第9話:凪(なぎ)の煉獄
海から「音」が消えた。
風が止んだのだ。
赤道付近、無風地帯。
そこは帆船にとっての墓場だ。見渡す限りの鏡のような海面。照りつける太陽は容赦なく甲板を焼き、気温は体温を超えて上昇し続ける。
『アン女王の復讐号』は、腐りかけた海藻のように、ただ海に浮いているだけだった。
「……暑い。溶けそうだ」
スティード・ボネットは、日陰を探してマストの下にうずくまっていた。自慢のシルクのシャツは汗で肌に張り付き、かつて優雅に整えられていた金髪は湿気で爆発している。
船内の雰囲気は最悪だった。
数日前まで『オデッセイア』の物語に目を輝かせていた海賊たちは、今や血走った目で互いを睨み合っている。
退屈と渇き。この二つが揃えば、人間は容易に獣に戻る。
「おい、水だ。水をよこせ!」
一人の船員が叫び、水樽の番をしている男に掴みかかった。
「もうねえよ! 最後の一杯はキャプテンの分だ!」
「知るか! 俺は喉が焼けて死にそうなんだ!」
短剣が抜かれ、乾いた甲板に鮮血が飛び散る。
スティードは悲鳴を上げて目を覆った。
「やめないか! 争っても喉は潤わないぞ!」
だが、誰も彼の言葉になど耳を貸さない。
その混乱の中、コツ、コツ、と不気味な足音が響いた。
イジー・ハンズだ。
彼は汗一つかかず(あるいは汗さえ枯れ果てて)、冷徹な目で暴動寸前の船員たちを見回した。
「……静かにしろ、ウジ虫ども」
イジーの声は小さいが、ナイフのように鋭く通り、喧騒を切り裂いた。
「風が止まって五日だ。水も尽きた。なぜだと思う?」
船員たちが顔を見合わせる。
イジーはゆっくりと、マストの下で震えるスティードを指差した。
「『ヨナ』がいるからだ」
ヨナ。船に災いをもたらす不吉な存在。
「この貴族崩れが乗ってから、俺たちは調子が狂った。海賊の誇りを忘れ、オレンジの皮をかじり、お伽話に現を抜かした。……海神がお怒りなんだよ」
船員たちの視線が、一斉にスティードに突き刺さる。
先週までの好意的な眼差しは消え失せ、そこには迷信深い船乗り特有の、狂信的な敵意があった。
「そうだ……こいつが来てからだ」
「こいつが不運を運んできたんだ!」
「海に捨てろ! 生贄にすれば風が吹く!」
ジリジリと包囲網が狭まる。
スティードは後ずさり、背中が手すりに当たった。逃げ場はない。
「ま、待ってくれ! これは気象現象だ! 高気圧の停滞によるもので、私という個人に因果関係は……」
「理屈はいいんだよ!」
巨漢の男がスティードの首を掴み、宙に吊り上げた。
「エドワード! エドワード、助けてくれ!」
スティードは必死に叫んだ。
船尾楼の上、黒髭エドワード・ティーチが腕組みをして見下ろしているのが見えた。
だが、黒髭は動かない。
その目は冷たく、ただ「どうなるか」を観察しているようだった。
(俺を楽しませろと言ったはずだ。死ぬならそれまでだ)という無言のメッセージ。
スティードの体が、船べりから外へ押し出される。眼下には、凪いだ海にサメの背びれが静かに波紋を描いている。
「終わりだ、道化師」
イジーが嘲笑うように言った。「あの世で好きなだけ本を読んでろ」
その時。
死の淵で、スティードの脳裏に、かつて読んだ何でもない一冊の本の記述が蘇った。
『気象と航海術』――著者は王立協会の学者だ。
彼はぶら下がった状態で、水平線の一点を凝視した。
空は青く、雲ひとつない。
だが、海面の色が、遠くの方でわずかに、本当にわずかに濃くなっている。そして、海鳥が一羽、奇妙に低い位置を飛んでいる。
「……来る」
スティードが掠れた声で呟いた。
「あぁ? 遺言か?」
「来るぞおおおおお!!」
スティードは全身の力を振り絞って絶叫した。
「帆を広げろ! 急げ! スコールが来るぞ!」
海賊たちが動きを止めた。
「ハッ、何言ってやがる。雲ひとつねえじゃねえか」
「嘘に決まってら!」
だが、その直後だった。
頬に、ポツリと冷たいものが当たった。
誰もが空を見上げた。
ズドォォォォォン!!
遠くで雷鳴が轟いたかと思うと、一瞬にして空が暗転した。
熱帯特有のスコール。それも、猛烈なやつだ。
突風が吹き荒れ、マストが軋む。そして、バケツをひっくり返したような豪雨が降り注いだ。
「雨だ! 雨だあああ!」
「水だ! 飲み放題だぞ!」
海賊たちはスティードを放り出し(彼は甲板に叩きつけられた)、歓喜の声を上げて雨水を口で受け止めた。
桶を出し、帆を広げて水を溜める。狂乱の宴だ。
ずぶ濡れになりながら、スティードは荒い息をついて立ち上がった。
イジー・ハンズが、信じられないものを見る目で彼を見ていた。
「……貴様、なぜ分かった?」
スティードは、ずり落ちた眼鏡を直しながら、精一杯の皮肉を込めて言った。
「本には何でも書いてあるんですよ、ミスター・ハンズ。……鳥が低く飛ぶのは気圧が下がった証拠。海面の色が変わるのは風が起きる前兆。教養があれば、魔法使いになる必要はないのです」
イジーは何も言い返せず、悔し紛れに舌打ちをして去っていった。
船尾楼の上。
黒髭は、雨に打たれながらニヤリと笑った。
彼は手すりから身を乗り出し、甲板でへたり込んでいるスティードに向かって親指を立てた。
「合格だ、ボネット」
風が戻った。
『アン女王の復讐号』は息を吹き返し、水をたっぷりと含んだ帆を張って、再び東へと進み始めた。
死の凪を越え、彼らはついに「魔の海域」――アフリカ大陸の南端、喜望峰へと近づいていた。
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