第24話
エリシア・ヴァレストは、朝の鏡を見るたびに、まだ少しだけ緊張する。
白い肌。淡い金髪。侯爵家の令嬢にふさわしく整えられた顔立ち。
鏡の中のその少女は、もう何年も見慣れているはずなのに、ときどきまだ、自分のものではない気がした。
朝倉真琴だった頃の顔は、もうかなり曖昧だ。
それでも、会社帰りの駅前で、濡れたアスファルトに光が滲んでいたことだけは時々思い出す。そこから先は途切れている。痛みがあったのかも、誰かが呼んだのかも、はっきりしない。
気づけば、エリシア・ヴァレストとして、ここにいた。
そしてもっと悪いことに、ここはたぶん、真琴が知っていた“あの物語”の世界だった。
王立学院。
侯爵令嬢。
婚約者である第二王子。
平民出身の聖女候補。
高慢な悪役令嬢が破滅していくために、丁寧に整えられた舞台。
最初にそれへ気づいたとき、エリシアは三日ほどまともに眠れなかった。
原作どおりなら、自分は嫌われる。取り返しのつかない失言を重ね、侍女の信頼を失い、婚約者に見限られ、最後には家ごと落ちる。
だから決めたのだ。
高慢にはならない。
誰かを見下さない。
“悪役令嬢らしさ”を一つずつ捨てていく。
それが破滅回避の最短経路だと信じて。
「お嬢様、髪飾りはこちらで」
侍女のマリベルが、小箱を差し出す。
原作では、この侍女は中盤で離れる。エリシアの八つ当たりに耐えきれず、敵対派閥へ情報を流す側に回ったはずだ。
だからエリシアは最初の一年で、彼女への接し方だけは徹底して変えた。
「ありがとう。今日は白い方がいいかしら」
「はい。学院の礼拝日ですので」
「ではそれで」
たったそれだけの会話でも、真琴だった頃の彼女には、十分おそろしかった。
原作知識があるから優しくする。
優しくした結果として、相手が自分を裏切らない。
その循環が、正しいのか打算なのか、自分でもたまにわからなくなる。
だが、わからなくても続けるしかない。
破滅したくないという願いは、それくらい切実だった。
王立学院の朝は、少し眩しすぎる。
白い石造りの校舎。
整えられた花壇。
噴水の水音。
若い貴族たちの衣擦れ。
色褪せた前世とは違う、夢のような世界。
けれどエリシアにとっては、ここもまた戦場だ。
廊下の角を曲がる前に、一度だけ歩幅を緩める。
この先で、同級生の令嬢二人が聖女候補リュシエンヌの噂話をしている。原作では、そこでエリシアがそれに加わり、陰口の中心に立ってしまう。小さな一場面だが、好感度の下落には十分だった。
だから今日は、そこへ行く前に違う話題を差し込む。
「おはようございます」
先に声をかける。
二人が振り向く。噂話を切り上げる。
「昨日の礼法講義、難しかったですわね」
エリシアが言うと、片方の令嬢がすぐ食いついた。
「本当に。扇の角度まで見られるなんて」
「わたくし、二度も直されました」
空気が変わる。
噂はそこで消える。
救ったと言うほど大きなことではない。だが、原作では確かにここからリュシエンヌへの悪意が育っていった。
エリシアは胸の奥で、小さく息を吐く。
一つ。
また一つ、破滅の枝を折った。
けれど、その安堵のすぐあとには、薄い罪悪感も来る。
自分だけが、まだ起きていない関係の悪化を知っている。だから先に塞げる。それは良いことのはずなのに、ときどき少しだけ、相手の一回目を盗んでいるようにも感じる。
「エリシア様」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
そこにいたのは、リュシエンヌ本人だった。
原作の“主人公”。
平民出身でありながら特別な資質を見出され、学院へ入ってくる少女。
物語の中では、エリシアは彼女を見下し、最終的に自分から落ちていく。
けれど実際のリュシエンヌは、見下すにはあまりに普通の、少し緊張した十六歳の娘にしか見えなかった。
「この前は、ありがとうございました」
リュシエンヌが言う。
「図書室の許可証のことです」
「大したことではありませんわ」
「でも、助かりました」
原作ではここ、許可証の手続きで彼女が困り、エリシアが遠回しに邪魔をする場面だった。
だからエリシアは、先回りして書類の記入欄を教えただけだ。
ただそれだけで、少女はこんなふうに真っすぐ礼を言う。
やめてほしい、とエリシアは思う。
そんなふうに真っすぐ来られると、自分が“破滅回避のために良い人を演じている”みたいで苦しくなる。
「本当に、気になさらないで」
そう返すのが精いっぱいだった。
リュシエンヌが去ったあと、背後から別の声が落ちる。
「最近のおまえは、妙に親切だな」
婚約者のルシアン第二王子だった。
原作では、ここでエリシアは苛立ちをあらわにし、さらに印象を悪くする。
だからエリシアは笑みを崩さない。
「そう見えますか」
「見える」
「それは良かったですわ」
ルシアンは少しだけ怪訝そうにエリシアを見る。
以前の彼女なら、もっと刺々しく返したはずなのだろう。事実、最初の数か月はエリシアも自分をうまく抑えられなかった。慣れない家格、慣れない身体、慣れない言葉づかい。破滅回避どころではなかったのだ。
それでも今は、だいぶましになった。
「おまえ、何か企んでるのか」
ルシアンが半ば冗談で言う。
心臓が、一瞬だけ止まりかける。
それは原作知識を持っている側には、少し刺さりすぎる問いだった。
企んでいる。
少なくとも、破滅しないように先回りしている。
それを企みと呼ぶなら、呼ばれても反論しにくい。
「企み、ですか」
「前より怒らなくなった。前より人を見ている。だから逆に気になる」
「……それは、良い変化ではありませんの?」
「どうだろうな」
ルシアンはそこで笑った。
軽い笑い方だった。
原作より少しだけ早く、少しだけ柔らかい。
エリシアは、その違いに気づいてしまう。
気づいてしまうから、もう戻れない。
自分の行動で何かが変わっている。
たぶん良くなっている。
それが嬉しい。
嬉しいのに、嬉しがっていいのかもわからない。
物語の流れを勝手に変えて、勝手に胸をなで下ろしているだけかもしれないからだ。
昼休み、学院の中庭は花の匂いが濃かった。
エリシアは一人で歩きながら、ふいに足を止める。
前方、噴水の縁。
そこに本来なら、侍女のマリベルが書類を落とし、それを拾おうとして別の令嬢とぶつかり、小さな揉め事が起こる。そこから派閥の空気が少し悪くなる。地味だが、後で効く場面だ。
だからエリシアは、先にマリベルのところへ寄る。
「その書類、紐が緩んでいるわ」
「え?」
「貸して」
さっと結び直す。
紙は落ちない。
揉め事も起きない。
マリベルは目を丸くする。
「お嬢様、よくお気づきに」
「たまたまよ」
たまたまではない。
見たことがあるからだ。
正確には、見たことがある。知っていることがある。けれど最近、その“知っている”の質が少し変だと感じることがある。
物語を覚えているだけなら、もっと曖昧な記憶でいいはずだ。
なのにときどき、そこにあった空気や、誰かの息の詰まり方まで、自分は知っている気がする。
たとえば今だってそうだ。
マリベルが書類を落としたとき、ただ揉め事になるだけじゃない。彼女はそのあと、小さく泣きそうになる。そんな細部まで、なぜか“物語の知識”以上に実感がある。
「……変なの」
思わず口に出る。
「何がですか?」
マリベルが不思議そうに問う。
「いえ、何でもないわ」
誤魔化したが、自分でも少しだけ怖かった。
もしこれは、ただ原作を覚えているのではなく、別の何かを触っているのだとしたら。
そう考えたところで、すぐに頭を振る。いま必要なのは哲学ではなく、今日を無事に終えることだ。
中庭の端、木陰の下から、その一部始終を見ている男がいた。
ハザマだった。
学院の事務官補佐に見える仮姿。
端末は薄い手帳に見せかけてある。
彼はさっきから、エリシアの介入点だけを静かに拾っていた。
噂の切断。
許可証の補助。
婚約者との誤解回避。
侍女の失敗の先回り。
どれも派手ではない。
だが、どれも確実に空気を変える。
しかも問題なのは、その変え方だった。
力で押していない。
恐怖でもない。
むしろ、局所的には本当に良い方向へ寄せている。
ハザマは端末へ短く打つ。
――対象、局所幸福寄与を継続。
――敵対回避、人間関係安定化、派閥摩擦低下。
――ただし知識の使用範囲が広すぎる。
そこで一度、指が止まる。
広すぎる。
だが、ただの知識チートにしては質感が違う。
エリシアは未来を知っている、というより、そこで何が痛むかまで知っているように動く。
読んだ物語をなぞる人間のふるまいではない。もっと、そこにいた者の先回りに近い。
真木の言葉が頭をよぎる。
――“物語を知ってる”というより、“そこにいたことがあるものを、物語として受け取ってる”みたい。
ハザマは目を細めた。
花の匂い。
陽光。
穏やかな会話。
その中心にいる侯爵令嬢は、少なくともこの瞬間だけ見れば、誰かを壊す側の人間には見えない。
それでも、知りすぎている。
それがこの世界にとって良いことなのか、悪いことなのか。
少なくとも管理局は、まだ前者とは見ない。
エリシアが笑う。
マリベルも笑う。
小さな揉め事は起こらず、昼の中庭はそのまま穏やかに流れていく。
その様子を見ながら、ハザマははっきり思う。
これはたぶん、切るときが来たら、かなり嫌な案件になると。




