第11話:龍の女帝と不条理なマナー講座
マダガスカル島、北東部の入江。
そこは「海賊たちの楽園」と呼ばれていたが、スティード・ボネットの目の前に広がっていたのは、予想していた「酒と暴力の無法地帯」とはまるで違っていた。
「……なんて整然としているんだ」
スティードは甲板から港を見下ろし、感嘆のため息をついた。
港には数百隻ものジャンク船(中国式帆船)が、定規で引いたように一寸の狂いもなく整列して停泊している。
桟橋では、揃いの制服を着た男たちが黙々と荷物を運び、帳簿係が筆を走らせて在庫をチェックしている。怒号も、殴り合いも、泥酔者の歌声もない。
あるのは、巨大な時計仕掛けのような「規律」だけだった。
「気持ち悪りィ……」
黒髭は顔をしかめた。「なんだここは。役所か? 俺たちは間違ってロンドンに来ちまったのか?」
『アン女王の復讐号』が桟橋に近づくと、武装した小船が音もなく寄ってきた。
乗っていたのは、無表情な東洋人の役人だ。
「停泊許可証は? 入港税の申告は? 銃火器の登録は済んでいるか?」
黒髭が血管を浮き上がらせて怒鳴ろうとした。
「あぁン!? 俺様を知らねえのか! 黒髭だぞ! 俺の顔が許可証だ!」
役人は眉一つ動かさなかった。
「書類不備。出直せ」
「ぶっ殺すぞテメェ!」
「お待ちください、エドワード!」
スティードが割って入った。彼は目を輝かせながら、懐から羽根ペンを取り出した。
「書類ですね? 任せてください。私は『書類作成』に関しては、バルバドスの地主会で三年連続表彰された男です」
スティードは役人から羊皮紙を受け取ると、流れるような筆記体で必要事項を記入し始めた。
「船籍、トン数、積荷の内訳……ああ、この『備考欄』のスペースが狭いのが少し気になりますが、別紙添付でよろしいですか?」
役人はスティードが提出した完璧な書類を見て、初めて少しだけ表情を緩めた。
「……字が綺麗だ。合格。入港を許可する」
黒髭はポカンと口を開けた。
「……おい、マジかよ。銃よりペンが強い場所なんて実在したのか」
案内されたのは、断崖の上にそびえ立つ砦の最上階だった。
広大な広間には、最高級の絹の幕が垂れ下がり、香木の良い香りが漂っている。
その最奥、龍の彫刻が施された玉座に、彼女は座っていた。
鄭一嫂。
数万の海賊を束ねる、紅旗帮の首領。
彼女は小柄だったが、その纏う空気は黒髭以上に重く、鋭かった。扇子で口元を隠し、冷ややかな瞳で訪問者たちを見下ろしている。
「よく来たな、西の野蛮人たちよ」
彼女の声は鈴のように美しいが、同時に氷のように冷たい。通訳を介さず、流暢な英語だった。
「野蛮人だと?」イジー・ハンズが剣に手をかける。「ババア、口の利き方に気をつけろ。こっちは天下の黒髭だぞ」
シュッ。
風を切る音がしたかと思うと、イジーの頬に赤い線が走った。
鄭一嫂が扇子を一振りしただけで、隠し持っていた暗器(投げナイフ)が飛んだのだ。
「私の前で鉄屑に触れるな」
鄭一嫂は静かに言った。「ここでは私が法だ。礼儀を知らぬ犬は、飼い主ごと処分する」
広間の影から、数十人の兵士たちが音もなく現れ、弓を構えた。
絶体絶命だ。黒髭でさえ、この数と、統率された動きには冷や汗を流した。
「……へっ、厳しいねえ姉御」黒髭は両手を挙げておどけて見せた。「悪かったよ。だが、俺たちは茶飲み話に来たわけじゃねえ。共通の敵の話だ」
「『白い軍艦』のことか?」
鄭一嫂の目が光った。「知っている。東インド会社の新造艦隊だ。私のシマもいくつか焼かれた」
「なら話は早い! 手を組もうぜ。あんたの数と、俺の……」
「断る」
鄭一嫂は即答した。
「私は無能とは組まない。お前たちはただ暴れるだけの野良犬だ。組織戦を知らない。そんな連中と組めば、こちらの規律が乱れるだけだ」
交渉決裂。
兵士たちが弓を引き絞る。
その時、沈黙していたスティードが一歩前に出た。
「あの……お茶、冷めてしまいますよ?」
全員がスティードを見た。
彼は鄭一嫂の前のテーブルに置かれた茶器を指差していた。
「それは福建省の白茶ですね。淹れてから三分が命だ。それ以上置くと渋みが出る。……この素晴らしい香り、無駄にするのは犯罪的です」
鄭一嫂がピクリと反応した。
「……お前、茶が分かるのか?」
「ええ。私は英国紳士ですから。お茶に関しては譲れません」
スティードはニッコリと笑った。
「それに、あなたの組織運営には感銘を受けました。在庫管理、人事評価制度、リスクマネジメント……完璧です。ですが、一つだけ欠点がある」
「何だと?」
「『柔軟性』です。完璧なマニュアルは、想定外の事態に弱い。……例えば、海軍の常識を覆す新型兵器や、頭のおかしい幽霊船の演出といった『狂気』にはね」
スティードは黒髭の方を向いた。
「彼、エドワードは無作法で、不潔で、整理整頓ができません。ですが、彼は『常識の外』に住んでいる。あなたの完璧な軍隊に、この『猛毒』を加えれば、白い軍艦もイチコロでしょう」
長い沈黙が流れた。
鄭一嫂は扇子を閉じ、スティードをじっと見つめた。
そして、フッと笑った。
「面白い。西の海賊に、こんな雄弁な道化がいるとはな」
彼女は兵士たちに下がるよう合図した。
「いいだろう。同盟を考えてやってもいい。ただし条件がある」
彼女はスティードを指差した。
「お前だ。お前が私の『茶飲み友達』になれ。西の情勢と、最新のファッションについて聞かせてもらう」
「え? 私ですか?」
「不服か?」
「い、いえ! 光栄です! ちょうどスカーフの巻き方について議論したいと思っていたところで!」
危機は去った。
だが、広間を出たイジー・ハンズの表情は、かつてないほど歪んでいた。
黒髭だけではない。最強の女帝までもが、あのふざけた紳士に毒されていく。
「……もう我慢ならねえ」
イジーは闇に紛れ、港の裏路地へと消えた。
そこで彼は、待っていた怪しげな男に金貨を握らせた。
「例の白い船に伝えろ。『黒髭の首は、マダガスカルにある』とな」
龍の女帝との同盟が成立したその裏で、破滅へのカウントダウンが始まった。
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