第27話
学院付礼拝堂文書室・臨時記録監査補佐。
榊が渡してきた偽装身分は、そのくらい地味だった。
「華やかな案件ほど、裏口は地味にしろ」
と榊は言った。
「目立つ席は、目立つ人間にしか似合わない」
その理屈はもっともだったので、ハザマは反論しなかった。
文書室なら礼拝堂にも学院本棟にも出入りできる。貴族名簿、寄進記録、奨学金台帳、礼拝当番表。人間関係の表層ではなく、その下を流れる線に触れられる。
朝のコーヒーはいつも通りまずかった。
その一定のまずさだけを飲み込んでから、ハザマは王立学院の西棟へ入った。
白い石床。高い窓。柔らかな陽光。
ここだけ見れば、世界はきれいに整っている。
だが、整っている場所ほど、少しのズレが長く残る。
*
その日の午前、礼拝堂前の回廊で、小さな揉め事が起きかけた。
起きかけた、というのが重要だった。
下級貴族の娘が、寄進名簿の控えを持って立ち尽くしている。顔色が悪い。聖堂付き書記官は困り顔で、その横では別の令嬢があからさまに苛立っていた。
「順番が違いますわ」
「ですが、わたくしの家の記載が……」
「記載漏れを礼拝前に持ち込まれても困ります」
「でも、今日の席順に関わると……」
席順。
学院では小さなことだが、貴族社会では小さくない。礼拝席の位置は、家格と寄進と当人の評価を、あからさまではない形で測る装置になる。
書類の端を見ただけで、ハザマにはだいたいの構図が読めた。
寄進名簿の転記漏れ。礼拝前の訂正不能。席順の低下。恥。小さな遺恨。
この世界では、それだけで十分に先の分岐が動く。
彼が出るより早く、別の声が入った。
「その記載、昨日の夕刻分が反映されていないだけですわ」
エリシアだった。
淡い灰青のドレス。整いすぎた所作。だが声色は柔らかい。
彼女は困っている令嬢の横へ立ち、書類の欄を指で示した。
「追記欄の印が古い形式ですもの。朝の転記班が見落としたのでしょう」
「どうしてわかりますの?」
書記官が目を瞬く。
「先週、礼拝堂側で記録書式が半月ぶりに戻ったでしょう。暫定用紙だけ旧式の印のままだったはずです」
その場の全員が一瞬だけ黙った。
知っていてもおかしくはない。
だが、学院の令嬢が、礼拝堂文書の運用癖をそこまで正確に知っているのは少しだけ不自然だった。
エリシア本人は、その不自然さに気づいていないように見えた。
ただ、困っている相手を救うために、いま必要な知識を出しただけの顔をしている。
「確認を」
彼女が書記官へ静かに促す。
「西棟控えの三段目、昨日付の追加入力票にあるはずですわ」
そこまで言われてしまえば、確かめるしかない。
書記官は慌てて文書室へ走り、数分後、本当にその記録を持って戻ってきた。
席順は保たれた。
困っていた娘は涙ぐみ、何度も頭を下げる。
苛立っていた令嬢も、あからさまに矛を収めるしかなかった。
「ありがとうございます、エリシア様」
「大したことではありませんわ」
「でも、わたくし、家へ顔向けできなくなるところでした」
「なら、間に合って良かった」
その言葉は本物だった。
打算の形をしていても、目の前の娘が救われたことを本当に良かったと思っている声だった。
回廊の柱影から見ていたハザマは、端末へ短く打つ。
――対象、局所的信用失墜を回避。
――礼拝席順由来の遺恨発生を未然消去。
――介入知識が現場職掌に近すぎる。
送信後、一拍置いて、もう一行。
――善意は本物。
そこへ、軽い足音が駆けてきた。
「ご、ごめんなさい、遅れました!」
リュシエンヌだった。
やはり、来るだけで少し空気が変わる。明るい。良くも悪くも人の視線を引く。しかも、急いでいるのに途中で裾を踏みかける。
「危ない」
エリシアが反射で手を伸ばす。
リュシエンヌは転ばずに済み、そのあとで照れたように笑った。
「ありがとうございます、エリシア様。今日はちゃんと気をつけるつもりだったんですけど」
「それを言う人ほど転ぶのよ」
「うっ……否定できません」
周囲に小さな笑いが漏れる。
嘲りではない。やわらかい笑いだ。
リュシエンヌがこの場にいるだけで、空気の重さが一段下がり、やわらかくなる。
それは本来なら“主人公性”として片づく性質なのだろう。だが、いま目の前にいる彼女は、物語の中心というより、人としてそういう癖を持っているだけにも見える。
エリシアは、その笑顔を少しだけ眩しそうに見ていた。
「今日は礼拝のあと、写本室でしたわよね?」
リュシエンヌが言う。
「ええ」
エリシアが答える。
「でも、その前に北階段は使わないほうがいいわ」
「え?」
「手すりの留め具が少し緩んでいるの。今朝見たから」
「そうなんですね。教えてくださってよかった」
ハザマの視線がわずかに止まる。
いまのは、ぎりぎり自然だ。
だが“今朝見た”にしては、リュシエンヌが使う時間まで含めて先回りしすぎている。
エリシア自身も、言ったあとでほんの少しだけ黙った。
口にした理由は作れる。作れるが、彼女が本当に知っていたのは、留め具の緩みそのものより、そのあと誰がどこで手を滑らせるかに近い気配だった。
ハザマは柱影を離れた。
観測から接近へ移るなら、これ以上は外周にいすぎないほうがいい。
「礼拝堂文書室の者です」
声をかけると、書記官が先に振り向いた。
「ちょうど良かった。先ほどの入力票の旧式印、確認したい」
「承知しました」
とハザマは答え、自然にその輪へ入る。
エリシアの目が一度だけこちらを見る。
ただの文書係として見るには、少し輪郭が冷たいと思ったのかもしれない。だが警戒まではしない。学院にはこういう、目立たない顔の大人が何人もいる。
「あなたが先ほど指摘したのですね」
ハザマがエリシアへ言う。
「はい」
「文書室の運用まで詳しい」
「以前、礼拝寄進の記録を確認したことがありましたので」
「侯爵令嬢が?」
「必要なことでしたから」
答えは自然だ。
自然だが、必要以上に自然でもある。
ハザマはそれ以上追わず、書類へ目を落とす。
「旧式印の件、確かに反映漏れです」
そして書記官へ向かって言う。
「次回から追加入力票は別綴じに。礼拝前の混線を防げます」
「助かります」
その場はそれで収まる。
誰も傷つかない。誰も恥をかかない。
局所的には、完璧だ。
リュシエンヌがほっとしたように笑う。
「今日は良かったです。みんな困らなくて済んで」
「そうね」
エリシアが答える。
「それが一番いいわ」
その返答もまた、本物だった。
ハザマは彼女の横顔を見る。
善意。
知りすぎた善意。
それが人を救ってしまっているから、単純な違法知識介入よりずっと扱いが悪い。
礼拝の鐘が鳴り、人々が散っていく。
エリシアとリュシエンヌも並んで歩き出す。途中、リュシエンヌがまた少しだけ躓き、今度は自分で笑ってごまかす。
「本当に気をつけます」
「たぶん、明日も言っているわ」
「ひどい」
「事実よ」
「否定できません」
そのやり取りだけで、二人の距離が前よりさらに近づいているとわかる。
周囲にとっては良いことだ。
管理局にとっては、良いことのままでは済まない。
去り際、エリシアがふと振り返った。
「文書室の方」
と彼女はハザマへ言う。
「北階段の件、念のため今日中に見ておいたほうがいいですわ」
「なぜですか」
「……嫌な予感がするので」
答えてから、彼女自身が一番困った顔をした。
予感。
そう言い換えるしかない類いの知識。
「予感ですか」
ハザマがそのまま返すと、
「ええ。そういうことにしておいてください」
とエリシアは少しだけ笑った。
曖昧な笑みだった。
善意を隠すためではない。説明できない近さを、自分でも持て余している笑みだった。
ハザマは軽く会釈する。
「確認します」
「そうしてくださいませ」
二人が去ったあと、ハザマは本当に北階段へ向かった。
手すりの留め具は、確かに緩んでいた。
今日中に落下事故へ繋がるほどではない。
だが、明日の朝には一人、確実に手を滑らせる位置だ。
ハザマはそれを見て、端末を閉じる。
これはもう、ただ見ているだけでは足りない。
だが、まだ切る段階でもない。
その中間へ足を踏み入れたことだけが、はっきりとわかった。




