第2話:更紗の男と二本の剣
その船は、まるで獲物に襲いかかる鮫のように近づいてきた。
ジョン・ラカムの船は、スティード・ボネットの『リベンジ号』よりも一回り大きく、船体には無数の傷跡――歴戦の勲章――が刻まれている。
何より決定的な違いは「音」だった。
スティードの船が「えーと、どうしましょう」という戸惑いのざわめきに包まれているのに対し、ラカムの船からは、獲物を前にした獣の唸り声のような、獰猛な歓声が響いていたのだ。
「船長、大砲の用意を!」操舵手のビリーが叫ぶ。
「待ちなさい! 同じ海賊同士だぞ? いわば同業者だ。挨拶もなしに撃ち合うなんて野蛮すぎる」
スティードは震える手で襟元を直し、甲板の最前列に立った。
彼は隣の船に向かって、精一杯の笑顔を作り、帽子を振った。
「やあ! ごきげんよう! 私はスティード・ボネット、こっちは新造船のリベンジ号だ! 素晴らしい天気だね!」
返答は、言葉ではなく鉛の弾だった。
乾いた発砲音と共に、スティードがかぶっていた羽根付き帽子が吹き飛び、マストに突き刺さる。
「ヒッ……!」
短い悲鳴を上げてしゃがみ込むスティード。
次の瞬間、ラカムの船からフック付きのロープが何本も投げ込まれた。
「野郎ども、乗り込めぇ!」
「皆殺しにして積み荷を奪え!」
叫び声と共に、薄汚れた男たちが猿のようにロープを伝って乗り込んでくる。
本物の略奪だ。
スティードの雇った乗組員たちは、一瞬だけ武器を構えたが、すぐに顔を見合わせた。
「おい、契約書に『死ぬ気で戦う』なんて書いてあったか?」
「いや、『週給制・食事付き』だけだ」
「だよな。割に合わねえ」
ガラン、と剣が床に落ちる音がした。
リベンジ号の乗組員たちは、抵抗もせず両手を挙げて降伏したのだ。金で繋がった忠誠心など、紙切れよりも脆い。
「なっ……諸君!? 契約不履行じゃないか!」
スティードが叫ぶが、もう遅い。彼はあっという間に敵の海賊たちに取り囲まれた。
そして、悠然とタラップを渡って、その男が現れた。
ジョン・ラカム。「キャリコ・ジャック」。
派手なインド更紗のジャケットを羽織り、胸元を大きく開け、腰には四丁ものピストルをぶら下げている。伊達男という噂通りだが、その目は爬虫類のように冷たく笑っていた。
「やれやれ、妙な船だとは思っていたが」
ラカムはスティードの目の前まで歩み寄ると、靴の先でスティードの顎を持ち上げた。
「抵抗もしねえ腰抜けばかりか。おい、お前が船長か? そのピカピカの服、舞踏会の帰りか何かか?」
「ぶ、無礼な! 私は紳士だぞ!」
スティードは必死に虚勢を張った。「話し合いをしよう。君たちが欲しいのは砂糖か? それとも本か?」
「本だぁ?」
ラカムは呆れたように鼻を鳴らすと、部下に目配せをした。
部下の一人が船長室から数冊の本と、高級なティーセットを放り投げてきた。ラカムは美しい陶磁器のカップを空中でキャッチすると、わざとらしく指で弾き、甲板に叩きつけて割った。
「ああっ! それはウェッジウッドの……!」
「うるせえよ、貴族崩れ」
ラカムはニヤリと笑った。「俺たちが欲しいのは、こういうガラクタじゃねえ。金と、ラム酒と、弾薬だ。……おい、アン! 船倉はどうだ?」
呼ばれて現れたのは、小柄な人影だった。
男物のシャツにズボン。だが、その胸の膨らみと、腰まで伸びた燃えるような赤毛は隠しようがない。
アン・ボニー。
彼女は両手に二本のカトラス(海賊刀)をぶら下げ、不機嫌そうに甲板に出てきた。その顔には返り血が一筋ついている。
「ジャック、最悪だよ」
アンの声は低く、ハスキーだった。
「酒がない。あるのは紅茶の葉っぱと、ジャムの瓶だけだ。この船、どうなってんだい? まるでピクニック船だ」
「マジかよ」ラカムは大げさに頭を抱えた。「酒のねえ海賊船なんて、帆のない船よりタチが悪いぜ」
アンは鋭い視線をスティードに向けた。
彼女は無言で近づくと、スティードが腰に下げているサーベルを一瞥した。
「あんた、その剣。飾りかい?」
「え? いや、これは護身用で……」
「抜いてみな」
「は?」
「抜いてみなって言ってんだよ!」
アンの蹴りがスティードの鳩尾に突き刺さった。
「ぐふっ!」
うずくまるスティードの顔の横に、アンの剣が深々と突き立てられる。切っ先が床板を削り、木屑が舞った。
「いいかい、ボンボン。海ってのはね、おママごとの場所じゃないんだ」
アンは冷ややかな瞳で見下ろした。「あんたみたいなのが浮いてると、目障りなんだよ。……ジャック、こいつらどうする? 全員サメの餌にするかい?」
スティードは息を呑んだ。
死ぬ。
バルバドスの書斎で夢見た冒険は、こんなにもあっけなく、惨めで、痛みと恐怖に満ちたものだったのか。
彼の目から、情けないことに涙が滲んだ。
ラカムは少し考え込むような仕草を見せた後、ニヤリと笑った。
「待てよ、アン。こいつの服、仕立てがいい。それにこの船自体は悪くねえ。……おい、デブ」
ラカムはスティードの胸ぐらを掴み上げた。
「お前、金は持ってるな?」
「も、もちろんだ。屋敷にはまだ資産が……」
「よし。なら殺すのは勿体ねえ」
ラカムは部下たちに向かって叫んだ。
「野郎ども! 予定変更だ! この船と積荷はいただく。こいつらマヌケな乗組員たちはボートで流してやれ」
「で、こいつは?」アンが顎でスティードを指す。
「こいつは連れて行く。人質だ。身代金が取れるかもしれねえし、何より……」
ラカムは意地悪く笑った。
「退屈しのぎの玩具にはなりそうだからな」
スティード・ボネットの最初の航海は、こうして終わった。
自らの船『リベンジ号』を奪われ、プライドを粉々に砕かれ、本物の海賊たちの捕虜となる。
だが、絶望の淵で震える彼はまだ知らない。
この最悪の出会いこそが、彼を歴史の表舞台――「海賊の黄金時代」の中心へと引きずり込む、運命の第一歩であることを。
「連れて行け!」
ラカムの怒号と共に、スティードは乱暴に引き立てられた。
遠ざかるリベンジ号のマストには、彼がデザインした可愛らしい「天秤とハート」の旗が、哀れっぽく風に揺れていた。
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