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パイレーツ・コード:黄金の落日  作者: beens
第2章:吠える海、沈黙する紳士

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第8話:柑橘類とオデッセイア

 カリブ海から東洋への旅は、遠足ではない。それは終わりのない拷問だ。

 『アン女王の復讐号』が大西洋の只中へ進むにつれ、船内には倦怠と腐敗の臭いが充満し始めていた。

「皆さん! 聞いてください! これは死活問題です!」

 甲板の中央で、スティード・ボネットは木箱の上に立ち、声を張り上げていた。

 彼の周りには、凶悪な顔つきの海賊たちが気だるそうに座り込んでいる。彼らの肌は荒れ、歯茎からは血が滲んでいた。壊血病の初期症状だ。

「いいですか、人間にはビタミンが必要です。特にCが! だから、このオレンジの皮の砂糖漬けを食べるのです。さあ!」

 スティードはバスケットいっぱいのオレンジピールを差し出した。

 だが、海賊の一人がそれを手で払いのけた。

「けっ。そんな女子供の食う菓子なんぞ食えるか! 俺たちに必要なのはラム酒と肉だ!」

「そうとも! 肉をよこせ!」

 怒号が飛び交う。スティードは怯んだが、引かなかった。

「肉ばかり食べているから歯が抜けるんですよ! いいから食べなさい! これは……とても上品な味がするんだから!」

「うるせえ、海に放り込むぞ!」

 巨漢の海賊がスティードの胸ぐらを掴み上げた、その時だ。

「……食え」

 背後から、低く、絶対的な命令が響いた。

 黒髭だった。彼は船長室から出てくると、気だるげにオレンジピールを一片つまみ、口に放り込んだ。

「んむ。……悪くねえ。お前らも食え」

 船長の命令は神の言葉だ。

 さっきまで暴れていた海賊たちは、渋々ながらオレンジを口にし始めた。

「……甘ぇ」

「なんか、スッとするな」

「俺、これ好きかも」

 スティードは胸を撫で下ろし、黒髭に駆け寄った。

「ありがとうございます、エドワード。あなたのリーダーシップには感服します」

「勘違いするな。俺はただ、歯のない部下を連れて歩くのが恥ずかしいだけだ」

 黒髭はぶっきらぼうに言ったが、その目は楽しげだった。

「で? 次は何だ、教授プロフェッサー。栄養学の次は、裁縫教室でも始めるか?」

「いえ、次は『情操教育』です」

 スティードは瞳を輝かせた。「夜の娯楽が博打と殴り合いだけでは、心が荒みます。そこで、読み聞かせ会を開催しようかと」

 その夜。

 信じがたい光景が広がっていた。

 月明かりの下、ランタンの灯りを囲んで、数十人の殺人鬼たちが体育座りをしていたのだ。

 その中心には、眼鏡をかけ、分厚い本を開いたスティード・ボネットがいる。

「……そして、英雄オデュッセウスは叫びました。『我が名はウーティス(誰でもない)!』と。単眼の巨人サイクロプスは、彼に目を潰され、痛みにのたうち回りました」

 スティードが抑揚たっぷりに『オデッセイア』を朗読する。

 海賊たちは、固唾を呑んで聞き入っていた。

「おい、目を潰したってよ」

「やるじゃねえか、オデッセウス」

「で? そのあと巨人の首を刎ねたのか?」一人の海賊が興奮して尋ねる。

「い、いえ。逃げたんです、羊の腹の下に隠れて」

「逃げたぁ? 腰抜けかよ!」

「バカ野郎、戦術的撤退だ! 続きはどうなるんだ、ボンボン!」

 予想以上の反響だった。

 文字を読めない彼らにとって、物語は未知の麻薬だった。彼らはスティードの言葉一つ一つに一喜一憂し、英雄の危機には拳を握りしめ、勝利には歓声を上げた。

 その輪の外、暗がりの中で、黒髭と航海長イジー・ハンズが並んで立っていた。

「……信じられませんね」

 イジーが忌々しげに吐き捨てた。「あんなお伽話に、いい大人が夢中になってやがる。牙が抜かれますよ、エド」

「そうか?」

 黒髭は、煙管の煙を吐き出しながら、ぼんやりとスティードを見つめていた。

「俺には、牙を研いでいるように見えるがな」

「はあ?」

「物語ってのは、想像力だ。『ここではないどこか』を夢見ることだ。……今のこいつらに一番欠けているのは、それだ」

 黒髭は、自分の胸に手を当てた。

 そこには、かつて少年だった頃、世界への好奇心で震えていた心臓があったはずだ。だが、いつの間にかそれは「黒髭」という怪物を動かすための、ただのポンプになっていた。

 だが今、あの場違いな紳士の声を聞いていると、ポンプが少しだけ速く脈打つのを感じる。

「イジー。俺たちはアジアへ行く。世界最強の女海賊に会いにいく。……まるで物語オデッセイアじゃねえか」

「……正気ですか」

 イジーは冷めた目で、熱狂する船員たちと、それを満足げに見守る黒髭を睨んだ。

 このままでは、この船はダメになる。

 「恐怖」で統率された最強の軍団が、「物語」と「マーマレード」によって骨抜きにされていく。

(誰かが、目を覚まさせなきゃならねえ)

 イジーの手が、無意識のうちに腰の短剣を撫でた。

 朗読会が終わり、スティードが「続きはまた明日」と本を閉じた時、船員たちは名残惜しそうに散っていった。

 スティードが満足げに寝室へ戻ろうとした、その時だ。

 暗闇から、一本の足が突き出された。

「っと!」

 スティードは派手に転んだ。眼鏡が飛んでいく。

「おやおや、足元には気をつけないと……」

 彼が眼鏡を探して手探りすると、その手は冷たい革のブーツに触れた。

「調子に乗るなよ、道化師」

 見上げると、イジー・ハンズが氷のような目で見下ろしていた。

「キャプテンが気に入っているから生かしてあるだけだ。勘違いするな。お前は海賊じゃない。ただのペットだ」

 イジーはスティードの手を踏みつけた。グリ、と踵に力が入る。

「痛っ!」

「この船が赤道を越える頃には、お前が事故で海に落ちていても、誰も不思議には思わんさ」

 イジーは唾を吐き捨て、闇の中へと消えていった。

 スティードはジンジンと痛む手をさすりながら、割れた眼鏡を拾い上げた。

 月が雲に隠れる。

 物語の時間は終わりだ。

 洋上には、再び殺伐とした現実の風が吹き始めていた。

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