第28話
北階段の手すりは、昼までに修繕された。
礼拝堂付き文書室から修繕願いを回し、学院管理区へ印を通し、夕刻前には職人が入った。
事故は起きない。
誰も手を滑らせない。
それ自体は良いことのはずだった。
だが管理局の観測では、ひとつ事故が消えるたびに、その先に続いていた自然な線も別の場所へ流れていく。
端末の補助表示に、真木から短い通知が来ていた。
《北階段の転落枝、消失》
《代わりに午后の回廊接触が一本消えた》
《聖職者見習いと主人公の自然接続、また一段薄くなった》
《局所幸福は上》
《やっぱり嫌な感じ》
ハザマは表示を閉じた。
嫌、で済ませるには正確すぎる観測だった。
エリシアは今日も、誰も傷つけずに世界をずらしている。
*
午後、礼拝堂文書室には紙の匂いがこもっていた。
寄進台帳、奨学金記録、聖歌集の補修依頼、礼拝席順の参照表。
学院と礼拝堂と貴族社会は、華やかに見えるわりに紙でできている。紙に残った家名や印章や寄進額が、そのまま人間関係の下敷きになる。
ハザマが古い綴じ紐をほどいていると、扉の向こうで控えめなノックがした。
「失礼いたします」
エリシアだった。
侯爵令嬢が文書室へ自分で来るのは珍しい。
珍しいが、彼女の場合はもうそれだけで不自然とは言い切れない。必要なら来るだろう、と先に思わせる種類の人間になってしまっている。
「何か御用ですか」
ハザマが事務的に問う。
「去年の冬季寄進記録を少し」
エリシアは言った。
「南区孤児院への配分比率を確認したいのです」
内容があまりにも具体的で、文書室付きの書記官見習いが目を丸くする。
「寄進記録、ですか」
「ええ。今月の慈善会で参考にしたくて」
「そちらなら、第三棚の……」
見習いは言いかけて、手を止めた。
「いえ、第二棚でしたかしら」
エリシアはほとんど間を置かずに答える。
「第三棚です。ただ、南区分だけ去年の秋に別綴じへ移されていますわ」
「どうしてご存じで?」
「以前、少しだけ確認したことがありましたので」
その場にいた三人が、同時には納得しなかった。
知っていてもおかしくない。
だが、別綴じへ移されたことまで覚えているのは近すぎる。
その近さを、エリシア本人だけがうまく自覚していないように見えた。
ハザマは立ち上がり、第三棚の奥から細い綴じを引き抜く。
確かに、南区分だけ別扱いだった。
「こちらです」
「ありがとうございます」
エリシアは礼を言って、記録へ目を落とす。
その読み方が速い。
ただ速いだけでなく、どこに何があるかをあらかじめ知っている人間の目つきに近い。
「今年は配分を少し変えたほうが良さそうですわね」
彼女が独り言のように言う。
「昨年の冬は南区に偏りすぎて、北側の修道院付属舎が足りなかったはずですもの」
見習い書記官が瞬く。
「その記録は、表の寄進簿には出ませんが……」
「ええ。でも冬明けの補填記録に出るでしょう」
「……どうして」
「なんとなく、そういう流れに見えるだけですわ」
なんとなく。
予感。
流れ。
彼女はいつも、そういう曖昧語で自分の知りすぎを包む。
ハザマは紙束を揃えながら言う。
「慈善会に関わっておられるのですか」
「少しだけ」
エリシアが答える。
「今年は寄進先の扱いで空気が悪くなりそうだったので、先に見ておきたくて」
空気が悪くなりそう。
その表現もまた、正しいが近すぎる。
「悪くなると?」
「北側の修道院は、表に出して困るほど困窮しているわけではありません」
「ですが」
「見えにくい場所ほど、後で遺恨になることがあります」
その言い方に、ハザマは少しだけ指を止めた。
読んだ物語を知っているというより、
そこに残る“後味”まで知っている言い方だった。
そのとき、また扉が開いた。
「すみません、楽譜の返却はここで――あっ」
リュシエンヌだった。
両腕に抱えた冊子が多すぎて、入ってきた瞬間に一冊落とす。
本人は「あっ」と言ったきり、その次にどれを拾うべきか一瞬迷う。
その迷い方まで、いかにも彼女らしい。
エリシアが先に動いた。
落ちた冊子を拾い、まだ崩れていない束の下へ手を差し入れる。
「重ね方が逆よ。大きいものを下に」
「ありがとうございます……!」
リュシエンヌは顔を赤くした。
「今日は大丈夫だと思ったんですけど」
「そう言う日は、だいたい大丈夫ではないのよ」
「うっ」
文書室の空気が少し緩む。
見習い書記官まで小さく笑った。
リュシエンヌは笑われても嫌な顔をしない。
むしろ自分もつられて笑った。
「こちらへ」
ハザマが返却棚を示すと、
「ありがとうございます」
とリュシエンヌは素直に礼を言う。
そのあと、彼女はエリシアへ向き直った。
「この前の茶会のこと、まだお礼を言えていませんでした」
「言ったでしょう」
「ちゃんともう一回言いたくて」
「律儀ね」
「そういうところだけは」
少しドジだけど、でもちゃんと人を見ている。
エリシアはその返答に、ほんの少しだけ目を細めた。
「あなたはそういう役回りが好きなのね」
と、彼女はほとんど無意識に言った。
リュシエンヌが首を傾げる。
「役回り?」
「……いえ」
エリシアはすぐに言い直した。
「人にきちんと返すのが好きなのね、という意味よ」
リュシエンヌは納得したようなしないような顔で笑ったが、ハザマはその一語を聞き逃さなかった。
役回り。
彼女はまだ無自覚だ。
だが、人を見るときに、ときどき“人そのもの”より一歩先に“その人が担う位置”を見ている。
リュシエンヌは冊子を返し終えると、また一冊だけ取り落とし、今度は自分で「ああもう」と笑ってから拾った。
そうして去っていく。
明るさだけが少し長く残る。
扉が閉まったあと、エリシアは小さく息を吐いた。
「……本当に、かわいらしい方ですわね」
「好意的ですね」
ハザマが言うと、
「ええ」
エリシアは頷いた。
「以前から、そういう方だと思っていましたもの」
以前から。
まだ会う前から。
ゲーム知識ならそれで説明がつく。
だが、いまハザマの耳に残ったのは別の部分だ。
そういう方。
役回り。
彼女は善意で動いている。だが善意の前に、相手の位置を読んでいる。
「あなたは」
ハザマが言う。
「人のつまずく場所を、先に見つけるのが得意なのですね」
エリシアの視線が、初めて少しだけこちらへ止まる。
「そう……かもしれません」
「どうして」
「どうして、でしょう」
彼女は答えに困ったというより、答えがありすぎて選べないように見えた。
「昔から、なんとなく」
「なんとなく」
「ええ。誰がどこで困るか、少しだけ筋が見えることがあるのです」
「筋」
「その方が、どういう場面で傷つくか、と言い換えてもいいかもしれません」
そこまで言ってから、エリシア自身が言葉に引っかかったように黙る。
傷つく“場面”。
人間ではなく、場面から読んでいる。
「変な言い方でしたわね」
と彼女は笑った。
「忘れてください」
「難しいですね」
ハザマは事実として返す。
エリシアは少しだけ目を細めた。
この男は、曖昧に流してくれない。
失礼ではないが、やさしくもない。
その距離感が、逆に気になる。
「文書室の方は、ずいぶんよく見ておられるのですね」
「職分です」
「便利な言葉ですこと」
「そうでもありません」
その返答に、今度はエリシアがわずかに笑った。
ほんの少しだけ、本音が通った気がしたのかもしれない。
彼女は記録を閉じる。
「お手数をおかけしました」
「構いません」
「また来るかもしれませんわ」
「必要なら」
必要。
彼女にとっては、いつも必要なのだろう。
破滅しないために。
誰かを助けるために。
そしてたぶん、自分が“悪役令嬢”にならないで済むように。
エリシアが去ったあと、ハザマはしばらくその場に立っていた。
文書室の空気は静かで、紙の匂いだけが残る。
端末へ真木から短く通知が届く。
《そっち、接触どう》
《切りにくいでしょ》
ハザマは数秒遅れて返す。
《善意は本物》
《ただし、人ではなく位置から読んでいる節がある》
真木の返信は、珍しく少し遅かった。
《あー》
《それは痛い》
《本人が後で気づくと、一番きついやつ》
ハザマは画面を閉じる。
そうだろう。
今のエリシアは、まだ人を役割として見ている自覚がない。
ただ、助けるべき場面が見えてしまうだけだと思っている。
だから救う。
だから局所幸福は増える。
だからこそ、後でその出発点に気づいたとき、たぶん深く孤独になる。
北階段の手すりはその日のうちに、さらに締め直された。
誰も落ちなかった。
誰も怪我をしなかった。
それでも、ハザマにはその“何も起きなかったこと”のほうが、ずっと重く見えた。




