第10話:喜望峰の幽霊船
「喜望峰」。
その美しい名とは裏腹に、そこは船乗りにとっての墓標だった。
大西洋とインド洋がぶつかり合うこの海域は、常に荒れ狂い、霧が立ち込め、伝説上の幽霊船『フライング・ダッチマン』の目撃談が絶えない魔境だ。
『アン女王の復讐号』は、轟音を立てる荒波に揉まれていた。
「おえぇぇぇ……」
スティード・ボネットは、船べりから身を乗り出し、胃の中身をすべてインド洋に献上していた。
「揺れすぎだ……これほど揺れるなんて聞いてない……」
「しっかりしろ、相棒」
黒髭が楽しげに舵輪を握りながら叫んだ。彼は嵐の中にいる時が一番生き生きしている。
「ここを抜ければマダガスカルだ! 海賊たちの天国が待ってるぞ!」
その時、マストの上から見張りの声が風にちぎれながら届いた。
「船だ! 前方に大型船! オランダ東インド会社の旗だ!」
黒髭の目が鋭く光った。
「オランダ船か。あいつらは金持ちだが、武装も強力だ。まともにやり合えばただじゃ済まねえ」
彼は懐から望遠鏡を取り出し、霧の向こうを睨んだ。
「……チッ、大砲が二十門も見えやがる。今のウチの弾薬じゃ、撃ち合いは分が悪いな」
イジー・ハンズが近づいてきた。
「どうします、エド。無視して抜けますか? それとも夜襲をかけますか?」
黒髭が判断に迷った一瞬の隙に、青白い顔をしたスティードがふらふらと近づいてきた。
「……演劇、です」
「はあ?」イジーが顔をしかめる。
「演劇ですよ……。ここは喜望峰。幽霊船の伝説がある場所だ」
スティードは口元を拭い、ニヤリと――吐き気のせいか不気味に――笑った。
「彼らは霧で神経が磨り減っているはず。そこに『本物の幽霊』が現れたらどうなると思いますか? 戦わずして勝つ。それが『恐怖の演出』でしょう、エドワード?」
黒髭は数秒間きょとんとした後、破顔した。
「ハッ! 面白い! 採用だ! おい野郎ども、戦闘準備だ! ただし、剣じゃねえ! 白粉とランタンを用意しろ!」
夜の帳が下り、海は濃い霧に包まれていた。
オランダ商船の甲板では、見張り番たちが松明の灯りを頼りに、不安げに海を見つめていた。
その時。
闇の奥から、不気味な鐘の音が響いた。
ゴーン……ゴーン……。
「な、なんだ?」
「おい、あそこを見ろ!」
霧の中から、ぼんやりと光る巨大な影が浮かび上がった。
『アン女王の復讐号』だ。だが、今の姿は異様だった。
帆はボロボロに見えるように細工され、船体のあちこちに吊るされたランタンが、緑色のガラスを通して不気味な燐光を放っている。
そして、甲板には、白い布を被った亡者たちが、ゆらゆらと揺れていた。
「ひぃっ! フライング・ダッチマンだ!」
「呪われるぞ!」
オランダ船の船員たちがパニックに陥る中、さらに恐ろしい光景が現れた。
船首像の上に立つ、二つの影。
一人は、全身から黒い煙を噴き出し、目が赤く光る(ようにメイクした)悪魔、黒髭。
もう一人は、真っ白なシルクの寝間着を着て、顔を小麦粉で真っ白に塗った、奇妙な幽霊紳士。
「我々は……彷徨える魂……」
スティードが、筒状に丸めた海図をメガホンにして、低く唸るような声を出した。
「お前たちの積み荷を……冥土の土産に置いていけ……さもなくば、魂を喰らうぞぉ……」
「喰らうぞぉぉ!」
背後で海賊たちが(楽しそうに)合唱する。
黒髭が、隠し持っていた火薬玉を空中に放り投げた。
ドカン! バチバチバチ!
緑色の火花が散り、オランダ船の甲板を照らし出す。
「悪魔だ! 許してくれ!」
「荷物はやる! 命だけは!」
オランダ船の船長は、戦うどころではなかった。彼は震えながら降伏の旗を掲げ、船員たちは我先にとボートで逃げ出し始めた。
……数十分後。
一発の銃弾も撃つことなく、オランダ船の制圧は完了した。
船倉には最高級のスパイスと、絹織物、そして金貨が満載されていた。大勝利だ。
「ギャハハハハ! 見たかイジー! あいつらの顔!」
黒髭は腹を抱えて笑い転げていた。「『魂を喰らうぞ』だってよ! ボネット、お前最高だ!」
スティードも、小麦粉だらけの顔で笑った。
「いやあ、シェイクスピア劇団での鑑賞経験が活きました。『ハムレット』の亡霊のシーンを参考にしたのですが、少しやりすぎだったでしょうか?」
「いや、完璧だ。これこそが『伝説』だよ」
黒髭はスティードの肩に腕を回した。
「俺はずっと、力でねじ伏せることしか知らなかった。だが、お前のやり方は……何ていうか、粋だ」
二人は戦利品の山に腰掛け、奪ったばかりの極上のワインで乾杯した。
月明かりの下、荒くれ者の海賊王と、世間知らずの紳士海賊。
全く違う世界に生きてきた二人の魂が、この夜、初めて本当の意味で共鳴した。
だが、その光景を、マストの陰からじっと見つめる男がいた。
イジー・ハンズ。
彼は酒も飲まず、お祭り騒ぎにも参加せず、ただ冷ややかに、毒蛇のような目で二人を睨んでいた。
「……エド。あんたは『黒髭』だ。道化じゃない」
イジーは低く呟き、懐から小さな手紙を取り出した。
それは、前の港で密かに受け取っていた、謎の組織からの密書だった。
『白い軍艦は、裏切り者を歓迎する』
イジーは手紙を握りつぶし、海へと捨てた。
まだだ。まだ裏切る時ではない。
だが、もしエドワードがこれ以上「牙」を失うようなら……その時は、俺が「介錯」してやるしかない。
歓声に沸く船上で、裏切りの種が静かに芽吹いていた。
船は、海賊たちの楽園、マダガスカルへと針路をとる。
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