第26話
幸福寄与が高い案件ほど、画面の色がきれいで嫌になる。
管理局の簡易観測端末には、今日もエリシア・ヴァレストの周辺だけ、柔らかい安定色が並んでいた。
侍女離反率、低下。
婚約破綻リスク、低下。
学園内敵対熱、低下。
主人公側情動安定、上昇。
そこだけ見れば、処理どころか推奨すべき改善策みたいだった。
だが、その下で別の線が静かに歪んでいる。
婚姻外交分岐、変動。
王権近傍派閥、微動。
教会支持流向、遅延変位。
いずれも小さい。小さいが、管理局がいちばん嫌う種類の小ささだった。すぐには破綻せず、あとで効く。
ハザマは学院西棟の回廊から、礼拝堂へ続く中庭を見下ろしていた。
エリシアは今日も、先回りしていた。
礼拝前、下級貴族の娘が聖歌集を落としかける。
本来なら、それを笑う者が一人いて、そこから小さな嘲りが生まれる。その場にいたリュシエンヌが庇い、聖職者見習いの攻略対象が彼女へ好感を抱く。ルートとしては美しい。人間関係としては少しだけ歪だ。
エリシアはその前に動いた。
「紐が解けていますわ」
ただそう言って、聖歌集を受け取って結び直す。
娘は赤くなって礼を言う。
誰も笑わない。
リュシエンヌも庇う必要がないまま、明るく「良かった」と笑う。
礼拝堂前の空気は、そのまま穏やかに流れていく。
局所的には、完璧だった。
完璧だからこそ、その場を起点に伸びる別の線が見える。
本来そこでリュシエンヌへ寄るはずだった聖職者見習いは、今日は彼女と長く話さない。代わりに、エリシアへ一度だけ視線を向ける。その一度が、あとで教会系支持に薄く効く。そこからさらに、婚姻と継承の帯へ影が伸びる。
ハザマは端末へ記録する。
――対象、局所摩擦を事前消去。
――結果として主人公側の自然接続を部分的に逸らす。
――幸福は増加。分岐ノイズも増加。
後ろで、補助接続中の真木の声が小さく鳴った。
「嫌な増え方」
「見えてる」
「そっちの礼拝堂前、王家近傍の枝が一本ずれた」
「一本で済むか」
「済まないわね、たぶん」
彼女はそれ以上言葉を足さない。
いま必要なのは解説ではなく、観測だった。
礼拝が終わったあと、中庭に出てきたリュシエンヌは、やはり主人公らしい顔で笑っていた。
優しくて、明るくて、少しドジで、誰かの不安へ無防備に手を伸ばしてしまう顔だ。
彼女はエリシアを見つけると、花壇の縁を少し駆け足で寄ってきた。
その途中で、きちんと小石を踏んでよろける。
エリシアは反射で手を伸ばす。
リュシエンヌの手首を支える。
転ばない。
笑う。
また一つ、何も悪くならずに済む。
「助かりました、エリシア様」
「今日はよくつまずくのね」
「たぶん考えごとです」
「考えごと?」
「ええ。わたし、最近少し変で」
リュシエンヌはそう言ってから、困ったように笑った。
「起きていないはずのことを、起きそうな気がすることがあるんです」
エリシアの指先がわずかに強張る。
「たとえば、聖歌集が落ちるとか。階段で誰かが困るとか。気のせいだってわかってるんですけど」
「……そう」
「でも、今日は何も起こらなくてよかった」
その“よかった”は本物だった。
誰かが困らずに済んだことを、素直に喜んでいる。
リュシエンヌはそういう娘だ。
エリシアはしばらく答えなかった。
彼女の沈黙を、リュシエンヌは自分の言い方が変だったせいだと思ったらしく、すぐ慌てて笑い直す。
「ごめんなさい、変なこと言いました」
「いいえ」
エリシアは静かに言った。
「変ではないわ」
「え?」
「……そういうことも、あるのかもしれない」
その返答は、ゲーム知識だけで生きている人間のものではなかった。
もっと近い。
もっと、自分も同じ異常の縁に手をかけている者の言い方だった。
ハザマはそこで、確信に近いものを得る。
エリシアは未来を知っているのではない。
少なくとも、ただゲームの分岐表を頭に入れて動いているのではない。
この世界から漏れた断片を、乙女ゲームの“原作知識”として受け取っている。
だから台詞だけでなく、痛み方や息の詰まり方まで知ってしまう。
そしてその知識を、彼女は善意で使っている。
真木の声がまた来る。
「どう?」
「ほぼ同じ結論だ」
「ゲーム知識じゃなくて、人生断片の受信寄り?」
「その可能性が高い」
「最悪ね」
「同意する」
礼拝堂の鐘がもう一度鳴る。
生徒たちは散り、エリシアとリュシエンヌも別れる。
去り際、リュシエンヌは明るく手を振り、エリシアは少し遅れて、それでもちゃんと振り返す。
美しい場面だった。
何も壊れていない。
誰も傷ついていない。
だからこそ、管理局の論理に乗せた瞬間にひどく見える。
ハザマは端末へ最後の記録を打った。
――対象の善意は本物。
――局所幸福への寄与も本物。
――それでも全体分岐からは外れない。
――本案件は、悪意ある改変ではなく、善意ある改変の処理になる可能性が高い。
送信前、指が一度止まる。
ユウトは、守ろうとしていた。
レオンは、止めることを自分で選んだ。
そしてエリシアは、救ってしまっている。
案件の性質が少しずつ変わるたび、正しさの手触りも変わる。
それでも処理の側に立つなら、どこかで善意も切るしかない。
ハザマは送信した。
そして、誰にも聞こえないくらいの声で、ただ事実として言う。
「これは、善意を切る話になる」




