第25話
その世界が乙女ゲームに似ている、ではもうなかった。
エリシアにとっては、乙女ゲームそのものだった。
前世で何度もやり直した『銀花のラストノート』。
攻略対象は王子、近衛騎士、聖職者、隣国の公子。
主人公は平民出身の少女リュシエンヌ。
そしてエリシア・ヴァレストは、どのルートでも途中で嫌われ、最後には転落する悪役令嬢だった。
最初に名前が揃ったとき。
次に学院の中庭が、記憶していた背景画面そのままみたいに陽に光ったとき。
最後に、リュシエンヌが笑いながら階段を踏み外しかけたとき。
そこでエリシアは、これはもう偶然では済まないと確信した。
ただし最近、その確信は少しだけ形を変え始めている。
ゲームを知っている、だけなら説明しにくいことが増えてきたからだ。
「エリシア様、今日は中庭で茶会ですのよね?」
侍女のマリベルが、薄桃のリボンを指先で整えながら言う。
「ええ」
エリシアは頷いた。
「風が強くならなければいいのだけれど」
原作では、この茶会で小さな事故が起きる。
リュシエンヌが少し躓き、茶器を倒し、周囲の令嬢がざわつく。そこへエリシアが冷たく言葉を落とし、空気が完全に割れる。攻略対象の一人がリュシエンヌをかばい、好感度が上がる。悪役令嬢ルートの、目立たないが確かな分岐点。
だから今日は、その場を穏やかに終わらせる。
そう決めていた。
王立学院の中庭は今日も明るすぎるほど明るかった。
白い石床。整いすぎた生垣。風に揺れる花。
そこへ集まるのは、若い貴族たちの礼儀と虚栄と、ほんの少しの本音だ。
リュシエンヌは、やはり少し遅れてやって来た。
「ご、ごめんなさい! 道で小さい子が転びそうになっていて……!」
明るくて、素直で、少し息が上がっている。
そして言い訳に聞こえそうなことすら、本当にそのまま口に出してしまう。
原作主人公らしいといえば、それまでだ。だが実際に目の前で見ると、いかにも作られた“主人公性”ではなく、人の良さがそのまま不器用に出ているだけにも見えた。
髪を押さえながら笑う。
すぐ謝る。
緊張すると少し手元が雑になる。
それでも相手を見て話そうとする。
優しくて、明るくて、少しドジで。
これを嫌うのは、たぶん難しい。
「急がなくてよろしいのよ」
エリシアが先に言った。
「まだ始まったばかりだもの」
リュシエンヌはほっとしたように笑った。
「ありがとうございます、エリシア様」
「礼を言われるほどでもないわ」
この時点で、すでに原作とは違う。
本来なら、ここでもっと空気は硬かった。
リュシエンヌの遅刻は無礼に数えられ、エリシアの一言は冷たく、周囲の令嬢たちはそれを面白がる。
でも今日は違う。
違ってしまった。
茶会は穏やかに始まった。
けれど穏やかさは、壊れる前提で置かれているときほど脆い。
案の定、リュシエンヌの手がカップの持ち手を取り損ねた。
磁器が揺れる。茶がこぼれかける。
そこでエリシアは椅子を引いた。
誰より先に。
「危ない」
カップを受け、テーブルクロスの端を押さえ、茶器が倒れる向きを逸らす。
リュシエンヌは真っ赤になった。
「す、すみません……!」
「大丈夫。火傷は?」
「平気です」
「ならよかった」
それだけだった。
本当に、それだけ。
けれど原作では、この“それだけ”が起きなかった。
起きなかったから人間関係は少しずつ悪くなっていった。
なら、起きた今は少しずつ良くなっていくのだろうか。
「エリシア様って、お優しいのですね」
別の令嬢が、半ば意外そうに言った。
その言葉に悪意はない。
ないからこそ少し痛い。
エリシアは曖昧に笑う。
優しいのではない。
破滅したくないだけだ。
そう返したくなったが、返せるわけもない。
だが、リュシエンヌはそんな裏側を知らずに、まっすぐ言った。
「前からそう思っていました」
「……そう」
「はい。最初は少し怖かったけど」
中庭の空気がやわらぐ。
攻略対象の一人である近衛騎士見習いが、今日は誰もかばう必要がないまま笑っている。
令嬢たちも、リュシエンヌを面白い子だと受け止め始めている。
局所的には、本当に良い方向だった。
向こう側の回廊、その日陰からハザマは一連の流れを見ていた。
端末は薄い手帳に偽装されている。
画面には数値が並ぶ。
侍女離反率、低下。
婚約破綻リスク、低下。
令嬢派閥の敵対熱、低下。
主人公側情動安定、上昇。
その代わりに、別の線がじわじわ上がる。
婚姻外交分岐、微動。
王権支持流向、軽度変動。
教会系支持先、遅延変位。
幸福は増えている。
増えているのに、分岐のノイズも増えている。
真木から短く通知が来る。
《局所幸福寄与、昨日比でさらに上》
《でも王家周辺の枝が嫌な増え方してる》
《いま切ると読者が怒るタイプ》
最後の一文だけ、真木の私情だった。
だが、間違っていないとも思った。
ハザマは返信しない。
代わりにエリシアへ視線を戻す。
彼女は次の場面で、さらに一歩踏み込んだ。
中庭の隅、聖堂付きの回廊へ繋がる小径で、リュシエンヌが立ち止まる。
原作なら、ここで彼女は聖職者ルートの攻略対象と偶然出会い、落とした栞を拾われ、静かな好感度イベントが発生する。
だからエリシアは、先にその栞を見つけて拾った。
「これ、あなたのでしょう」
「えっ、あ、はい……! どこで……」
「落としそうになっていたから」
リュシエンヌは受け取って、照れたように笑う。
「ありがとうございます。これ、大事なんです」
「聖典の栞?」
「そうです。ほら、この端、ちょっと曲がってて」
彼女がそう言った瞬間、エリシアの口が勝手に動いた。
「祭礼の階段で踏まれたのよね」
空気が止まる。
リュシエンヌが目を瞬かせた。
笑みはまだ消えていない。
だがその奥に、純粋な驚きが走る。
「……え?」
「……」
エリシア自身も、言ってから固まった。
知っている。
知っているが、原作でそこまで説明されていた記憶はない。
ただ、なぜかそうだとわかった。階段の冷たさも、踏まれたときの乾いた音も、一瞬だけ自分の中にあった。
「どうして、それを」
リュシエンヌが言う。
エリシアは返事に詰まる。
「……たまたま、そう見えたの」
「見えた?」
「ごめんなさい。変な言い方だったわ」
リュシエンヌは首を傾げる。
彼女は深く疑う性格ではない。優しくて明るくて、少しドジで、そのぶん人を怖がりきれない。
だから今も、ただ不思議そうにしているだけだ。
そのことが、逆にエリシアには苦しかった。
ハザマは回廊の影で、初めてはっきりと違和感を掴んだ。
読んだ物語をなぞっているだけなら、あんな反応にはならない。
そこにあったはずの細部――階段、足音、紙の傷み方――を、まるで本人の体感に近いところから拾っている。
真木の言葉がまたよぎる。
――“物語を知ってる”というより、“そこにいたことがあるものを、物語として受け取ってる”みたい。
ハザマは端末へ打つ。
――対象、知識介入が場面情報を越えている。
――読書記憶ではなく体感記憶に近い反応あり。
――原作知識の出所に再検討が必要。
そして、もう一行だけ足す。
――善意は本物。だから処理時の反発も強い。
中庭では、何事もなかったように午後の授業の鐘が鳴る。
令嬢たちは散り、リュシエンヌも軽く会釈して去っていく。
エリシアだけが、その場に少しだけ立ち尽くした。
風が花の香りを運ぶ。
明るい。
きれいだ。
だからこそ、知りすぎていることの嫌さが際立つ。
エリシアは小さく息を吐き、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……どうして、そんなことまで知ってるの」
その問いは、リュシエンヌへではなく、自分へ向いていた。
ハザマはその顔を見て、確信までは行かないまでも、一つだけ理解する。
これはもう、単なる乙女ゲーム知識ではない。
そしてそれが善意に結びついているからこそ、たぶん前よりずっと厄介だ。




