第6話:恐怖という名の演出
翌朝、スティード・ボネットは、とてつもない早起きをした。
彼には使命があった。それは「この野蛮な船に、文明の光を灯すこと」である。
午前七時。
二日酔いで呻きながら目覚めた黒髭エドワード・ティーチは、自分の部屋の変貌ぶりに目を剥いた。
散乱していた宝物は部屋の隅に(色別に!)分類され、中央のテーブルには、レースのクロスが敷かれている。そして、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、オレンジマーマレードの甘い香りが漂っていた。
「……なんだこれは。毒ガス攻撃か?」
黒髭が寝ぼけ眼で呟く。
「おはようございます、エドワード! 朝食ですよ」
スティードが満面の笑みで振り返った。彼はどこから調達したのか、真っ白なエプロンをつけている。
「船のコック長――片目のピート君と言いましたか?――に頼み込んで、キッチンを借りました。彼らの作る『謎の煮込み』よりは、こちらのほうが胃に優しいはずです」
黒髭は警戒心丸出しでテーブルに近づき、恐る恐るトーストを手に取った。
カリッ、という音。続いて、マーマレードの甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
彼の目が大きく見開かれた。
「……美味い」
「でしょう! 隠し味に、リベンジ号からくすねてきたブランデーを少々入れて煮詰めたのです」
スティードは得意げに胸を張った。「衣食足りて礼節を知る、です。これであなたも、少しは心穏やかに過ごせるでしょう」
黒髭は無言でトーストを貪り食った。一枚、二枚、三枚。
野獣のような食べ方だが、その表情は明らかに緩んでいる。
だが、皿が空になると、彼はふと真顔に戻り、じっとスティードを見つめた。
「ボネット。飯は美味かった。だがな」
「はい?」
「お前、部下たちにナメられてるだろ」
スティードの笑顔が引きつった。図星だった。
今朝、キッチンへ行く道すがら、すれ違う乗組員たちに足を引っかけられ、背中に痰を吐きかけられ、「お嬢ちゃん」と嘲笑されたばかりだ。
「まあ、文化の違いと言いますか……彼らは少し、表現が粗暴なだけで……」
「違う。お前が『怖くない』からだ」
黒髭は立ち上がり、コートを羽織った。
「来い。食後の授業だ」
連れ出されたのは、朝の甲板だった。
海賊たちは忙しく動き回っているが、黒髭が現れた瞬間、空気が凍りついたように静まり返る。全員が作業の手を止め、敬礼に近い姿勢をとる。
黒髭は悠然と歩きながら、小声でスティードに囁いた。
「いいか、よく見ろ。俺は今、武器を抜いていない。大声も出していない。だが、こいつらは縮み上がってる。なぜだ?」
「あなたが……強いから?」
「ブッブー。間違いだ」
黒髭は立ち止まり、近くにいた巨漢の乗組員の前に立った。
男はガタガタと震え出し、視線を合わせようとしない。
黒髭は無言のまま、ゆっくりとポケットから何かを取り出した。
それは、ただの林檎だった。
彼は林檎を、ガリッ、と大きな音を立ててかじった。ただそれだけだ。
だが、目の前の男は「ヒィッ!」と悲鳴を上げて腰を抜かした。
「……正解は、『何をするか分からないから』だ」
黒髭はかじりかけの林檎をスティードに放り投げた。
「人間ってのはな、理解できないものを恐れる。俺は自分の髭に火をつけ、悪魔のフリをした。そうすれば、戦わずして勝てるからだ」
彼はニヤリと笑った。
「恐怖は暴力じゃない。演出だ。アートなんだよ」
「アート……」
スティードは林檎を握りしめ、感心したように頷いた。「なるほど。つまり、演技力が必要ということですね」
「そうだ。お前にはそれがない。だからナメられる」
黒髭は甲板の掃除をしている一人の男を指差した。
「やってみろ。あの新入りをビビらせてみろ。『俺はヤバい奴だ』と思わせるんだ」
「よし、分かりました!」
スティードは気合を入れた。
彼は新入りの海賊に近づくと、精一杯の怖い顔――眉間にシワを寄せ、口をへの字に曲げた顔――を作った。
そして、低い(つもりの)声で言った。
「おい、貴様。……私の朝食のトーストの焼き加減には、十分注意しろよ。さもないと……大変なことになるぞ!」
新入りの海賊は、ぽかんとスティードを見上げた。
そして、鼻で笑った。
「はあ? なんだこのオッサン。邪魔だ、どけよ」
男はスティードを突き飛ばそうとした。
その瞬間。
ドスッ、という鈍い音が響いた。
新入りの男の足元、わずか数センチの甲板に、短剣が突き刺さっていた。
投げたのは、黒髭ではない。
マストの陰から現れた、航海長イジー・ハンズだった。
「キャプテンの客人に触れるな」
イジーの声は低く、そして本物の殺意に満ちていた。新入りは悲鳴を上げて逃げ去った。
「……助太刀感謝するよ、ミスター・ハンズ」
スティードが礼を言おうとしたが、イジーは彼を見向きもしなかった。
彼はまっすぐに黒髭を睨みつけた。
「エド。遊んでないで、真面目にやってください」
イジーは苛立ちを隠そうともしなかった。「西の海域で、ベンジャミン・ホーニゴールドの船が『狩られた』そうです」
黒髭の表情から、先ほどの茶目っ気が消えた。
「狩られた? 誰にだ。海軍か?」
「いいえ。スペインでもイギリスでもない。……正体不明の『白い軍艦』だそうです」
「白い軍艦……?」
黒髭は髭を撫でた。「聞いたことがねえな」
「生存者の話じゃ、その船には国旗がなかったそうです。代わりに、奇妙な紋章があったと」
イジーは懐から、一枚の紙片を取り出した。生存者が描いたというその紋章のスケッチ。
それを見た瞬間、スティードが声を上げた。
「ああっ! それは!」
黒髭とイジーが同時にスティードを見た。
「知ってるのか?」
「ええ、見たことがあります」
スティードは震える声で言った。
「これは……私の故郷、バルバドスの総督府に飾ってあった紋章です。確か、『東インド貿易会社』の特別警護部門……通称『整理屋』のマークです」
黒髭の目が細められた。
それは獲物を狙う獣の目ではなく、迫り来る嵐を予感する船乗りの目だった。
「貿易会社だと? 商人が海賊狩りを始めたってのか?」
「ただの商人じゃありません」スティードは青ざめていた。「彼らは利益のためなら、国家さえも動かす怪物です」
時代の歯車が、軋んだ音を立てて回り始めた。
優雅な朝食と、恐怖のレッスンの時間は終わりだ。
黄金時代の終わりの始まりを告げる「白い死神」が、すぐそこまで迫っていた。
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