第30話
慈善会の夜は、よくできた劇の初日みたいだった。
礼拝堂に近い講堂の壁には白布が張られ、花と燭台が均等に置かれている。
寄進者たちの卓、学院関係者の席、修道院側の控え。
子どもたちが歌う位置まで、全部が整っていた。
整いすぎている、とハザマは思った。
会の運営表と席次表は、昼のうちに二度書き換えられている。
どちらも大きな変更ではない。
ただ、誰かが少し恥をかく位置、誰かが一人だけ気まずさを引き受ける位置、誰かが沈黙のまま終わる位置が、丁寧に消されていた。
端末の補助表示には、真木からの短文が出ていた。
《局所幸福寄与 上昇》
《婚姻線 もう一段ずれた》
《教会系支持も薄く移動》
《全部きれいすぎて、もちろん嫌》
ハザマは表示を閉じ、講堂の空気を見る。
令嬢たちは穏やかに笑い、寄進者たちは機嫌よく頷き、子どもたちは怯えすぎず、教師たちは安堵している。
局所的には、本当に良い会だった。
そしてその中心に、エリシアがいる。
彼女は目立ちすぎない場所に立ちながら、ほとんど全体を動かしていた。
給仕の歩幅が乱れればさりげなく卓を引く。
令嬢同士の気まずい間が生まれかければ、別の話題を差し込む。
子どもが歌い出しを忘れそうになれば、その直前に視線だけで支える。
どれも善意だ。
しかも効いている。
「エリシア様って、気が利きますのね」
年上の伯爵夫人が笑う。
「たまたまですわ」
エリシアは柔らかく返す。
たまたま。
流れ。
予感。
いつもの曖昧語だ。
だが今夜、その曖昧さは少しずつ持たなくなり始めていた。
*
最初の綻びは、歌の順番で出た。
本来なら、第三曲のあとに拍手が少し長引き、子どもの一人が緊張で出だしを忘れる。
そこでリュシエンヌが明るく声をかけ、場が和む。
小さな一場面だが、原作なら彼女の好感が上がる箇所だった。
エリシアはそれを先に潰した。
「三曲目のあと、すぐに四曲目へ繋げたほうがいいわ」
と教師へ言い、
「間を空けると、二列目の左端の子が止まるから」
教師はきょとんとした。
「左端の子?」
「……いえ、緊張して見えたので」
言い換えはした。
だが遅かった。
教師は不思議そうな顔をしながらも従い、実際、左端の子は四曲目の頭で一瞬だけ息を呑んだものの、止まらずに済んだ。
子どもは救われた。
会も滞らなかった。
それでも、その場にいた数人は、エリシアを少し違う目で見た。
どうしてそこまでわかるのか、という目だ。
リュシエンヌも、歌の列の向こうから一度だけエリシアを見ていた。
不信ではない。
ただ、理解しきれないものを見る顔だった。
*
次の綻びは、もっと小さかった。
給仕の少年が銀盆を持って回廊から入ってくる。
本来なら、右端の卓で袖を取られてわずかに傾き、一人の令嬢のドレスへ雫が飛ぶ。
そこから空気が凍る。
今夜の席次変更でその凍り方は少しやわらいでいるはずだったが、エリシアはさらにその前を切った。
「そこで止まって」
彼女が言う。
少年は反射で止まる。
「次の一歩で滑るわ」
「え?」
「……水が落ちているから」
実際、石床には薄い水膜があった。
誰も気づいていなかった。
誰も転ばなかった。
局所的には、また完璧だった。
けれど、完璧さが累積すると、やがて完璧のほうが目立ち始める。
ルシアン第二王子が、グラスを傾けたまま言う。
「おまえ、本当に次に起きることが見えているみたいだな」
軽い調子の言葉だった。
だが、講堂の近くにいた者たちはみな、少しだけ静かになった。
エリシアは笑みを崩さない。
「殿下、さすがにそれは言いすぎですわ」
「そうか?」
「ただ、嫌な流れが見えるだけです」
「流れ、ね」
ルシアンはそれ以上は言わなかった。
だが、冗談にしては視線が鋭かった。
ハザマはそのやりとりを見ながら、端末へ一行だけ送る。
――対象の先読みが、周囲に“違和感”として認識され始めた。
真木の返信は短かった。
《溢れかけてる》
その通りだった。
*
会の終盤、子どもたちへの小さな配り物が始まる。
菓子包みと、冬用の薄手の肩布。
誰が何を受け取るか、どの順で渡すか、それだけで微妙な気まずさが生まれる場面だった。
だからエリシアは、昼のうちに配り順まで整えていた。
誰も一人で余り物を渡されないように。
誰も“哀れまれた側”に見えないように。
その配慮は細かく、正しく、そしてやはり知りすぎていた。
だが一つだけ、今夜は原作から外れた。
原作ならここで、リュシエンヌが順番を間違えて笑われ、それでも明るく立て直し、場の緊張をほどく。
だからエリシアは、先に彼女へ渡す包みの位置まで把握していた。
ところが、リュシエンヌはその位置へ行かなかった。
目の前で泣きそうになっている一人の小さな少女へ、予定を無視して先にかがみ込んだのだ。
「だいじょうぶです。ほら、順番が少し後ろなだけですから」
「でも、わたし……」
「待つのって不安ですよね。わたしもすぐ不安になります」
優しくて、明るくて、少しドジで、
でも、予定より先に人を見てしまう。
そのズレが、エリシアの中で一瞬うまく処理できなかった。
「違う」
と彼女は言った。
声は強くなかった。
だが、近くの何人かが聞いた。
「そこじゃないの」
リュシエンヌが顔を上げる。
「……え?」
「あなたは、そこじゃなくて」
エリシアは言いかけて、止まる。
止まったが、もう遅い。
“あなたはそこでそう動く役じゃない”
という後半が、場に出る前の形で残ってしまった。
リュシエンヌの表情が、初めて少しだけ曇る。
「エリシア様?」
「……ごめんなさい、違うの。そういう意味じゃなくて」
「どういう意味ですか?」
問いは柔らかい。
責めているわけではない。
だからこそ痛い。
ルシアンも、教師も、近くの令嬢たちも黙る。
会の空気は壊れていない。
壊れていないが、均衡がずれた。
エリシアは説明を探す。
流れ。予感。たまたま。
いつもの曖昧語が、今夜はどれも遅い。
「あなたは」
彼女はとうとう、最悪に近い言葉を選びかける。
「あなたは、そういう役じゃ――」
そこで、ハザマが前へ出た。
「ヴァレスト嬢」
声は高くない。
だが、全員の視線を一度だけ引き受けるには十分だった。
「北卓の寄進札、確認をお願いしたい」
会の運営に必要な用件の顔をした、明らかな割り込みだった。
教師が「いまですか」と言いかけ、ハザマは事務的に頷く。
「いまです。表記揺れが出ています」
嘘ではない。
ただし、本当にいま急ぐ必要があるほどではない。
エリシアは一拍だけ立ち尽くし、それから救われたような、追い詰められたような顔で頷いた。
「……承知しました」
彼女がハザマの方へ歩き出す。
リュシエンヌはその背中を見送って、何も言わなかった。
だが、笑ってもいなかった。
*
講堂の外、礼拝堂へ続く白い回廊は夜気で少し冷えていた。
人の声はまだ遠くにある。
会は続いている。
だがここだけ、別の時間へ抜けたみたいに静かだった。
エリシアは数歩進んでから立ち止まる。
「……助けたつもりですか」
振り返らずに言う。
「会を壊したくなかっただけです」
ハザマが答える。
「同じことでは?」
「あなたにとっては」
エリシアが息を吐く。
細い。少し震えている。
「聞いていたのでしょう」
「はい」
「では、どう思いました?」
「いまのままでは溢れます」
「……溢れる」
何が溢れるのか。
でも、なんとなくわかる。
「私は、誰も傷つけたくないだけです」
エリシアが言う。
「だから先にほどいている。先に止めている。先に嫌な思いを消している。それの何がいけないのです」
「局所的には何も」
「局所的」
「はい」
「便利な言い方ですね」
「知っています」
エリシアはそこで初めて振り返る。
笑っていない。
泣いてもいない。
ただ、自分の中の何かが少しだけ崩れた顔をしている。
「私は、間違っているのですか」
「それを今すぐ決める気はありません」
「……それも、便利」
ハザマは答えず、代わりに問う。
「あなたは、なぜリュシエンヌがあそこへ行かないと困ると思ったのですか」
「それは」
「言えますか」
「……」
言えない。
“あの場面では、彼女はそこで人を救う役だから”とは、さすがに言えない。
エリシアは目を伏せる。
「私には、ときどき流れが見えるのです」
「人ではなく?」
「……」
沈黙が、答えより先に落ちた。
ハザマはそれを見て、ほぼ確信する。
彼女はもう、人を役から切り離して見られていない。
それでも善意は本物だ。
だから、気づいた時の傷が深い。
遠くで、講堂の拍手が起こる。
慈善会はまだ美しく進んでいる。
ハザマは静かに言った。
「次は、あなた自身に話を聞きます」
「取調べですか」
「違います」
「では?」
「確認です」
「何を」
「あなたが何を知っていて、何を“役”として見ているのかを」
エリシアの顔が、ほんの少しだけこわばる。
そのとき回廊の向こうから、リュシエンヌの声がした。
「エリシア様?」
優しくて、明るくて、少し不安そうな声。
その一声だけで、いまの会話はもう続けられない。
エリシアは返事をしない。
できない。
ただ、ハザマを一度だけ見た。
その目には、助けてほしいとも、黙っていてほしいとも、どちらとも言えない色が混じっていた。
ハザマは何も約束しない。
「明日」
とだけ言う。
「時間を取ってください」
リュシエンヌの足音が近づく。
エリシアは遅れて頷き、それからいつもの笑顔を作ろうとして、少し失敗した。
その失敗だけで十分だった。
案件はもう、観測だけでは保たない。
均衡は崩れかけている。
次に必要なのは、見守ることではなく、対話と、切断の準備だ。




