第4話:悪党たちの共和国
ナッソーの地面は、泥と汚物、そして何千もの酒瓶の破片で舗装されていた。
ジョン・ラカムに連行され、タラップを降りたスティード・ボネットの第一声は、感嘆ではなく悲鳴だった。
「おおっと! 私のイタリア製の靴が!」
ぬかるみに足を取られ、泥だらけになった革靴を見て、スティードは涙目になった。「これ、オーダーメイドなんだぞ……」
「歩け、金づる」
背後からアン・ボニーに背中を小突かれ、彼はよろめきながら「海賊共和国」の目抜き通りへと足を踏み入れた。
そこは、スティードが書物で読んだ「自由の園」とは似ても似つかぬ場所だった。
通り沿いにはボロボロのテントや掘っ立て小屋が並び、そこかしこで男たちが殴り合っている。賭博に負けた者が身ぐるみを剥がされ、勝った者は娼婦を侍らせて高笑いしている。
ルールなどない。あるのは剥き出しの暴力と欲望だけだ。
「おい、見ろよ!ジャック! なんだそのピカピカの捕虜は!」
通りすがりの海賊たちが、口笛を吹いて冷やかす。
「身代金用か? それともお前の新しい恋人か?」
「うるせえ!」
ラカムは威嚇するように四丁のピストルを見せびらかし、肩で風を切って歩いた。「こいつは俺の戦利品だ。指一本触れてみろ、鉛玉をぶち込むぞ!」
スティードはおっかなびっくり周囲を見回しながら、ラカムに尋ねた。
「あの、キャプテン・ラカム。我々はどこへ? もしよろしければ、身代金の手紙を書くためのペンと紙を……」
「黙ってついて来い。まずは『挨拶』だ」
「挨拶?」
「ああ。この島の王に、仁義を切らなきゃなんねえんだよ」
ラカムの表情が、わずかに曇っている。
彼らは港を見下ろす高台にある、一際大きな建物――元は総督官邸だったが、今は巨大な酒場兼売春宿に改造された廃墟――へと向かった。
酒場の重い扉が開かれると、喧騒が爆発した。
数百人の海賊たちがひしめき合い、煙草の紫煙が充満し、視界が白く霞んでいる。
ラカムが入ってくると、近くにいた数人が手を挙げたが、部屋の奥の方からは重苦しい沈黙が波紋のように広がっていった。
「……空気が重いな」
アンが呟き、腰のカトラスに手を添える。
部屋の最奥。
そこだけ、誰も近づこうとしない特等席があった。
暗がりの中に、大柄な男が座っている。
巨大な体躯。熊の毛皮のようなコート。そして、胸元まで豊かに垂れ下がった、漆黒の髭。
その髭には、信じがたいことに、ゆっくりと燃える導火線が数本、編み込まれていた。チリチリと火花が散り、顔の周りに不気味な煙を漂わせている。
エドワード・ティーチ。
通称「黒髭」。
スティードは息を呑んだ。
本で読んだ挿絵そのままだ。いや、実物が放つ威圧感は、紙の上とは比較にならない。まるで地獄の釜の蓋が開いたような、圧倒的な「死」の気配。
「よお、ティーチの旦那」
ラカムが、努めて明るい声を出して近づいていく。「久しぶりじゃねえか。元気そうだな」
黒髭はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、底なしの沼のように暗く、光を吸い込んでいた。彼は無言で、手元のマグカップを傾けている。
「……俺ァてっきり、あんたはまだカロライナ沖で暴れてると思ってたぜ」ラカムの額に脂汗が滲む。「俺もいい稼ぎをしてな。ほら見ろ、このマヌケ面した捕虜を。こいつ、自前の船で海賊ごっこをしてたんだとよ! 傑作だろ?」
ラカムは背後のスティードを親指で指した。
酒場中の視線がスティードに集まる。嘲笑、侮蔑、憐れみ。
だが、黒髭は笑わなかった。
彼はゆっくりと立ち上がった。その巨体はラカムより頭二つ分も大きい。
彼はラカムを完全に無視し、スティードの目の前まで歩み寄った。
硫黄と火薬、そして血の匂いが、スティードを包み込む。
「ひっ……」
スティードは恐怖で膝が震えた。殺される。間違いなく、今ここで首をへし折られる。
黒髭は顔を近づけ、燃える導火線の煙をスティードに吹きかけた。
そして、地を這うような低い声で言った。
「……お前」
「は、はいっ!」
「いい服を着てるな」
予想外の言葉に、スティードは瞬きをした。
「え? あ、ありがとうございます。これはフランス製のシルクで、ボタンは真珠貝を使っておりまして……」
恐怖のあまり、スティードの口が勝手に「世間話モード」に切り替わってしまった。
「ですが、ここに来る途中で泥が跳ねてしまいましてね。本当に残念です。このシミ、ワインで落ちるでしょうか?」
酒場が静まり返った。
黒髭相手に、服のシミの相談をする奴など、歴史上存在しなかったからだ。
ラカムが顔面蒼白で止めようとするが、スティードは止まらない。
「ところで、あなたのその髭。とても……個性的ですね。煙たくありませんか? 火傷の心配はないのですか?」
黒髭の目が、わずかに見開かれた。
彼は数秒間、この場違いな小男をじっと見つめた後、突然、雷のような大声で笑い出した。
「ガハハハハハハ! 火傷だと! 煙たくないかだと!」
黒髭はテーブルを拳で叩き割らんばかりに叩いた。
「おい聞いたか野郎ども! このチビ、俺を心配してやがる!」
ドッと酒場が沸いた。緊張の糸が切れ、爆笑の渦が巻き起こる。
黒髭は涙を拭いながら、スティードの肩を――脱臼しそうなほどの力で――バシバシと叩いた。
「面白い。気に入ったぞ、道化師!」
黒髭はニヤリと笑い、牙のような白い歯を見せた。
「ラカム。この男、俺が預かる」
「はあ!?」ラカムが素っ頓狂な声を上げた。「待ってくれ旦那! こいつは俺の獲物だ! 身代金だって……」
「聞こえなかったか?」
黒髭の声から、一瞬で笑いが消えた。
彼は腰の短銃に手をかけ、冷酷な眼差しをラカムに向けた。
「俺が『預かる』と言ったんだ。……不服か?」
ラカムは唇を噛み締め、アンと顔を見合わせた。
ここで黒髭とやり合えば、全滅する。
「……チッ。分かったよ。好きにしな」
「交渉成立だ」
黒髭は再び満面の笑みを浮かべ、スティードの腕を掴んで引き寄せた。
「来い、おしゃれな紳士様。俺の船で、その『服のシミの落とし方』とやらをじっくり教えてくれ」
「え、あの、私は……」
スティードは助けを求めてラカムたちを見たが、彼らは目を逸らした。
こうして、スティード・ボネットは、海賊界の最恐の悪魔、エドワード・ティーチの「客」として連れ去られることになった。
これが、歴史に残る奇妙な友情――そして、世界をひっくり返す大騒動の始まりだった。
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