第23話
異世界管理局本部の朝は、たいていコーヒーの味が悪い。
酸味も香りも薄く、熱だけがやけに正確だ。
それでもハザマは、現場帰還の翌朝には必ず一杯飲む。苦味の質が一定だからだ。一定であることは、それだけで現実感の代用品になる。
処理室の隣の小さな給湯区画で、紙コップから立つ湯気を見ながら、ハザマは端末の表示を追っていた。
【案件番号】IWMA-CL/02-03
【対象】レオン・グラーツ(現地名)
【状態】暫定固定
【正式処理】保留
【備考】保全干渉あり/発信源不明
【備考】外部人格由来の可能性高
【備考】朝帯共有化 一時停止
【備考】保全残響 微量継続
そこまで読んで、ハザマは一口飲む。
うん、まずい。
だが、まずさに集中できるうちはまだいい。
「その顔だと、今日も美味しくないみたいね」
真木が背後から言った。
灰色の業務服。眠そうな目。端末を抱えたまま歩く癖。
彼女はハザマの紙コップを見ると、いらないという顔で首を振る。
「レオン案件、暫定固定の波形は安定してる」
「共有化は」
「表面上は止まった。少なくとも街路帯の既視感は引いた」
「表面上」
「そこを拾うのがあなたの悪い癖よ」
真木は補助画面を展開した。
「でも、今回はその悪い癖が当たってる。残響が微量で続いてる。完全停止じゃない」
「本人は」
「レオン・グラーツとしては維持。外部断片は沈静化傾向。けど、“元の名前”が出るほどではない」
「三文字は」
「まだ三文字のまま」
ハザマはうなずくだけに留める。
レオンの元の人格。
保全対象。
主系列。
残しただけだ、と言った声。
その意味、その過程、何一つ終わっていない。終わっていないのに、案件欄ではもう「暫定固定」「保留」の二語に畳まれている。
「榊は?」
「いつも通り。成果と損失を一枚で見てる」
「葛西は」
「いつもより機嫌が悪い」
それは予想どおりだった。
監督室へ入ると、榊と葛西はすでに揃っていた。
榊は紙の薄い報告板を見ている。葛西は眼鏡の位置を微調整したあと、ハザマが座るまで何も言わない。
「レオン案件」
榊が先に口を開いた。
「暫定固定の実行、その後の共有、報告まで確認した」
「はい」
「結果だけ見れば悪くない。都市帯ノイズは下がった」
「手順だけ見れば悪い」
葛西が言う。
ハザマは否定しない。
「遅延共有、現場判断の拡張、対象との接触深度、どれも規定上は好ましくない」
「はい」
「だが現場がそこで止まらなかったから、今の数字がある」
榊が平坦に言う。
「だから処罰はしない。評価も保留だ」
「便利ですね」
ハザマが言う。
「制度とはそういうものだ」
榊が返す。
葛西は端末を閉じた。
「対象レオン・グラーツはどう扱う」
「本部移送。限定観測区画で保留」
榊が答える。
「正式処理は?」
「しない。まだ」
「なぜ」
「保全側の語彙が管理局深部の古い層管理語に近いからだ」
榊の声は変わらない。
「内外どちらにせよ、ここで雑に消すと失うものが大きい」
葛西は不満そうではあったが、反論はしなかった。
数値上の損失と、未解決の損失が並んだとき、管理局は意外と後者も計算に入れる。
「対象本人の状態は」
葛西が問う。
真木が補う。
「自己同一性は不安定。でも会話可能。外部断片は断続的。現地人格との結合は維持されてる」
「要するに」
「生きてるけど、終わってない」
真木が言う。
その言い方がいちばん正確だった。
榊はそこで話を切った。
「レオン案件は一度棚に置く」
「棚に置く」
ハザマが繰り返す。
「そうだ。未解決のまま、な」
その物言いに、ハザマは少しだけ目を細めた。
棚に置く。
消すでも、残すでも、保つでもなく。
管理局にはそういう中途半端な言葉もある。
「そして次だ」
榊が言う。
空気が変わる。
葛西も真木も、視線の角度だけで仕事を切り替える。
レオンは棚に置かれ、案件番号としては奥へ押しやられる。そうやって組織は回る。
壁面スクリーンが切り替わった。
最初に出てきたのは、花だった。
白い石造りの校舎。
陽光。
手入れされた庭園。
噴水。
制服姿の若い男女。
ここ最近で見てきた煤、濁水、血、石蔵とは、あまりにも温度が違う。
ハザマは何も言わずに画面を見る。
「案件番号IWMA-CL/05-01」
榊が読み上げる。
「対象仮称、エリシア・ヴァレスト。侯爵令嬢。十七歳」
真木が補助画面をひらく。
家系図、婚約関係、王権近傍の派閥図、宗教勢力、国外との婚姻外交、学園内序列。
華やかな画面の裏に、いつもの管理局の線が重なる。
「典型的な貴族学園ものに見える」
ハザマが言う。
「見えるだけではない」
榊が返す。
「実際、局所文化としてはそうだ」
「“見えるだけではない”って便利な言い方ね」
真木が小さく言う。
榊は無視して続ける。
「対象は地球側由来の人格侵入体である可能性が高い。だが、勇者型のような顕著な権能演出はない」
「知識型か」
「その可能性が高い。対象は、この世界を“自分の知る原作”だと認識している」
「原作?」
「地球側で流通した創作物に酷似する構造を、本人が自己申告している」
ハザマの眉が、ごくわずかに動く。
レオンの黒い道。白い線。
ユウトの残留。
そして今度は、地球側の創作物。
「その世界で何をしている」
「破滅回避だ」
榊が言う。
「本来なら高慢さゆえに破滅するはずの立場を捨て、誠実にふるまい、敵対予定者にも先回りして善意を示している」
「結果は」
葛西が問う。
真木が表示を切り替えた。
婚約破綻リスクの低下。
対立派閥の緩和。
侍女の離反率低下。
周辺人物の情動安定。
読めば読むほど、局所的には“良いこと”が起きている。
「……面倒だな」
ハザマが言う。
「まだ早い」
榊は淡々と返す。
「面倒なのはそこじゃない」
スクリーンに、別のグラフが重なる。
婚姻外交のズレ。
宗教勢力の支持流向変化。
後継順位への細い影響。
局所幸福の増加と引き換えに、王権近傍の分岐がじわじわ動いている。
「善意が局所的には人を救っている」
真木が言う。
「でも、そのせいで中長期分岐が変わる」
「本人に悪意は?」
葛西が言う。
「現時点では低い」
「汚染としては?」
「十分」
部屋が少し静かになる。
ユウトは勇者だった。
レオンは死なない男だった。
どちらも、まだ処理対象としての見た目があった。
だが今度は違う。
「対象本人は、自分が誰かを救っているつもりか」
ハザマが問う。
「その可能性が高い」
榊が答える。
「そして実際、局所的には救っている」
その一言が、嫌に重かった。
葛西が確認する。
「では処理の正当性は、今回さらに説明困難になる」
「現場ではそうなる」
榊が言う。
「だからおまえが行く、ハザマ」
「はい」
「ただし今回は、最初から熱源が違う。力でも死でもない」
「知識と善意」
ハザマが言う。
「そうだ」
真木が補助画面の端を拡大した。
「あと一つ」
「何だ」
ハザマが見る。
そこには、地球側で刊行されたとされる創作物の粗い情報と、エリシア側の行動履歴が重ねられていた。
完全一致ではない。
だが、偶然とも切りづらい。
「本人が知ってる“原作”」
真木が言う。
「これ、少し変」
「何が」
「一致しすぎるところと、ズレすぎるところがある」
「創作としては普通では」
葛西が言う。
「そこが違う」
真木は目を細めた。
「読んで知ってるにしては、刺さり方が生々しい。まるで“物語を知ってる”というより、“そこにいたことがあるものを、物語として受け取ってる”みたい」
ハザマは何も言わなかった。
地球側の創作。
別世界から漏れた断片。
まだ線にならない。
だが、嫌な方向には近づいている。
榊が最後に言う。
「橋渡しは以上だ。レオン案件は棚上げ。次はエリシア案件に入る」
「了解」
「今回は、最初から処理の顔で入るな」
「……はい」
「対象を先に見ろ。世界を先に見ろ。そのあとで汚染かどうかを決めろ」
「命令ですか」
「助言だ」
「珍しいですね」
「たまにはする」
会議が切れる。
真木は退室前にハザマへだけ小さく言った。
「今回のほうが嫌かもね」
「何が」
「善人を切る準備するの」
彼女はそれ以上何も言わずに去る。
給湯区画へ戻り、ハザマは冷めかけたコーヒーを飲んだ。
まずい。
だが、今朝は妙に苦味だけがはっきりしていた。
端末へ、新しい現地観測ログの接続準備が届く。
《案件接続待機:エリシア・ヴァレスト》
《観測環境:王立学院/侯爵家/婚約系分岐》
《推定汚染性:中〜高》
《局所幸福寄与:高》
最後の一行が、妙に目に残る。
幸福寄与。
それが処理対象の補足欄に載ること自体が、もう嫌だった。
ハザマは表示を閉じる。
そして、次の世界へ入る前にほんの一瞬だけ、レオン案件の保留ファイルへ視線を戻した。
元人格未確定。
保全干渉あり。
主系列関連語。
保全残響、微量継続。
終わっていない。
だが、次が始まる。
画面が切り替わる。
陽光の差す庭園。
白い校舎。
風に揺れる花。
その中心で、淡い色のドレスの少女が誰かへ微笑んでいた。
見た瞬間、ハザマは思った。
これはたぶん、もっと嫌な話になる。




