表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第5章 乙女ゲームの世界

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/31

第24話

 エリシア・ヴァレストは、朝の鏡を見るたびに、まだ少しだけ緊張する。


 白い肌。淡い金髪。侯爵家の令嬢にふさわしく整えられた顔立ち。

 鏡の中のその少女は、もう何年も見慣れているはずなのに、ときどきまだ、自分のものではない気がした。


 朝倉真琴だった頃の顔は、もうかなり曖昧だ。

 それでも、会社帰りの駅前で、濡れたアスファルトに光が滲んでいたことだけは時々思い出す。そこから先は途切れている。痛みがあったのかも、誰かが呼んだのかも、はっきりしない。


 気づけば、エリシア・ヴァレストとして、ここにいた。


 そしてもっと悪いことに、ここはたぶん、真琴が知っていた“あの物語”の世界だった。


 王立学院。

 侯爵令嬢。

 婚約者である第二王子。

 平民出身の聖女候補。

 高慢な悪役令嬢が破滅していくために、丁寧に整えられた舞台。


 最初にそれへ気づいたとき、エリシアは三日ほどまともに眠れなかった。

 原作どおりなら、自分は嫌われる。取り返しのつかない失言を重ね、侍女の信頼を失い、婚約者に見限られ、最後には家ごと落ちる。


 だから決めたのだ。

 高慢にはならない。

 誰かを見下さない。

 “悪役令嬢らしさ”を一つずつ捨てていく。


 それが破滅回避の最短経路だと信じて。


「お嬢様、髪飾りはこちらで」


 侍女のマリベルが、小箱を差し出す。

 原作では、この侍女は中盤で離れる。エリシアの八つ当たりに耐えきれず、敵対派閥へ情報を流す側に回ったはずだ。


 だからエリシアは最初の一年で、彼女への接し方だけは徹底して変えた。


「ありがとう。今日は白い方がいいかしら」

「はい。学院の礼拝日ですので」

「ではそれで」


 たったそれだけの会話でも、真琴だった頃の彼女には、十分おそろしかった。

 原作知識があるから優しくする。

 優しくした結果として、相手が自分を裏切らない。

 その循環が、正しいのか打算なのか、自分でもたまにわからなくなる。


 だが、わからなくても続けるしかない。

 破滅したくないという願いは、それくらい切実だった。


 王立学院の朝は、少し眩しすぎる。


 白い石造りの校舎。

 整えられた花壇。

 噴水の水音。

 若い貴族たちの衣擦れ。

 色褪せた前世とは違う、夢のような世界。


 けれどエリシアにとっては、ここもまた戦場だ。


 廊下の角を曲がる前に、一度だけ歩幅を緩める。

 この先で、同級生の令嬢二人が聖女候補リュシエンヌの噂話をしている。原作では、そこでエリシアがそれに加わり、陰口の中心に立ってしまう。小さな一場面だが、好感度の下落には十分だった。


 だから今日は、そこへ行く前に違う話題を差し込む。


「おはようございます」


 先に声をかける。

 二人が振り向く。噂話を切り上げる。


「昨日の礼法講義、難しかったですわね」

 エリシアが言うと、片方の令嬢がすぐ食いついた。

「本当に。扇の角度まで見られるなんて」

「わたくし、二度も直されました」


 空気が変わる。

 噂はそこで消える。

 救ったと言うほど大きなことではない。だが、原作では確かにここからリュシエンヌへの悪意が育っていった。


 エリシアは胸の奥で、小さく息を吐く。


 一つ。

 また一つ、破滅の枝を折った。


 けれど、その安堵のすぐあとには、薄い罪悪感も来る。

 自分だけが、まだ起きていない関係の悪化を知っている。だから先に塞げる。それは良いことのはずなのに、ときどき少しだけ、相手の一回目を盗んでいるようにも感じる。


「エリシア様」


 名前を呼ばれ、顔を上げる。

 そこにいたのは、リュシエンヌ本人だった。


 原作の“主人公”。

 平民出身でありながら特別な資質を見出され、学院へ入ってくる少女。

 物語の中では、エリシアは彼女を見下し、最終的に自分から落ちていく。


 けれど実際のリュシエンヌは、見下すにはあまりに普通の、少し緊張した十六歳の娘にしか見えなかった。


「この前は、ありがとうございました」

 リュシエンヌが言う。

「図書室の許可証のことです」

「大したことではありませんわ」

「でも、助かりました」


 原作ではここ、許可証の手続きで彼女が困り、エリシアが遠回しに邪魔をする場面だった。

 だからエリシアは、先回りして書類の記入欄を教えただけだ。

 ただそれだけで、少女はこんなふうに真っすぐ礼を言う。


 やめてほしい、とエリシアは思う。

 そんなふうに真っすぐ来られると、自分が“破滅回避のために良い人を演じている”みたいで苦しくなる。


「本当に、気になさらないで」


 そう返すのが精いっぱいだった。


 リュシエンヌが去ったあと、背後から別の声が落ちる。


「最近のおまえは、妙に親切だな」


 婚約者のルシアン第二王子だった。


 原作では、ここでエリシアは苛立ちをあらわにし、さらに印象を悪くする。

 だからエリシアは笑みを崩さない。


「そう見えますか」

「見える」

「それは良かったですわ」


 ルシアンは少しだけ怪訝そうにエリシアを見る。

 以前の彼女なら、もっと刺々しく返したはずなのだろう。事実、最初の数か月はエリシアも自分をうまく抑えられなかった。慣れない家格、慣れない身体、慣れない言葉づかい。破滅回避どころではなかったのだ。


 それでも今は、だいぶましになった。


「おまえ、何か企んでるのか」

 ルシアンが半ば冗談で言う。


 心臓が、一瞬だけ止まりかける。


 それは原作知識を持っている側には、少し刺さりすぎる問いだった。

 企んでいる。

 少なくとも、破滅しないように先回りしている。

 それを企みと呼ぶなら、呼ばれても反論しにくい。


「企み、ですか」

「前より怒らなくなった。前より人を見ている。だから逆に気になる」

「……それは、良い変化ではありませんの?」

「どうだろうな」


 ルシアンはそこで笑った。

 軽い笑い方だった。

 原作より少しだけ早く、少しだけ柔らかい。


 エリシアは、その違いに気づいてしまう。

 気づいてしまうから、もう戻れない。


 自分の行動で何かが変わっている。

 たぶん良くなっている。


 それが嬉しい。

 嬉しいのに、嬉しがっていいのかもわからない。

 物語の流れを勝手に変えて、勝手に胸をなで下ろしているだけかもしれないからだ。


 昼休み、学院の中庭は花の匂いが濃かった。


 エリシアは一人で歩きながら、ふいに足を止める。

 前方、噴水の縁。

 そこに本来なら、侍女のマリベルが書類を落とし、それを拾おうとして別の令嬢とぶつかり、小さな揉め事が起こる。そこから派閥の空気が少し悪くなる。地味だが、後で効く場面だ。


 だからエリシアは、先にマリベルのところへ寄る。


「その書類、紐が緩んでいるわ」

「え?」

「貸して」


 さっと結び直す。

 紙は落ちない。

 揉め事も起きない。


 マリベルは目を丸くする。


「お嬢様、よくお気づきに」

「たまたまよ」


 たまたまではない。

 見たことがあるからだ。

 正確には、見たことがある。知っていることがある。けれど最近、その“知っている”の質が少し変だと感じることがある。


 物語を覚えているだけなら、もっと曖昧な記憶でいいはずだ。

 なのにときどき、そこにあった空気や、誰かの息の詰まり方まで、自分は知っている気がする。


 たとえば今だってそうだ。

 マリベルが書類を落としたとき、ただ揉め事になるだけじゃない。彼女はそのあと、小さく泣きそうになる。そんな細部まで、なぜか“物語の知識”以上に実感がある。


「……変なの」


 思わず口に出る。


「何がですか?」

 マリベルが不思議そうに問う。


「いえ、何でもないわ」


 誤魔化したが、自分でも少しだけ怖かった。


 もしこれは、ただ原作を覚えているのではなく、別の何かを触っているのだとしたら。

 そう考えたところで、すぐに頭を振る。いま必要なのは哲学ではなく、今日を無事に終えることだ。


 中庭の端、木陰の下から、その一部始終を見ている男がいた。


 ハザマだった。


 学院の事務官補佐に見える仮姿。

 端末は薄い手帳に見せかけてある。

 彼はさっきから、エリシアの介入点だけを静かに拾っていた。


 噂の切断。

 許可証の補助。

 婚約者との誤解回避。

 侍女の失敗の先回り。

 どれも派手ではない。

 だが、どれも確実に空気を変える。


 しかも問題なのは、その変え方だった。


 力で押していない。

 恐怖でもない。

 むしろ、局所的には本当に良い方向へ寄せている。


 ハザマは端末へ短く打つ。


 ――対象、局所幸福寄与を継続。

 ――敵対回避、人間関係安定化、派閥摩擦低下。

 ――ただし知識の使用範囲が広すぎる。


 そこで一度、指が止まる。


 広すぎる。

 だが、ただの知識チートにしては質感が違う。


 エリシアは未来を知っている、というより、そこで何が痛むかまで知っているように動く。

 読んだ物語をなぞる人間のふるまいではない。もっと、そこにいた者の先回りに近い。


 真木の言葉が頭をよぎる。


 ――“物語を知ってる”というより、“そこにいたことがあるものを、物語として受け取ってる”みたい。


 ハザマは目を細めた。


 花の匂い。

 陽光。

 穏やかな会話。

 その中心にいる侯爵令嬢は、少なくともこの瞬間だけ見れば、誰かを壊す側の人間には見えない。


 それでも、知りすぎている。


 それがこの世界にとって良いことなのか、悪いことなのか。

 少なくとも管理局は、まだ前者とは見ない。


 エリシアが笑う。

 マリベルも笑う。

 小さな揉め事は起こらず、昼の中庭はそのまま穏やかに流れていく。


 その様子を見ながら、ハザマははっきり思う。


 これはたぶん、切るときが来たら、かなり嫌な案件になると。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ