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異世界管理局ハザマ ―転生勇者は処理対象です  作者: 理寿人
第6章 溢れ出る夜

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第30話

慈善会の夜は、よくできた劇の初日みたいだった。


 礼拝堂に近い講堂の壁には白布が張られ、花と燭台が均等に置かれている。

 寄進者たちの卓、学院関係者の席、修道院側の控え。

 子どもたちが歌う位置まで、全部が整っていた。


 整いすぎている、とハザマは思った。


 会の運営表と席次表は、昼のうちに二度書き換えられている。

 どちらも大きな変更ではない。

 ただ、誰かが少し恥をかく位置、誰かが一人だけ気まずさを引き受ける位置、誰かが沈黙のまま終わる位置が、丁寧に消されていた。


 端末の補助表示には、真木からの短文が出ていた。


《局所幸福寄与 上昇》

《婚姻線 もう一段ずれた》

《教会系支持も薄く移動》

《全部きれいすぎて、もちろん嫌》


 ハザマは表示を閉じ、講堂の空気を見る。


 令嬢たちは穏やかに笑い、寄進者たちは機嫌よく頷き、子どもたちは怯えすぎず、教師たちは安堵している。

 局所的には、本当に良い会だった。


 そしてその中心に、エリシアがいる。


 彼女は目立ちすぎない場所に立ちながら、ほとんど全体を動かしていた。

 給仕の歩幅が乱れればさりげなく卓を引く。

 令嬢同士の気まずい間が生まれかければ、別の話題を差し込む。

 子どもが歌い出しを忘れそうになれば、その直前に視線だけで支える。


 どれも善意だ。

 しかも効いている。


「エリシア様って、気が利きますのね」

 年上の伯爵夫人が笑う。

「たまたまですわ」

 エリシアは柔らかく返す。


 たまたま。

 流れ。

 予感。

 いつもの曖昧語だ。


 だが今夜、その曖昧さは少しずつ持たなくなり始めていた。


     *


 最初の綻びは、歌の順番で出た。


 本来なら、第三曲のあとに拍手が少し長引き、子どもの一人が緊張で出だしを忘れる。

 そこでリュシエンヌが明るく声をかけ、場が和む。

 小さな一場面だが、原作なら彼女の好感が上がる箇所だった。


 エリシアはそれを先に潰した。


「三曲目のあと、すぐに四曲目へ繋げたほうがいいわ」

 と教師へ言い、

「間を空けると、二列目の左端の子が止まるから」


 教師はきょとんとした。


「左端の子?」

「……いえ、緊張して見えたので」


 言い換えはした。

 だが遅かった。


 教師は不思議そうな顔をしながらも従い、実際、左端の子は四曲目の頭で一瞬だけ息を呑んだものの、止まらずに済んだ。


 子どもは救われた。

 会も滞らなかった。

 それでも、その場にいた数人は、エリシアを少し違う目で見た。


 どうしてそこまでわかるのか、という目だ。


 リュシエンヌも、歌の列の向こうから一度だけエリシアを見ていた。

 不信ではない。

 ただ、理解しきれないものを見る顔だった。


     *


 次の綻びは、もっと小さかった。


 給仕の少年が銀盆を持って回廊から入ってくる。

 本来なら、右端の卓で袖を取られてわずかに傾き、一人の令嬢のドレスへ雫が飛ぶ。

 そこから空気が凍る。

 今夜の席次変更でその凍り方は少しやわらいでいるはずだったが、エリシアはさらにその前を切った。


「そこで止まって」


 彼女が言う。

 少年は反射で止まる。


「次の一歩で滑るわ」

「え?」

「……水が落ちているから」


 実際、石床には薄い水膜があった。

 誰も気づいていなかった。

 誰も転ばなかった。

 局所的には、また完璧だった。


 けれど、完璧さが累積すると、やがて完璧のほうが目立ち始める。


 ルシアン第二王子が、グラスを傾けたまま言う。


「おまえ、本当に次に起きることが見えているみたいだな」


 軽い調子の言葉だった。

 だが、講堂の近くにいた者たちはみな、少しだけ静かになった。


 エリシアは笑みを崩さない。


「殿下、さすがにそれは言いすぎですわ」

「そうか?」

「ただ、嫌な流れが見えるだけです」

「流れ、ね」


 ルシアンはそれ以上は言わなかった。

 だが、冗談にしては視線が鋭かった。


 ハザマはそのやりとりを見ながら、端末へ一行だけ送る。


 ――対象の先読みが、周囲に“違和感”として認識され始めた。


 真木の返信は短かった。


《溢れかけてる》


 その通りだった。


     *


 会の終盤、子どもたちへの小さな配り物が始まる。


 菓子包みと、冬用の薄手の肩布。

 誰が何を受け取るか、どの順で渡すか、それだけで微妙な気まずさが生まれる場面だった。

 だからエリシアは、昼のうちに配り順まで整えていた。


 誰も一人で余り物を渡されないように。

 誰も“哀れまれた側”に見えないように。

 その配慮は細かく、正しく、そしてやはり知りすぎていた。


 だが一つだけ、今夜は原作から外れた。


 原作ならここで、リュシエンヌが順番を間違えて笑われ、それでも明るく立て直し、場の緊張をほどく。

 だからエリシアは、先に彼女へ渡す包みの位置まで把握していた。


 ところが、リュシエンヌはその位置へ行かなかった。


 目の前で泣きそうになっている一人の小さな少女へ、予定を無視して先にかがみ込んだのだ。


「だいじょうぶです。ほら、順番が少し後ろなだけですから」

「でも、わたし……」

「待つのって不安ですよね。わたしもすぐ不安になります」


 優しくて、明るくて、少しドジで、

 でも、予定より先に人を見てしまう。


 そのズレが、エリシアの中で一瞬うまく処理できなかった。


「違う」

 と彼女は言った。


 声は強くなかった。

 だが、近くの何人かが聞いた。


「そこじゃないの」


 リュシエンヌが顔を上げる。


「……え?」

「あなたは、そこじゃなくて」


 エリシアは言いかけて、止まる。

 止まったが、もう遅い。


 “あなたはそこでそう動く役じゃない”

 という後半が、場に出る前の形で残ってしまった。


 リュシエンヌの表情が、初めて少しだけ曇る。


「エリシア様?」

「……ごめんなさい、違うの。そういう意味じゃなくて」

「どういう意味ですか?」


 問いは柔らかい。

 責めているわけではない。

 だからこそ痛い。


 ルシアンも、教師も、近くの令嬢たちも黙る。

 会の空気は壊れていない。

 壊れていないが、均衡がずれた。


 エリシアは説明を探す。

 流れ。予感。たまたま。

 いつもの曖昧語が、今夜はどれも遅い。


「あなたは」

 彼女はとうとう、最悪に近い言葉を選びかける。

「あなたは、そういう役じゃ――」


 そこで、ハザマが前へ出た。


「ヴァレスト嬢」


 声は高くない。

 だが、全員の視線を一度だけ引き受けるには十分だった。


「北卓の寄進札、確認をお願いしたい」


 会の運営に必要な用件の顔をした、明らかな割り込みだった。

 教師が「いまですか」と言いかけ、ハザマは事務的に頷く。


「いまです。表記揺れが出ています」


 嘘ではない。

 ただし、本当にいま急ぐ必要があるほどではない。


 エリシアは一拍だけ立ち尽くし、それから救われたような、追い詰められたような顔で頷いた。


「……承知しました」


 彼女がハザマの方へ歩き出す。

 リュシエンヌはその背中を見送って、何も言わなかった。

 だが、笑ってもいなかった。


     *


 講堂の外、礼拝堂へ続く白い回廊は夜気で少し冷えていた。


 人の声はまだ遠くにある。

 会は続いている。

 だがここだけ、別の時間へ抜けたみたいに静かだった。


 エリシアは数歩進んでから立ち止まる。


「……助けたつもりですか」


 振り返らずに言う。


「会を壊したくなかっただけです」

 ハザマが答える。

「同じことでは?」

「あなたにとっては」


 エリシアが息を吐く。

 細い。少し震えている。


「聞いていたのでしょう」

「はい」

「では、どう思いました?」

「いまのままでは溢れます」

「……溢れる」


 何が溢れるのか。

 でも、なんとなくわかる。


「私は、誰も傷つけたくないだけです」

 エリシアが言う。

「だから先にほどいている。先に止めている。先に嫌な思いを消している。それの何がいけないのです」

「局所的には何も」

「局所的」

「はい」

「便利な言い方ですね」

「知っています」


 エリシアはそこで初めて振り返る。

 笑っていない。

 泣いてもいない。

 ただ、自分の中の何かが少しだけ崩れた顔をしている。


「私は、間違っているのですか」

「それを今すぐ決める気はありません」

「……それも、便利」


 ハザマは答えず、代わりに問う。


「あなたは、なぜリュシエンヌがあそこへ行かないと困ると思ったのですか」

「それは」

「言えますか」

「……」


 言えない。

 “あの場面では、彼女はそこで人を救う役だから”とは、さすがに言えない。


 エリシアは目を伏せる。


「私には、ときどき流れが見えるのです」

「人ではなく?」

「……」


 沈黙が、答えより先に落ちた。


 ハザマはそれを見て、ほぼ確信する。

 彼女はもう、人を役から切り離して見られていない。

 それでも善意は本物だ。

 だから、気づいた時の傷が深い。


 遠くで、講堂の拍手が起こる。

 慈善会はまだ美しく進んでいる。


 ハザマは静かに言った。


「次は、あなた自身に話を聞きます」

「取調べですか」

「違います」

「では?」

「確認です」

「何を」

「あなたが何を知っていて、何を“役”として見ているのかを」


 エリシアの顔が、ほんの少しだけこわばる。


 そのとき回廊の向こうから、リュシエンヌの声がした。


「エリシア様?」


 優しくて、明るくて、少し不安そうな声。

 その一声だけで、いまの会話はもう続けられない。


 エリシアは返事をしない。

 できない。

 ただ、ハザマを一度だけ見た。


 その目には、助けてほしいとも、黙っていてほしいとも、どちらとも言えない色が混じっていた。


 ハザマは何も約束しない。


「明日」

 とだけ言う。

「時間を取ってください」


 リュシエンヌの足音が近づく。

 エリシアは遅れて頷き、それからいつもの笑顔を作ろうとして、少し失敗した。


 その失敗だけで十分だった。


 案件はもう、観測だけでは保たない。

 均衡は崩れかけている。

 次に必要なのは、見守ることではなく、対話と、切断の準備だ。

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