第3話:豚小屋の晩餐会
海賊船の船倉という場所は、この世のあらゆる悪臭を煮詰めたような場所だった。
腐った海水、ネズミの死骸、吐瀉物、そして絶望。
スティード・ボネットは、暗闇の中で手足が縛られたまま、高級なシルクの部屋着が汚泥にまみれていく感触に身震いしていた。
「不衛生だ……あまりにも不衛生すぎる」
彼は恐怖よりも先に、環境の劣悪さに打ちひしがれていた。
バルバドスの屋敷では、シーツの糊付けが甘いだけでメイドに小言を言っていた男だ。それが今や、足元を這い回る巨大なドブネズミと目を合わせている。
「いいかい、君。私の足は食べ物じゃないよ。あっちに行きなさい。シッ!」
その時、頭上の格子戸が開き、光と共に荒々しい声が降ってきた。
「おい、貴族野郎! 出番だ。キャプテンがお呼びだぞ」
引きずり出されたスティードは、目も開けられないほどの太陽の眩しさにクラリとした。
だが、連れて行かれたのは処刑台ではなく、船尾にある船長室だった。
ドアが開くと、ムッとするような熱気と、ローストされた肉の匂いが鼻をついた。
部屋の中央にあるテーブルには、ジョン・ラカムとアン・ボニーがふんぞり返るように座っていた。テーブルの上には、奪ったばかりの食料と酒が乱雑に積み上げられている。
「座れよ、金づる」
ラカムが骨付き肉をかじりながら顎で椅子をしゃくった。
「せっかくだ。俺たちの『勝利の宴』に参加させてやる」
スティードは躊躇いながらも椅子に座った。両手の縄は解かれたが、背後には銃を構えた見張りが立っている。
「……ご招待、感謝するよ。ミスター・ラカム」
「キャプテン・ラカムだ」
「失礼。キャプテン。それで、私の処遇について話し合いを……」
「話す? バカ言え」
ラカムは口元の脂を袖で拭った。「お前のことを見てると笑えるんだよ。退屈しのぎに呼んだだけだ。なぁ、アン?」
アン・ボニーはナイフでテーブルの木目を削りながら、気だるげに答えた。
「あたしは反対したんだけどね。さっさと身代金の手紙を書かせて、海に放り込めばいい」
「冷たいこと言うなよ。こいつ、海賊に『給料』を払ってたんだぜ? 傑作じゃねえか!」
ラカムは腹を抱えて笑った。部下たちも下卑た笑い声を上げる。
スティードはムッとして背筋を伸ばした。
「笑い事ではない。労働には対価が必要だ。それが文明的な組織というものだ」
「文明的?」アンが鼻で笑った。「ここは海だよ。力のある奴が奪い、弱い奴が死ぬ。それだけの場所さ」
彼女はナイフを突き立て、スティードの目の前にあったワインボトルを乱暴に開けた。コルクの破片がワインの中に落ちる。
「ほら、飲みな。あんたの船から奪った上等な酒だ」
スティードはグラスに注がれたワインを見て、眉をひそめた。コルク片が浮いている。それに、グラスの縁が汚れている。
「……あの、もしよろしければ、新しいグラスと、デキャンタを用意してもらえないだろうか? 澱が沈殿していないワインは、風味を損なうのでね」
一瞬、部屋が静まり返った。
見張りの海賊たちが「こいつ、殺されるぞ」という顔をする。
ラカムは目を丸くし、アンは呆れて口を開けた。
「……本気で言ってんのか、お前?」ラカムが低い声で尋ねる。
「もちろんだ。どんな状況であれ、品位を忘れては獣と同じだ」
スティードは震える手で、しかし毅然と、ポケットからハンカチを取り出し、汚れたグラスの縁を拭った。
その動作は、滑稽なほどに優雅だった。
数秒の沈黙の後、ラカムが爆笑した。
「ギャハハハハ! 最高だ! お前、イカれてやがる! 気に入ったぜ、アン、こいつは殺すな。ペットとして飼おう!」
「正気かい、ジャック」アンは溜息をついたが、その目から殺意は消えていた。「まあいいさ。次の島まで持てばの話だけどね」
「次の島?」スティードが尋ねる。
「ああ。俺たちの本拠地だ」
ラカムはニヤリと笑い、窓の外を指差した。
「見えてきたぜ。世界で一番自由で、一番腐った楽園がな」
スティードが窓の外を見ると、水平線の向こうに島影が見えた。
美しい白砂のビーチと、エメラルドグリーンの海。しかし、近づくにつれて、その実態が明らかになってきた。
港を埋め尽くす無数の海賊船。
浜辺に打ち上げられた船の残骸。
風に乗って聞こえてくるのは、絶え間ない銃声と、狂乱の宴の音。
「ニュープロビデンス島、ナッソーだ」
ラカムが歌うように言った。
「法も、王も、神さえもいない。ここにあるのは欲望だけだ」
そこは、スティードが本で読んだ「冒険の拠点」などではなかった。
そこは、悪党たちが巣食う巨大なスラムであり、地獄の入り口だった。
「ようこそ、海賊共和国へ」
アンが皮肉っぽく囁く。
船が港に入ると、異様な光景が広がっていた。
絞首台に吊るされた死体が風に揺れ、その下で売春婦たちが客を引いている。泥酔した男たちが殴り合い、勝者が敗者の財布を抜き取る。
そして、港の中央、一番目立つ場所に停泊している、一際巨大な軍船。
そのマストには、黒地に白の骨、そして心臓を突き刺す槍の旗が翻っていた。
「あれは……?」
スティードが息を呑んで指差すと、ラカムの表情から笑みが消えた。
あの傲慢なラカムが、明らかに緊張した面持ちで、その船を見上げている。
「『クイーン・アンズ・リベンジ(アン女王の復讐)号』だ」
ラカムが声を潜めた。
「黒髭がいる。……最悪のタイミングで帰ってきやがったな」
スティードの背筋に冷たいものが走った。
黒髭。エドワード・ティーチ。
あらゆる海賊物語の中で、最も恐ろしい悪役として語られる男。
「おい、貴族野郎」ラカムがスティードの肩を叩いた。「祈っときな。あの男の機嫌が悪くないことを。もし機嫌が悪けりゃ、俺もお前も、今夜中にナッソーの野良犬の餌だ」
リベンジ号を奪われ、捕虜となったスティード・ボネット。
彼が足を踏み入れようとしているこの島で、運命の歯車が大きく動き出そうとしていた。
最強の悪夢との対面まで、あとわずか。
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