第5話:悪魔の船の、優雅ならざる個室
『アン女王の復讐号』。
その船は、海に浮かぶ巨大な棺桶のようだった。
船体は黒く塗られ、手すりには人間の肋骨や頭蓋骨が装飾として打ち付けられている。甲板を歩く乗組員たちは、言葉を話すというよりは獣のように唸り、すれ違いざまに肩がぶつかればナイフが飛ぶ。
そこには、先ほどのラカムの船にあった「陽気な無秩序」すらない。あるのは、息が詰まるような「恐怖による統制」だけだった。
「ひぃ……」
スティード・ボネットは、両脇を大男たちに抱えられ、足が地につかない状態で船内を引きずられていた。
すれ違う海賊たちが、ギロリと彼を睨む。その視線だけで、寿命が三年は縮まりそうだった。
「入れ」
荒っぽく放り込まれたのは、船尾にある船長室だ。
スティードは床に無様に転がったが、すぐに体勢を立て直し、埃を払った。
「やれやれ、手荒な歓迎だこと……」
彼が顔を上げると、そこは異様な空間だった。
広い。確かに広いのだが、部屋中が略奪品で埋め尽くされている。
金銀財宝、ペルシャ絨毯、象牙の彫刻、そして得体の知れない干し首。それらが何の脈絡もなく積み上げられ、まるでゴミ屋敷のようだった。
「どうだ、俺の城は」
背後で重い扉が閉まる音と共に、黒髭の声が響いた。
彼はゆっくりと歩み寄り、豪勢な椅子にドカリと腰を下ろした。
スティードは恐る恐る口を開いた。
「ええと、その……素晴らしいコレクションですね。ただ、少々、整理整頓が必要かと。特にあのルネサンス様式の絵画の上に、干し肉を置くのは感心しませんな。油絵が痛みますよ」
黒髭は片眉を上げた。
「俺が聞いているのは、怖いか怖くないかだ」
「あ、失礼しました。怖いです。非常に」
「……ふん」
黒髭はつまらなそうに鼻を鳴らすと、顔の周りでチリチリと燃えていた導火線を、指で乱暴につまんで消し始めた。
ジュッ、という音と共に火が消え、焦げ臭い匂いが漂う。
全ての火を消し終えると、彼は深く溜息をつき、椅子の背もたれにぐったりと体を預けた。
「あー……熱ぃ。煙てぇ」
その姿は、地獄の悪魔というよりは、残業明けの疲れた中年サラリーマンのようだった。
スティードは目を丸くした。
「あの、ミスター・ティーチ? 大丈夫ですか?」
「うるせえ。仕事だよ、仕事」
黒髭は気だるげに手を振った。
「こうやって煙を出して、目をひん剥いてりゃ、大抵の敵は戦う前に降伏する。弾薬の節約にもなるし、部下もビビって反乱を起こさねえ。……だがな、毎日毎日ヒゲを燃やす身にもなってみろ。髪は痛むし、肌は荒れる」
スティードは思わず身を乗り出した。
「分かります! 分かりますとも! 乾燥は大敵ですよね。私は毎晩、ローズヒップのオイルを塗っていますが、もしよろしければ……」
「いらん」
黒髭はテーブルの上のボトルを掴み、直接あおった。
「それよりお前だ、ボネット。俺の髭を笑ったのは、お前が初めてだ」
「笑ってなどいません。純粋に心配しただけで」
「それがおかしいんだよ。どいつもこいつも、俺の顔色ばかり窺って、震えてやがる。……退屈なんだよ」
黒髭の瞳に、暗い影が落ちた。
それは恐怖を与える者の孤独。頂点に立つ者の虚無感。
スティードは、この野獣のような男の中に、自分と似た「退屈」の匂いを感じ取った。バルバドスの書斎で感じていた、あの窒息しそうな閉塞感を。
その時、ノックもなしにドアが開いた。
「キャプテン」
入ってきたのは、小柄だが針金のように引き締まった男だった。禿げ上がった頭、鋭い目つき、そして左足を引きずっている。
黒髭の右腕、航海長のイジー・ハンズだ。
イジーは部屋に入るなり、スティードを見て露骨に顔をしかめた。
「キャプテン・エドワード。なんでこんなゴミを拾ってきたんです? ラカムに金でも貰ったんですか」
「金なんぞ腐るほどあるだろ、イジー」黒髭はあくびをした。「こいつはペットだ。名前は……なんだっけ?」
「スティード・ボネットです」スティードは立ち上がり、右手を差し出した。「以後お見知り置きを」
「触るな、軟弱者」
イジーはスティードの手を払い除けた。「俺はこの船の規律を守るのが仕事だ。貴様のような異物がいるだけで、士気に関わる。今すぐ海に捨てましょう、エド」
イジーの手が剣の柄にかかる。本気の殺気だ。
スティードが「ひぇっ」と縮こまると、黒髭が低い声で唸った。
「イジー」
「はっ」
「俺のペットに触るな」
ただの一言。
だが、その声には絶対零度の冷徹さが宿っていた。さっきまでの「疲れた中年」の雰囲気は消え失せ、再び「悪魔」の空気が部屋を支配する。
イジーは悔しそうに歯を食いしばり、手を引いた。
「……御意。ですが、後悔しますよ」
イジーが出て行くと、黒髭は再びダラリと脱力した。
「堅苦しい奴だろ? 昔からの付き合いだが、最近小言が多くてな。まるで女房だ」
スティードは、自分の妻メアリーの顔を思い出し、深く頷いた。
「同感です。理解者がいないというのは辛いものですね」
黒髭はニヤリと笑った。
「お前、変な奴だな。……いいだろう、ボネット。しばらくこの部屋に置いてやる。俺を楽しませろ。もし俺が『退屈だ』と感じたら、その時は……」
彼は親指で自分の首を掻き切るジェスチャーをした。
「承知しました」
スティードは、なぜか恐怖よりも高揚感を感じていた。
この男は、自分を「地主のボネット」でも「金づる」でもなく、「変な奴」として見てくれている。
「では手始めに、この部屋の模様替えから始めましょうか。風水的に最悪です」
「ふうすい?」
「ええ。まずはその干し首を、窓際から片付けましょう」
こうして、悪魔の船の一室で、奇妙な共同生活が幕を開けた。
だが、スティードはまだ気づいていない。
イジー・ハンズの嫉妬に燃える目が、ドアの隙間からじっと自分を狙っていることに。
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