来賓一覧、孤児院ごとの不足物資、教会側の要望書。
机に並んだ紙の束は、どれも人を助けるためのものに見える。
だが、どの孤児院へ多く回すか、どの令嬢をどの卓へ置くか、誰に挨拶役をさせるか。その決め方ひとつで、次の半年の空気が変わる。
ハザマは礼拝堂文書室付きとして、その準備室の隅にいた。
表向きは寄進記録の整合確認。
実際には、もちろんそれだけではない。
真木から開いたままの補助表示には、細い枝が増えていた。
《慈善会配置で王家近傍の線が三本動く》
《エリシアが入ると局所幸福は上がる》
《でも教会寄りの好感が一つ痩せる》
《相変わらず嫌ね》
嫌、で片づけるには数字がきれいすぎた。
エリシアの善意は、目の前の人間を実際に救っている。
だから余計に、全体の歪みが見づらい。
準備室の扉が開き、エリシアが入ってきた。
淡い青のドレス。今日も整いすぎた所作。
彼女は机に広がった席次案を見ると、ほとんど一息で全体の構図を読み切ったように目を走らせた。
「北卓の配置、少し変えたほうがよろしいかもしれません」
学院付きの女教師が顔を上げる。
「どうしてですの?」
「サンディエ侯爵夫人を中央へ寄せると、隣席のクレイス夫人が沈みます」
「沈む?」
「……発言の機会を失いやすい、という意味ですわ」
エリシアは言い直した。
だが、最初の一語のほうが本音に近かった気がした。
「クレイス家は今、表立って困窮してはいません」
彼女は続ける。
「でも、こういう場で一度軽く扱われると、冬の募りで引き気味になります。そうなると、次は修道院付属舎の繕いが遅れるでしょう」
「そこまで考えてますの?」
女教師が驚く。
エリシアは少しだけ困ったように笑った。
「たまたま、そういう流れが見えるだけです」
たまたま。
流れ。
予感。
彼女はいつも、そういう曖昧語で自分の知りすぎを包む。
ハザマは記録板の余白に短く書いた。
――対象、配置変更で軽度の家格圧迫を回避。
――局所救済の理由づけが結果予測に近すぎる。
準備室の空気が少し動く。
提案は採用された。
誰も損をしない。
少なくとも、その場では。
そのとき、また扉が開いた。
「し、失礼します!」
リュシエンヌだった。
両手に抱えた布見本が多すぎて、入った瞬間に一枚取り落とす。さらに拾おうとして別の端を踏み、危うく二枚目も落とす。
「待って」
エリシアがすぐに動いた。
布を受け、重なりを直し、机の角へまとめる。
リュシエンヌは耳まで赤くして笑う。
「ありがとうございます……。今日はちゃんと持てると思ったんですけど」
「その言い方をする日は、だいたい持てないのよ」
「うっ」
「否定できません……」
教師たちが少し笑う。
笑いは柔らかい。
リュシエンヌが場を悪くしないのは、その失敗が人を緊張させる方向へ行かないからだ。主人公らしいというより、そういう人間なのだろう。
「布見本はこちらへ」
ハザマが棚を示すと、
「ありがとうございます」
とリュシエンヌは素直に頭を下げた。
そのあとで彼女は席次案を覗き込み、目を輝かせる。
「わあ、北卓きれいです。前より丸い感じがします」
「丸い?」
教師が聞く。
「はい。誰かが一人だけ頑張らなくてよさそうです」
準備室が一瞬静かになった。
その感想は曖昧だ。
曖昧だが、妙に本質を突いている。
配置変更後の席次は、まさに“誰か一人だけが気まずさを引き受けなくていい”ように変わっていた。
エリシアがリュシエンヌを見る。
ほんの短い一瞬、驚きと安堵が同時に浮かんだ。
「そうね」
彼女は静かに言う。
「そのほうが、長く持つわ」
「長く?」
「……場の空気が、という意味よ」
また言い直した。
最初の言い方のほうが、やはり本音に近い。
ハザマはそこで初めて、準備室の輪に半歩だけ入った。
「ヴァレスト嬢」
「はい?」
「あなたは、人を見るときに“誰が何を引き受けるか”から考えるのですね」
部屋の空気が、ごくわずかに変わる。
礼儀に反しない問いだ。
だが、ただの文書室付きがするには少し踏み込みすぎている。
エリシアはすぐには答えなかった。
その沈黙の間に、リュシエンヌが「あ、えっと」と何か言いかけてやめる。
「……そういう見方も、あるかもしれません」
エリシアが答える。
「この方はここで困る、この方はここで庇う、そういう流れがあるなら、先にほどいたほうが皆が楽ですもの」
皆が楽。
言葉としては正しい。
だがその手前に、やはり人より位置を先に読んでいる気配がある。
「流れ、ですか」
ハザマが繰り返す。
「ええ」
エリシアは笑った。
「人は、思っているより決まったところで傷つきますから」
リュシエンヌがそこで首を傾げた。
「でも、決まってないこともありますよ」
「……え?」
「わたし、よく予定外のことしますし」
「それはそうね」
エリシアが少しだけ肩の力を抜く。
「あなたは、たぶんそういう側」
そういう側。
また、役の言葉だ。
リュシエンヌは意味がわからないまま笑っている。
その笑顔を見ながら、エリシアは一瞬だけひどく遠い顔をした。
ハザマはその横顔を見る。
彼女は善意で動いている。
だが善意の出発点は、いつも人そのものではなく、その人が場で担う位置に近い。
それに本人がまだ気づいていない。
教師が席次案をまとめ、準備室はようやく散会の気配を見せる。
リュシエンヌは布見本を今度こそ落とさないよう胸に抱え直し、扉のところで振り返った。
「エリシア様、今日も助かりました」
「今日は、ね」
「明日も助けてください」
「あなたはそうやって人を使うのね」
「えっ、ち、違います、頼ってるだけです!」
「同じようなものよ」
「ひどい」
「少し冗談」
リュシエンヌは笑い、じゃあまた明日、と手を振って出ていく。
その明るさが去ったあと、準備室は急に紙の匂いだけが濃くなった。
エリシアも帰ろうとして、扉の前で一度だけ立ち止まる。
「文書室の方」
「何ですか」
「さきほどの質問、少し意地が悪いですわ」
「そうですか」
「ええ。でも、間違ってはいないのが困ります」
それだけ言って、彼女は去った。
扉が閉じる。
ハザマはしばらく動かなかった。
端末が短く震える。
真木からだ。
《どう》
《本人、気づいてないまま役割読みしてる?》
ハザマは少し遅れて返した。
《かなり》
《善意は本物》
《だが人ではなく“その場で何を引き受けるか”から見ている》
真木の返信はすぐ来た。
《やっぱり痛いね》
《あと、さっきの配置変更》
《局所幸福また上がった》
《でも王家近傍の婚姻線、一段ずれた》
ハザマは画面を閉じる。
紙の上では、人が救われるたびに別の枝が痩せていく。
目の前では、誰も傷つかないほうへ空気が寄っている。
どちらも本当だった。
文書台の余白へ、彼はいつもより少しだけ長く記した。
――対象、善意により局所的損失を未然消去。
――結果として関係線は安定化。
――ただし本人は他者を“個”より先に“役割”として読んでいる節あり。
――無自覚であるぶん、後の自壊要因となる可能性が高い。
書き終えてから、その最後の一行だけを見返す。
自壊。
たぶんそうなる。
このまま進めば、どこかで彼女は、自分の善意の出発点が“人”ではなく“役”だったと知る。
その時の孤独は、かなり深い。
そして、その前に管理局が切るのか、それとも知ったあとで切るのか。
そこが次の問題になるだろう。




